辺境は魔境

もう10年以上前に、After Effectsの米国の開発者の人々とお話したことがあるのですが、その際に「何か要望はあるかい?」的な話題になったので、「dpiを任意に設定できるようにしてほしい。Mac由来の72dpi固定ではなく。」と言ったら、「???? 何を言ってるんだい? 極東の人よ。」的な顔をされたことがありました。ファイナル段階の映像効果の際に印刷(スキャン)解像度など必要ないだろう?‥‥的な。

 

その話の流れの中で、当時(2000〜2004年くらい)としてはAfter Effectsは、まさに「アフターのエフェクト」な認識であり、米国本国の開発者の人々にとっては「実物の紙とデータのやりとり」のことなど想定外・Out of 眼中なのが感じられ、「After Effectsをアニメで使うなんて、隅っこの使い方」なのをひしひしと気取ったものです。

 

東洋の辺境の地で、After Effectsを「アニメとやら」に使い始めているらしいが、まあ、ご自由にどうぞ。日本のアニメで使うために特に機能強化やサポートはしないけど。‥‥的な空気を感じたわけです。

 

時は流れて、2018年。

 

今も変わってないよネ。その基本スタンスは。

 

でも、それで良いと思っています。

 

正式な機能としてAfter Effectsにタイムシートを!‥‥的な要望もあったと聞きます。私はそういう要望はしませんでしたけどネ。なぜかというと、After Effectsをアニメの撮影ソフトウェアに染めたくないからです。コアレタスのようになっては、絶対にイケないと考えていました。そんなことをしたら、After Effectsの良さが「アニメの作業慣習に毒されて」どんどん消えてしまうと思うからです。

 

After Effectsはボルトやナットからゼロから作れる、中庸・中道な「スクラッチ性」「カスタム性」が、実は1番の魅力なのです。アニメの撮影ソフトでも実写や3DのVFXソフトでもなく、アニメの撮影ソフトでも実写や3DのVFXソフトでもあり‥‥という、「のらりくらり」感が最高なのです。何らかのワークフローに縛られないところが良いのですヨ。

 

なので、72dpi(macOSの場合)固定の状況も、変わらず仕舞いで良いと今は思うようになりました。‥‥まあ、解像度の設定くらいはあってもバチはあたらないとは思いますが、無くても良し。

 

 

まあ、大体、どんなソフトウェアも「開発者の想定外」の使い方をユーザがし始めて、「真のポテンシャルが覚醒する」と思っていますから、アドビはAfter EffectsをAfter Effectsとして、世界規模の映像フォーマットの進化に追随するようにして、整然と開発し続けてもらえばそれだけで十分です。「思いもしない使いこなし」はユーザ側でやるので。

 

仮に、天地創造の神がいたとして、生物としては身体的弱者に属する人類が土や木を油をこねくり回して「人を乗せて空を飛ぶ金属」を作るようになるとは、まさか、思わなかったでしょう。

 

辺境・魔境の自分の立ち位置を、むしろ愉快痛快奇々怪々に楽しんでこそ。です。

 

そういった意味では、旧来アニメの本流から脱して、新しい取り組みに没頭するのも、これまた辺境・異境の境地、愉快痛快なAfter Effectsの使い方です。まさか、アドビも「こんなふうに」After Effectsで「アニメの作画のソフトウェアに魔改造」されるとは思ってもいまい。

 

 

まあねえ‥‥。アニメの撮影にAfter Effectsを使うのだって、昔は「物好き」のやることだったしね。未来はどうなるかよくわかんないですよネ。

 

 

 


No.

ナンバーの略字、「No.」は、なぜ「エヌ・オー」なのか、Numberにはオー=Oの文字がどこにも含まれてないのに‥‥と、前から不思議でした。‥‥もしかしたら、長年、スペルを間違えて続けていたのでは?‥‥と不安に思って調べたら、「No.」の由来が解って安心しました。

 

「No.」には、日本人の「和製英語」感覚で意識できない2つの要素が入っておりました。

 

まず、

 

ヌメロー「Numerō」という「ラテン語」由来の綴り

 

そして、

 

略字には、頭文字だけでなく、最初と最後の文字を連結する方法もある

 

‥‥とのことを、この歳になって知りました。‥‥‥知ってました? 私は知らんかった。。。

 

 

まず、Numerō。

 

ヌメローなら、NもOも含まれますので、「No.」と略すことに大きな破綻や無理はなさそうです。

 

では、なぜNumではなくNoなのか。

 

以前から、ナンバーを「Nr.」とも略すことがあるのを知っておりましたが、深刻には考えていませんでした。

 

日本人は和製英語の国民なので、アルファベット系言語の略しかたを肌身で実感できません。特に、アニメ業界は、ブラックのことを「B.L」と略したり、透過光を「T光」と略しますから、日本人の英語感覚の最たるものですよネ。

 

由来が英語なのかフランス語なのかドイツ語なのかロシア語なのか、「サボる」「アルバイト」「いくら(魚卵のね)」とか、原語が何かなんて、暇でも持て余していなければ、調べようとは思わないほど、生活に馴染んでいます。

 

まして、ラテン語においては、なおさら。

 

ラテン語は語尾変化が激しく、「綴りの最初と最後の文字をつなげる」方法によって元の形を明示するようです。ゆえに‥‥

 

「Numerō」>「Nō」>「No.」

 

‥‥となるようです。最後のドットは「省略してますよ」という印ですネ。ドットの由来については、詳しく調べていないので判りません。

 

「NO」についての詳しくは、以下のサイトをお読みになってください。

 

ナンバーはどうしてNO.か?

https://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=7970

 

 

こういう根拠のある略字は、今後も使い続けよう‥‥と思いますが、アニメ業界の「B.L」「B.L.」だけは使う気にならんす。使うのなら、「BL」か「BL.」でしょ? BとLの間のドットは何? Black Lineの略? いやいや、そしたら「BL塗り」は意味が通じないでしょ。BLの略字の由来は、Blackの頭二文字だと思いますヨ。

 

 

略字で思い出しましたが‥‥、話は逸れますが、未来のアニメ制作においては、もうそろそろ、ズームとZ軸移動を使い分けた方が良いと思うんですよ。拡大縮小は全て「T.U.」「T.B.」で扱っちゃってますけど、それはちょっと乱暴。というか、時代錯誤。

 

ズーム=Scaleと、T.U, T.B=Z座標のPositionは、明確に動作が違いますから、私は使い分けたいと思いますけどネ。

 

でもまあ、TU、TBの略字に慣れて十年、数十年ともなれば、慣習を変えるのは中々難しいでしょう。なので、新しい技術基盤で実践することにします。

 

 

 

 

 

 


描きたい絵

アニメーターとして毎日絵を描いているのに、自分の描きたい絵、自分の好きな絵が、自分自身でわからない‥‥という人は結構存在するように思います。逆にいえば、オーダーがなければ絵を描けない(=キャラ設定がなければ)、他人の原作の絵しか描けない‥‥ということです。

 

「プロのアニメーターだから、発注ありきで絵を描くのは当たり前だ」というカテゴリーミステイクな話で逸らす人もいるでしょうが、発注を元に絵を描くことと、自分の生涯の中で自分が描いてみたい絵を持つことは、別物ですので何の弁明にもなりません。発注された絵を描いてお金を稼いでいても、同時に、自分の描きたい絵を描くことだってできますので、二者択一では全くありません。

 

仕事は仕事。でも一方で、自分の描きたい絵を描く。‥‥そういうことに、あまりにもアニメーターは日頃から絵を描き過ぎていて、疎いのかも知れません。

 

私は2000年初頭から10年くらい、作画の方は寡作状態で、しばらく作画から離れていたこともあり、「絵を描く仕事」に対して物理的にクールダウンできました。同時に「アニメの様式」にも醒めた視点で関われるようにもなりました。アニメ独特の「内輪受けの場の雰囲気」に呑まれずに済むようにもなりました。

 

だからこそ、請け負いの仕事は仕事として、一方で、成し遂げたいアニメーション作画(=線画だけでなく色や効果も含む)表現も明確に意識できるようにもなりました。

 

自分が求めている絵とは何か‥‥を明確に自覚できるようになったわけです。

 

 

 

結局さあ‥‥。

 

アニメで何がやりたいわけ?

 

‥‥に尽きます。それに即答できずに、「やることは他者が与えてくれる」と思っているのなら、現場に呑まれている証拠です。

 

「どうせできない」と結果を先読みして打算し始めたら、その果てに「どうせ人間は死んじゃうんだし」と何もやる気がなくなりますよネ。むしろ「どうせ人間は生きてるうちにしか行動できないんだし」と考えるべきですよね、打算するにしても。

 

今は、iPad Proだってあるし、iMacや、今度出ると噂のMac miniの新型も控えていますし、いくらでも「自分の絵を育てる」ことは可能です。フィルム時代の「線画以外に手も足も出なかった頃」ではないのです。

 

作業をこなす歯車やネジ、使い捨ての人材に、自ら進んで堕ちてどうするのか。

 

今流行りの絵を、皆で一斉に描いて、皆が「自分はイケてる」と錯覚しても、その流行りが廃れた時に残るのは何でしょう。自分の絵を持たずに、他人の流行り絵ばかりに気を遣って怖気て生きて、自分の核を形成するに努めなかったとすれば、それほど残酷なものはないです。

 

絵を趣味止まりにできず、どうしても仕事にしたくて作画の作業者になったのです。仕事の絵だけではなく、自分の絵も描き続けて何らかの商売に結びつけるくらいの野心を秘めていても、誰も咎めないですヨ。「カネにもならないことを、よくもまあ」と笑いたい奴には笑わせとけば良いのです。自分の一生ですからネ。

 

アニメの日々の仕事ばかりに体力を使って、自分の絵など描く気力もない‥‥というのはありましょう。でも、そんな中での自分の頑張りは、未来、じわじわと効いてきます。

 

まあ、絵を描くのが好きじゃないんなら、しょうがないけどネ。

 

好きなのだったら、公私分け隔てなく、絵を描きゃあ、良いんです。描きたい絵をネ。

 

 

 

 


プロクリとクリスタ

iPad Proで作画作業をする際、私はProcreate=プロクリを常用しています。同時に、日本のメーカーのClip Studio EX=クリスタもインストールしてあり、ちょいちょい使います。正直、どちらのアプリも手離せません。

 

両方使っていて感じるのは、両アプリの決定的なコンセプトの違いです。

 

プロクリは可能な限り機能を削ぎ落として、ツールウィンドウも極限まで絞りきって、とにかく、「描画時の操作が軽快になる」ように‥‥つまり、「運動性重視」です。例えるなら、「制空戦闘機」です。一方、欠点は、その運動性重視ゆえの機能の絞り込みによって、使用用途の広がりを犠牲にしている点です。特に、円定規がないのは、今でも困っています。雲型定規はともかく、円定規くらいはあっても良いんじゃないかな‥‥。‥‥ちなみに直線定規的な機能は、いくら何でもさすがに用意されています。

 

 

一方、クリスタは、豊富な基本機能といたれりつくせりの各用途別機能で、描画作業において万能と言えるほどの充実ぶりです。しかし、その万能ぶりが操作時の煩雑さやツールウィンドウの画面占有を招き、運動性は多少犠牲になっています。例えるなら、「戦闘爆撃機」です。

 

 

運動性重視と、機能充実重視を、両方兼ね備えるのは無理です。かならずどちらかが犠牲になるのは、まさに航空機で例えた通りです。

 

ゆえに、両方とも必要です。どちらかで完璧にニーズに応えるのは、ちょっと無理かな‥‥と思います。

 

ただ、クリスタは、ワークスペースのカスタマイズで自分の使う機能を絞り込んでシンプルにすれば、「ストライクイーグル」から重武装を降ろした、制空戦闘機の「イーグル」のように運動性を挽回するようにも感じています。ちょっとワークスペースをカスタムしただけで、随分と自分好みの使い勝手に近寄せられます。‥‥なので最近は、クリスタのワークスペースを「あーでもない、こーでもない」と弄ることが多いです。

 

 

クリスタをiPadで使う際に、今後充実するといいな‥‥と思うのは、ジェスチャー機能の追加です。「3本指スワイプ」が設定メニューに加わってコピーorカット&ペーストができるようになるだけでも、相当iPadでの能率はあがります。まあ、Bluetoothのキーボードを常設してショートカットキーを使えば良いのかも知れませんが、そうしちゃうとiPadの軽快性が大きく損なわれるんですよネ。クリスタのためだけにキーボードを常設して、作画机の上の限られたスペースを減らしたくないですし。

 

ジェスチャーはiPadアプリの肝です。

 

PCソフトと一線を画すのは、キーボード無しでも使いこなせる操作性があればこそです。タッチ機能を賢く使って、キーボードとマウスに縛られた過去のドローソフトの操作感から脱皮したいのです。

 

私は他にも、ibisPaintやSketchBookも購入していますが、今はほとんど使っていません。なぜかというと、シングルスワイプの機能が設定できないからです。シングルスワイプを「消しゴム」に設定すると、ものすごく効率がアップします。

 

いちいちツールを切り替えるのは煩雑至極、無粋なキーボードを机に置くのは言うに及ばず、ペンをひっくり返すのすら野暮ったいのですから、シングルスワイプへの機能割り当て(ペン入力と指入力で機能を切り替える)は、iPadなどタブレットPCのドローソフトの必須だと感じます。

 

プロクリもクリスタもその辺はちゃんと設定可能です。クリスタの場合は、ショートカットの設定でジェスチャーのシングルスワイプを表示して、「一時的にツールを切り替える」機能で消しゴムを割り当てるだけで、自分のどれか一本指が消しゴムに早変わりします。

 

ibisPaintやSketchBookは、シングルスワイプ機能がないだけで全く使わなくて、勿体無いと思っています。特にibisPaintは、ちょうどクリスタとプロクリの中間的ソフトウェアになりそうで良いんですけどネ‥‥。

 

 

 

 


魂!=手段

ネットの記事を読みました。コレ。

 

失敗を重ねる名門パイオニアが、”解体ショー”に突き進むこれだけの理由

http://blogos.com/article/328092/?p=1

 

パイオニアの凋落

http://blogos.com/article/325227/

 

 

考えさせられる事の多い記事です。「成功体験が未来の失敗の原因となる」というのは、まさに「デミヤンスク包囲戦」=「スターリングラードの悲劇を招く遠因となった成功体験」を彷彿とさせます。実はこの「成功体験の暗部」は、私がプロジェクトの立ち上げに関わる時にいつも念頭におくことでもあります。「成功体験に基づく自信」と「次がうまくいくとは限らない」という相反する思考は、プロジェクトのキーマンならば当然のように有すべきことだと痛感します。

 

「解体ショー」の記事でもう1つ気になるのは、「企業の魂」というフレーズです。

 

私も「魂を売るべきではない」という事自体には同感です。‥‥で、そこで「魂」という「言葉だけ」で「わかった気」にならずに、「では、魂とは何を指して表す言葉なのか」をちゃんと考えるべきでしょう。

 

パイオニアの部外者から見た、パイアニアにとっての「魂」とは、決して「オーディオコンポを売る」ことではなかったと、オーディオコンポ世代の私は思います。チープなモノラルラジカセとはまるで別世界の音楽体験こそが、オーディオコンポの魅力でした。

 

アウトサイダーである私が、パイオニアに期待するのは、「音」「映像」を「上質な体験としてユーザに提供」してくれることです。オーディオコンポやカーステレオやレーザーディスクは「単なる手段」に過ぎません。「手段」は時代とともに変化しますから、パイオニアに私が期待するのは、あくまで「素晴らしい音と映像をユーザにもたらしてくれる」伝道者のような役割です。そして、その「素晴らしい」という状況も時代によって変わりますから、常に「時代とともに歩む」意識が不可欠だと感じます。

*もちろん、「提供」「伝道」の対価はユーザが然るべき価格で支払います。タダではありません。例えば製品購入とか。

 

 

 

日本人って、「根本を解き明かして、始点から発想をチェンジする」ような取り組みが苦手な国民です。それはまさに、今のアニメ業界が雄弁に物語っています。

 

他業種の内情には詳しくないので、アニメ制作業で考えると、アニメ制作会社における「魂」って何だろう‥‥ということです。

 

紙と鉛筆を使い続けて、セルと背景を「撮影」する‥‥というのが、アニメ制作会社の「魂」なんでしょうかね? 紙と鉛筆をペンタブに置き換えることが「時代とともに歩むこと」なんですかね?


アニメ制作会社における「魂」とは、まさに「アニメ制作会社」なのですから、「アニメ映像作品」を作ること‥‥だと思います。少なくとも私は、そう思います。

 

そして、アニメ映像作品は、必ずしも、今までの技術やシステムや慣習で作る必要はないです。アニメを作ることが成就すれば、アニメ制作会社足り得ると私個人は考えます。

 

ゆえに、アニメ映像作品(=商品)が全世界の潜在的なユーザに対して、どのように「かけがえのない体験として提供」されていくのかも考えます。深夜に追いやられた日本国内のテレビ枠がアニメの最後の砦なんでしょうかネ??

 

アニメ制作者の未来の居場所は、世界のどこにあるのでしょう?

 

しかしながら、アニメ制作会社、フリーランス作業者、そしてアニメ業界は、あまりにも「手段に固執し過ぎている」ように思います。そして、「アニメ」を一意に考えすぎて柔軟性がほぼゼロのような状態にも思えます。慣習による行動を「自分の魂の発露」と思い込んで、惰性で未来を占おうとします。

 

つまり、アニメに対する「固着化した思考にもとづく手段」を、「魂」に同化させてしまって、まさに「解体ショー」に突き進んでいるように思えるのです。作監20人なんていう制作体制も、それが「何がなんでも作監の肩書きは必要。アニメの魂だ」ということになれば、自分の思考の内外で正当化もできる‥‥とういう仕組みです。

 

私自身はハッキリと自覚していますが、正直、「旧来のアニメの作り方は現代に合っていない。技術的にも、品質的にも、そして思考的にも、立ち遅れが酷い」です。それは各個人の人間としてのポテンシャルではなく、技術的思考の古さによるものです。

 

実際、旧来のワークフローや制作体制の作品に関わると、いくつもの新しい技術を封印せねばならず、とても暗いキモチになります。新しいことを受け入れられず、むしろ頑固になって殻に閉じこもる業界の体質に、先の見えない暗さを感じます。

 

 

 

アニメを作るプロとしての「魂」。

 

アニメーターなら、まず絵を描くこと。そして絵を動かすことです。決してタップ穴に固執したり、紙と鉛筆に固執することではないはずです。道具は、自分の魂を具現化するための手段です。決して魂そのものではありません。

 

アニメ制作でいえば、アニメ映像を作り出す、そのことズバリが「魂」でしょう。アニメ映像を作り出せるのなら、既存のシステムやワークフローや技術体系に凝り固まる必要はないのです。新しい時代の新しい技術をどんどん旺盛に盛り込んでいくべきと考えます。

 

家電メーカーの凋落を笑っていられるほど、アニメ業界の会社や個人は安泰ではないはず。むしろ、未来に対する無思考・無計画の酷さは、家電メーカーより遥かに上回るでしょう。限界アリアリの「原動仕美撮」に変わる未来の制作構造をどれだけ考えていますか? ノープラン? 今までやってきたことをやり続ければ良い? ‥‥それこそが凋落ド直球なのです。「未来はノープラン。今までやってきたことをやり続ければ良い。」を体現し続けてきた他の業種の企業が、どれだけ消え去ったか、枚挙にいとまがないです。

 

自分の「魂」、制作集団の「魂」とは何なのか。

 

道具が魂だというのなら、道具の衰退とともに、自分も消えていくしかないでしょう。

 

作り出す事自体が魂だというのなら、作り出すための道具と手段を変えていけば、存在し続けられるでしょう。

 

 

 

まあ、色々と悩みはつきませんが、楽観的に構えられる絶大な要素を、絵は持っています。

 

これだけ実写の媒体が身の回りに溢れているのに、なぜか、人は絵に惹かれる。絵は現人類誕生の太古から存在し、今まで滅んだことがない。

 

それだけでも、凄く、楽観的状況だと思うのですヨ。

 

あとは、その絵の「表し方」を、現代社会とともに考えていくだけ‥‥です。

 

 

 

*追記:

 

引用記事で「その後音響製品をベースに映像分野にも手を伸ばし、映像デジタル化の流れの中ではレーザーディスクを担いで参入。」とありますが、それは取材不足。‥‥というか、引用元は「ブログ」なので、取材というよりは知識の不足か。

 

レーザーディスクの映像データはデジタルではないですヨ。アナログ映像フォーマットです。アナログからデジタルへの移行は、時代を語る上でとても重要な要素なので、見落としはマズいです。記事の説得力がガタ落ちです。

 

まあ、パイオニアの内情は全く知りませんので推測の域を脱し得ませんが、もしパイオニアがあの当時(80年代)にいちはやくデジタル映像フォーマットのディスク&機器を開発・発売できるくらいの「イノベーティブ」な体質だったら、今のようなことにはなっていないかも知れませんネ。


作業力としてのコンピュータ

コンピュータに作画作業の一部を負担させる‥‥という取り組みは、私は1997〜8年から開始して、実際に実用として私が使用したのは2000年公開のBlood The Last Vampireだったように記憶しています。

 

現在、業界で注目され始めている「自動中割り」=作画労働力としてコンピュータを扱う目的ではなく、「動かせないものを動かす」「今までは不可能だった映像表現を実現する」という目的でした。Bloodでは主人公の小夜がよじ登るBOOK描きの金網(=普通だったら止め絵で動かせないもの)を、たしかメッシュワープで動かした記憶があります。あの当時にも、かろうじてAfter Effectsにもアニメーションに活用できるツールはあったんですよネ。

 

いつも思うんですが、新しい技術を実現しようと取り組む「思惑」には2種類あって、

 

  • 表現の拡大のため
  • コストの縮小のため

 

‥‥があります。

 

私は今でも、「映像表現の拡大」を主軸にしています。動かせないと思っていたものを動かす。無理だと思っていたイメージを実現する。‥‥そのために、コンピュータの能力を作業計画に組み込みます。

 

とはいえ、「映像表現の拡大」取り組みの副産物として、「普通だったら、4人がかりで2週間かかる内容を、1人で3日で終わっちゃった」みたいな「強烈なコスト抑制効果」を「たまたま」得たのは事実で、「セレンディピティ」的な感じです。

 

現在は、その「高効率生産能力」も考慮していますが、やはり本筋は「映像の表現のため」です。

 

 

 

‥‥で、これもいつも思うんですけど、映像技術におけるプロジェクト・取り組みが迷走するのって、

 

コストを縮小するのが目的の場合

 

‥‥がほとんどように見受けられます。

 

なぜか?‥‥って、映像技術を扱っているわりに「イメージ」「ビジョン」が希薄だからです。

 

例えば今回の「作業力としてのコンピュータ」の事案を考えた場合、作ろうと思う映像のビジョンがあって、その具現化のためにコンピュータの具体的な機能を活用する場合は、どの作業が「人間管轄」で、どの作業が「コンピュータ管轄」かを、最初から計算して運用できます。映像をイメージして思い浮かべるのと同時に、コンピュータの能力を作業計画に組み込むので、「映像表現」と「現場の制作技術運用」が合致します。

 

一方、映像はぶっちゃけ今まで通りで構わなくて、人間の代わりにコンピュータが自動中割りしてくれれば良い場合は、当座、制作中の作品で「試してみる」スタンスになりがちです。コンピュータが関わって生み出される映像に対しての明確なビジョンなどなく、人間でもできることを、コンピュータにやらせてみて、うまくいけば省力化、うまくいかない場合は人間がフォローする‥‥みたいな、結果待ちで後追いの制作展開になりやすいです。

 

つまり、「コストを縮小するのが目的の場合」は打算的で泥縄的で、当然のことながら、運用計画を事前に想定できなくなるわけです。‥‥だってさ、「できるかどうかも、わからない作業を、コンピュータに投げる」のですから、作業計画なんて事前に組み立てられるわけがないもんネ。

 

 

 

コンピュータを自らの意志で使う人間は、コンピュータの能力に期待していますし、以前のコンピュータの作業経験からくる信頼もそれなりに厚いものがあるでしょう。「コイツがいれば、新しいことができる」と思うからこそ、コンピュータの能力も応えてくれます。コンピュータを相棒のように頼もしく感じて、色々なアイデアも次々と浮かびます。

 

しかし、「コンピュータを使うと作画の人件費を節約できるらしい」「あまりあてになるとは思えないけど、自動中割りとやらでも使って見るか。もしダメならファイルは使わずに人間が作業すれば良いんだし」みたいな人間は、やっぱりと言えばやっぱり、コンピュータの能力を存分に引き出せるまでには至らないでしょう。普通に考えて、引き気味で期待薄の対象に、とことん突っ込んで使いこなすようにはならないからです。

 

コンピュータを使う人間のキモチによって、いくらでも、コンピュータが生み出す映像とお金も大きく変わってきます。「コンピュータが期待に応えてくれる」なんていうとオカルトみたいですが、要はコンピュータの能力をうまいこと活用できるようになると、状況が連鎖的にかけ合わさって、ルッサーの法則の「良いバージョン」的な膨らみ方をするのです。

 

コンピュータに大した期待もせず、色々な機能をテキトーにイジるだけだと、各機能のポテンシャルを0.5くらいしか引き出せず、そのかけ合わさった結果は、

 

0.5x0.5x0.5x0.5=0.0625

 

‥‥と、まあ、事実上0%になって「なんだこれ!?コンピュータなんてボロくて使えないわ」とか言い出す始末。

 

しかし、コンピュータの能力を理解してたとえ10%でも想定以上のポテンシャルを引き出せば、

 

1.1x1.1x1.1x1.1=1.4641

 

‥‥と50%近くも総合的な能力がアップして、「コンピュータって、すごい!どんどんやりたいことができる!」と感激するわけです。

 

実は、コンピュータの機能を殺すか生かすかは、当人たちの写し鏡なんですけどネ。

 

使う人間次第だということに、個人はおろか、制作集団や会社まで気づけていないこと‥‥は、相当多いよなあ‥‥と思います。高いコストを支払って導入するコンピュータ。それを、実際にどう使うかは、それこそ、数十年以上語り継がれてきたテーマです。

 

打算的に‥‥ではなく、意欲的に、コンピュータと一緒に仕事をしていきたいと、私は思っています。

 

 

* * * * * *

 

 

私が初めて仕事で「正式に」使ったコンピュータ、「Macintosh Quadra650」。ネットワーク線は引かれておらず、MOでのデータ受け渡しだったのが懐かしいです。この1〜2ヶ月後に、私専用の「PowerMacintosh 8500/180」が設置され、コンピュータの面白さにどんどんハマっていくことになります。

 

 

 

1カットごとの上がりがTIFFやSGIなどの連番ファイルだった時代(2000年代初頭)に、簡単な操作で「プルダウン画像」「プルダウン解除(=元の絵に戻す)」を生成するソフトを作りました。たしか、REALbasicで作ったはずです。フィールド合成の仕組みさえ理解していれば、プログラム自体はそんなに難しいものではなく、ラインごとに合成するだけですから、画像処理プログラムの初歩も兼ねて2002年くらいに作りました。

 

コンピュータで絵や映像を作るのは作業のメインとしても、コンピュータの長所は、雑事の自動処理にも活用できるはず‥‥と、1997年にApple Scriptからプログラムの自己学習を開始しました。コンピュータを使っているのに、ファイルのまとめとか手作業で大量の反復処理をするのは、釈然としなかったですしネ。

 


肉、肉、肉。

コンビニで「謎肉祭」が売っていたので、買いました。

 

 

 

カップヌードルではないですが、マルちゃんの「肉そば」も買ってみました。

 

同じ時期にこれだけの「肉」カップラーメンが出るのも珍しいですが、肉を喰らいたい願望は、特に現代人は根強いかも知れませんネ。ヘルシーとか言っても、よほどの思想的禁忌がなければ、肉を食いたくなるのは男も女も共通だと思います。

 

話はちょっと変わりますが、今、アニメのキャラの風味は、一見「草食系」が多いですが、実は胸を「解りやすい」ように過度に強調してたりと、「裏肉食系」が多いのも特徴です。欲の「表し方」が変わっただけで、「肉が好き」なのは隠し果せません。そりゃあまあ、人間、草ばっかり喰って生きていくには、欲望が多すぎますもんネ。

 

 


夢の機材

iPad ProとApple Pencilは、1990年代初めの頃に「こんな画具があるといいなあ」という夢を実現した、いわば「夢の機材」です。今、普通に通販で買えて、目の前に存在するので、あらためて自覚する機会は少ないですが、考えてみれば「80〜90年代の夢が詰まったガジェット」なんですよネ。iPadとApple Pencilに限らず、iPhoneとか、Amazon Echoとかも。

 

 

 

それを考えれば、「使わなきゃ損」です。1980年代に絵を描くのと、2020年代に絵を描くのと、何が違うって、社会環境とテクノロジーです。特にアニメは社会のインフラなしには生き続けられない「現代社会の申し子」ですから、時代の技術進化を受け入れて、時代の最新技術を活用するのが賢い選択だと、私は思うのです。今はもうセルもフィルムもないのですし。

 

ただ、時代の技術がどんなに進化しても、絵の上手下手までサポートしてくれません。「iPad Proを買って、Apple Pencilで描いているのに、ちっとも上手に描けない。プロっぽく描けない。」って、そりゃあなた‥‥、自分の下手さと研鑽不足を暴露しているようなもんですヨ。

 

2000年代に「誰でもプロなみ。誰でもクリエーター」とか流行りましたが、あれはコンピュータを趣味層に購入させるための他愛のない宣伝文句ですからネ。何もコンピュータなど使わなくても、渋谷の交差点を全裸で走り抜ければ「自分流のアートクリエーター」になれるよね‥‥と知り合いも言っていました。

 

どこかの誰かが作ったプリセットを寄せ集めてクリエーターになれるんだったら、そんな楽な話はないです。絵を描けるようになるには、道具が紙だろうがMac/WinだろうがiPadだろうが、同じだけの研鑽は必要です。むしろ、iPadやコンピュータは、基礎技術の一部をソフトウェア機能が肩代わりしてくれるので、余計、当人の画力が浮き彫りになって辛辣だと思うくらいです。

 

能力がなくても絵が描けると勘違いして思い込む人は別として、絵を描く技術を苦労して積み重ねてきた人にとっては、今は「昔の夢だった」機材が溢れています。自分の可能性を研ぎ澄ます役割すら、今の「夢の機材」は発揮してくれます。

 

ふと考えると、「自分が生きている間に、こうした機材が実現して、本当にえがった‥‥」と思います。

 

 

 

 

 


板タブ

最近、補助的な役割ですが、板タブも使うようになりました。板タブはどうにも思い通りにならなくてあまり使わなくなっていたのですが、線の1本を書き足すのにiPad Proに戻すのも面倒なので(特にファイルサイズが巨大な場合は)、簡単な線は板タブでも描くようになりました。

 

改めて、ここ数年のIntuosを使ってみると、色々と機能がついていて、便利というよりは戸惑います。Procreateを常用していることもありますが、ボタンが6つ(切り替えボタンまで含めると7つ)もついていて、ホイールもあり、ジェスチャーも可能‥‥となると、機能過多で使いにくいもんだと実感します。日本のメーカーが陥りがちな傾向はペンタブにも継承されておりますネ。機能過多で使わないのならまだしも、誤動作のきっかけになるのはなんとも邪魔です。

 

まあ、Photoshopのショートカットは体に染み付いているので、板タブのボタンはかたっぱしからOFFにしても良いのですが、それでもたまにホイールが反応したりして面倒なので、ちゃんと設定することにしました。私は左利きなので、利き腕の設定も変えて、ボタンもホイールも使えるように設定しました。

 

さすがに6個のボタンと、1つの切り替えボタンで4つのホイール機能全てを暗記するのは無理です。少なくとも私は。

 

なので、以下のようにダイモのラベルを貼りました。

 

 

 

ダイモの透明テープに最長4文字で刻印して、機能ラベルを貼り付けました。ホイールの設定は初期設定のままですが、他は設定を変えました。取り消し=アンドゥは、間違えずに操作できるように一番上のボタンに割り当てました。

 

透明テープなので、LEDの上に貼っても光が透けます。

 

 

ただ、透明の純正品テープは製造中止らしく、上図のマシューズのものが出回っています。これがちょっと扱いが面倒で、純正品より色々とヘボいので、ダイモに慣れない人は黒の純正テープを買ったほうがよいかもしれません。LEDは透けなくなりますけどネ。

 

ジェスチャー(タッチ機能)はOFFで使っています。色々とジェスチャー機能はあるのに、1本指でのジェスチャーが「クリック」しかなく、1本指ドラッグに消しゴムを割り当てることができなさそうなので(もしかしたら、ある?)、今は使わない設定にしています。1本指のドラッグ(摩って動かす)が消しゴムに早変わりするのは、とても便利ですヨ。iPad ProのProcreateとクリスタでは、1本指を消しゴムに割り当てています。

 

 

で‥‥、久々に板タブを使ってみて思うのは、板タブは何を言うても、もはや過去の機材だな‥‥という事です。ろくな液タブがなかった時代やiPad Proが未発売の頃の、前時代の名残りのような画具です。マウス代わりに使うのはアリかも知れませんが、絵を直に描く道具としては決して優れているとは思えません。コンピュータ機材が未発達だったころの産物です。

 

Apple製品をむやみに推すつもりはないですが、絵が描ける人なら、iPad Proの12.9インチとApple Pencilを買っとくべきです。板タブを補助的に使うようになって、改めて、しみじみと、絵を描く道具としての優劣を実感します。

 

 

 

やっぱりさ‥‥。絵を描く時にはさ‥‥、余計なストレスは背負い込みたくないじゃん?

 

 

絵を描くのなら、絵を描く視点と手(=ペン)が一致していたほうがダイレクトでストレスがないですよネ。「いやいや、離れていたほうが良い」という人は相当珍しいです。

 

ハッキリと言い過ぎるかも知れませんが、板タブの「ペン先から目を離してモニタを見ながら描く」というのは、相当、異常な光景だったのです。

 

ラジコンのような操作感で絵を描いていたのは、単に「昔のコンピュータがその程度の性能しか提供できなかったから」です。

 

 

iPad Proを推す、もう1つの理由は、その外形の状態。つまり、「単体で動作する」ことと、「薄く、軽量」であることです。

 

iPad ProとMacが完全に独立して動作するのは、とても「やりやすい」です。4K HDR フルモーションの作業をする場合、今までの2K映像とはレンダリング時間が段違いにかかるようになりますから、レンダリングの待ち時間にiPad Proで別の作業を進められます。

 

薄さ、軽さは、作画用紙1枚の薄さには到底及びませんが、薄手のスケッチブックくらいの薄さゆえに、違和感なく絵を描くことができます。しかも、自分の画材の全てをiPad Proの中に詰め込んで、どんな場所でもApple Pencilで、イラストでもコミックでも原画でもデザインでも即座に描き始めることができます。

 

iPad Proは机が狭くならないのも良いです。電力をコンピュータより格段に消費しないのも、実はかなり大きな利点です。

 

 

一方、ホストコンピュータが起動していなければ絵を描くことができない「周辺機器系のペンタブレット」は、マルチに作業を請け負うようになると、色々と面倒が増えてきます。

 

まず、After Effectsで重いレンダリングをしている裏で、6〜8Kサイズでレイヤー数の多い画像をPhotoshopでペンタブでイジるのは、クラッシュしそうで怖いです。じゃあ、マシンを2台に増やせば良いかというと、そんな単純な話ではなく、電源供給の問題や発熱の問題、モニタやキーボード・マウスの増設または切り替えの問題、設置スペースの問題などが、どんどん山積みになります。

 

自分の能力を多岐に展開したいのなら、会社の作業机でしか絵が描けない「固定された環境」ではなく、自由に活動できる環境の下地が必要です。ペンタブを使うのは会社の机だけ‥‥では、どうやって、自分の絵を描く能力を拡張できるでしょうか。

 

 

それこそ前世紀から20年以上、色々とコンピュータでの作画&映像制作の作業環境を模索し続けてきて、iPad Proの性能〜単体の性能だけでなく環境性能も含め〜は、相当優れていると実感しています。

 

まあ、私個人の性質もありましょうが、板タブは1997年から使い続けているのに、結局、自分の「最強」と言えるほどの画具とはなり得ませんでした。しかし、3年前(2015年)に出たiPad Proはあっという間に、大きな信頼を預けるほどの画具になりました。

 

だってさ‥‥。絵がちゃんと描けることを、自分の肉眼で目の当たりにして、それでどんどん仕事をこなせば、信頼せずにはいられないもんネ。

 

昔の道具や機材の欠点をあげつらう事が本意ではないのですが、今そこに存在する大きな落差を無視することもできません。なので、正直に書いております。

 

板タブを久々に使って、色々と実感しました。

 


金のかかる芝居、金のかかるアングル

テレビの標準的なギャラの仕事って、コストをいつも念頭におく必要があります。好きなものを好きなように動かせば良いという話ではないでしょう。

 

例えば、日常芝居でも、ちゃんとやろうとすると、相応に原画枚数と動画枚数が必要になります。ちょっとした小芝居とか、A点からB点に歩いて移動するだけでも、いまどきの線の多いキャラは昔のロボットもののように作業労力が必要となります。

 

また、カット割りやアングルをちょっとした迂闊さが、ものすごい労力を無意味に発生させたりもします。

 

そういった意味では、テレビアニメは制限だらけです。制作費の低さはあからさまな制限ですから、絵コンテを描く人間や演出をする人間は工夫を重ねて、低コストでベター・ベストな効果を実践してきました。

 

「でもさあ‥‥、そんな作り手のコストばかり考えて画面を作るとチープになるじゃん」という人がいたら、その発言にはいくつもツッコミどころがあります。

 

まず、テレビの制作費は、チープですよネ。実写に比べれば高いとか言われますが、何百カットにも及ぶ原画と美術と撮影、何千枚にも及ぶ動画と仕上げで、制作費を細切れにするのですから、作業者単位でいえば決して順当なギャラとはいえないのがテレビの「昔からの常」です。もともとチープなお金しか用意できないのに、チープなのは嫌だ‥‥というのは、発想の出発点に無理があります。

 

しかし、その「普通なら無理な構造」をできるだけ「見せ方で相殺」するのが、テレビシリーズの面白い部分だと思います。「面白い」というのは、「絵コンテと演出の腕の見せ所」ということです。ちょっとカメラの位置をかえてBOOKで切ったりするだけで、恐ろしいほどの作業負担の雲泥の差が生じます。カメラの位置が迂闊なばかりに述べ48時間の作業を要すカットが、絵コンテや演出の工夫により述べ6時間の作業コストで、しかも映像での印象も決してチープではないものが作れるのです。

 

 

テレビアニメであれこれ細かい小芝居をさせたり、消失点を安易に人間の目線にもってくるのは、テレビアニメのコストをあまり‥‥というか、全然考えていない人だよネ。

 

例えば、街の商店街を、人間が立ったときの目線のカメラ位置で、商店街通りを一点透視で狙ったら、ありとあらゆる商店街の雑多な物品が入り込んじゃって、大変な情報量を描かなければならなくなります。

 

「え? 人間の目線で描くのって、普通じゃん」とか思う人もおりましょうが、人間の目線がありふれた情景だからと言って、ありふれたコストで実現できると思っているのなら、本当に素人さんとしか言えないレベルです。そういう人には、テレビシリーズの絵コンテや演出をしてほしくないし、1原2000円程度のやっすいレイアウト料金で巻き込まれたくないです。

 

テレビシリーズで、レイアウト&1原2000円程度の単価で作業依頼するのなら、絵コンテマンは高度な知恵と経験値をもって、低コストかつ高い効果を狙わなければなりません。もしそれができないのであれば、テレビの絵コンテを引き受けるべきではないでしょう。そもそも能力と経験値が足りないんだから。

 

2000円で「松」のレイアウトが買えると思っているところに、現在のテレビシリーズ事情の破滅的な「齟齬」があると思います。

 

2000円でどんどんこなせるレイアウトの内容を、まず絵コンテで示すべきでしょう。テレビシリーズの絵コンテで劇場アニメを志向してはならないのです。絵コンテマンの資質が問われます。

 

「でも今まで無理だったことを実現することで、テレビアニメの技術も上がってきたんじゃない?」と言うのなら、ギャラも上げなきゃマズいでしょ。テレビ作品の絵コンテで無謀な内容を描きました、原動仕や美術の単価は知ったこっちゃない‥‥なんて、酷いと思いません??? そして出てくる言葉は「テレビでも出来た!」です。

 

 

どんな業界でも、ロープライス・ハイクオリティ‥‥は、まさに腕の見せ所です。でも、原価割れしてまでハイクオリティにはしないでしょ。

 

しかしアニメは平気でそれをやるのよネ。原価割れの常習です。

 

スペシャルな作品の、スペシャルな報酬の仕事なら、スペシャルな内容の絵コンテや演出で良いでしょう。

 

作業者にクオリティを要求するのなら、お金を用意する。‥‥当然のことです。

 

しかし、お世辞にも標準的とは言えない報酬額のテレビシリーズでは、工夫に工夫を重ねた絵コンテと演出が何よりも重要な鍵です。特に絵コンテは重大な責任を負います。

 

要求するクオリティはそんなに高くないけど、カット配列やカメラアングルや尺(間、ですネ)の妙味で、面白い本編を作れた時こそ、テレビにおける絵コンテと演出の勝利なのです。その実質的な事実に、昔も今も変わりはないです。

 

 

でもまあ、実は作業者側にも、「報酬に合わせてクオリティをコントロールできない」人々がいるのも、中々辛いところではあります。昔、1カット2万円以上の原画単価を設定したのに、3000〜4000円のテレビと同じ内容で上げてきた原画マンのカットを見て、監督が落胆していたのを思い出します。その原画マンにしてみれば「ラッキー。普通に比べて1万数千円も儲かった。」とでも思っているのでしょうが、それでは「ギャラの金額を無視して、何でも安く描かれるんだったら、安いギャラのままで良い」と判断されちゃうんですよネ。

 

少なくとも私はテレビはテレビなりの単価内容になるように、内容を薄くして描きますヨ。それで「何だ。たいしたことないな」と言われてもOK。レイアウトの構成もかなり割り切った内容にしますが、それでやっぱり「たいしたことない。凝ってない。」と思われてもOK。私はそれで正常だと思っています。

 

その代わり、高いクオリティが求められる作業=高い金額の作業では、相当、念を入れた内容になります。あえて高いお金を設定してくれると言うことは、監督やプロデューサーから何を期待されているかを、ひしひしと感じるからです。

 

金のかかる芝居、金のかかるアングルは、相応に作業報酬に反映されるべきことを、絵を実際に描く当人だけでなく、絵コンテや演出も強く意識することが必要だと思っています。

 

 

 



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