美術展と美術館は似て非なる

私は学生の頃、アニメの道に進むか、美術の道に進むか、音楽の道に進むか、ぐるぐると迷いながら生きておりました。自分の中で一番ウェイトの重いアニメの道を結局選んで今があるわけですが、美術や音楽からは現在も多大な影響を受け続けております。

 

私は、アニメでは荒木伸吾さんや杉野昭夫さん、金田伊巧さんや友永秀和さんと言った、まさに70年代のアニメ発達期に大活躍をなされた方々に多大な影響を受けると同時に、美術全集常連の画家たち、例えばアングルやクールベ、ダヴィンチ、クリムトなどの画家にも図書館の蔵書で慣れ親しんでいました。クリムトデルヴォーは当時のウブな中学生には刺激が強かったですがネ。

 

高校の頃にモロー展が鎌倉の美術館で開催されたのは、私にとってあまりにも大きな影響でした。以後、世紀末絵画のそれぞれ、シンボリズム、プレラファエル、ユーゲントシュティールといったムーブメントは、私の中で大きな位置を占めるようになりました。

 

ネットを検索したら出てきました。すごいなあ、ネットって。‥‥当時1985年の情報が出てきました。

 

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55593038666.htm

 

私が行ったのは、三重県のほうではなく、神奈川県の鎌倉のほうです。

 

そうか、神奈川県立近代美術館というのが、正式名称なのか。‥‥そんなことはすっかり忘れてました。ちなみに、上記ページに画像のある図録とチラシ、そしてチケット半券は、今でも大切に本棚に並んでおります。

 

各駅停車の切符で鎌倉へと赴き、降りる駅を1つ間違えたのか、鎌倉のトンネルを歩いて美術館を訪れたのは、その道中も含めて一式が「美術体験」であり、私の美術鑑賞の基準をフィックスした出来事でした。今でも、道すがらの木漏れ日や風の印象を思い出すことができます。

 

しかし、10代の自分のバイタリティは今考えるとアホのようです。部屋にイーゼルを立てて油彩を描き、ヴァンヘイレンなどのギターを四六時中弾きまくりバンドも組んで、安いメモ帳みたいのに原画モドキみたいなパラパラマンガを描き、作画スタジオにも出入りしていた‥‥という、どういう時間の組み方なんだよ‥‥と思います。今じゃ、絶対に無理す。

 

アニメーターになってからも美術展はたまに行っており、その昔、わたなべぢゅんいちさんとバイク(私はTLM50、わたなべさんはKSR80)で赴き、ダヴィンチの「荒野の聖ヒエロニムス」展を見たことが思い出されます。

 

文字だけですが、情報を見つけました。

 

http://ac.nact.jp/exhibitions1945-ac/detail1945-2005.php?number=952

 

1993年か。ちょっと昔のように思えますが、もう25年くらい前‥‥なんですネ。絵は、絵そのものがまるで生気を帯びているかのようで、凄まじい存在感がありました。何百年も人々の目に晒され続けた絵画の「魔力」というのは、こういうものか‥‥と圧倒された次第です。例えるならば、奈良の木造寺院内の内壁マテリアルの雰囲気に似た、視点を吸い込むような果てしない深みがありました。人もさほど多くなく、自由に色々な角度から見れたのも良かったのです。

 

 

そうなのよ。

 

今どきの美術展が、どうも好かんのは、自由に色んな角度から見れる「余裕」がないんですよネ。

 

イヤホンをつけた人は、絵も見ないで解説の文字パネルの前に群がって、絵そのものの鑑賞の障害になるし、まるでラーメン屋さんの行列のように、妙にペースにハメられるし‥‥で、美術展は(昔からそうだったけど現代は特に)興行、イベント、催し物になりすぎちゃってますよネ。絵画を純粋に堪能できるソリューションでは全く無いです。‥‥特に鳴り物入りで開催される美術展ほどネ。

 

解説を聴く必要なんて無い‥‥というのが、私の持論です。絵そのものだけから印象を受け取れば良いのです。

 

解説がないと絵を見れないのかなあ‥‥。逆に邪魔だと思うんですよ。絵オンリーに集中できないじゃん。

 

絵画の時代背景とか、今、必要? 絵画のあらましや時代背景などの文字情報なんて、後で図録で読めばいいじゃん。絵を文字で理解した気になるなんて、その絵を描いた画家がちょっと可哀想。

 

それよりも、今、目の前にある実物の絵画から受ける印象を、できるだけ阻害物を挟まずに、受け取ることに全能力を使ったほうが良いんじゃないの? だって、文字解説なんて、後からでも確認できるんですヨ。

 

実物の絵画は、今、この時間しか直接の目で触れ合えないのです。

 

 

絵画鑑賞は教養‥‥か。絵画を教養に結びつける下心なんて全く不要だと私は思いますけどネ。「この絵、好き‥‥!」でいいじゃん。それが一番嬉しいんじゃないのかな、絵画にとっても。 ‥‥で、興味が湧いてきたら、その時点で色々と時代背景とか画家の生涯とかのメタ情報を掘り下げれば良いのだと思います。

 

絵画を鑑賞するマナーは、ただ1つだけです。絵を見て堪能することです。

 

鑑賞順路の流れに合わせて歩かないと、他の人の迷惑になる‥‥とか、遊園地の順番待ちみたいなマナーは、そもそも美術を鑑賞するマナーにはないでしょ。あー、考えただけでもイライラするし悲しくなってしまうわ。

 

なので、最近はさっぱり美術展にはいかないようになってしまいました。人混みを見にいくなんて、まっぴらごめん‥‥です。

 

 

でも最近、美術「展」ではなく、美術「館」に行ったら、‥‥‥‥まだあった!! 美術を鑑賞する空間が、変わらずにそこに。

 

美術展にいくから悲しいことになるんですよネ。美術展は、そりゃあ、開催期間中の明確な収益を上げるために、来訪者の美術体験よりも、「このイベントでどれだけ稼げるか」という興行主のビジョンのほうが優先されがち‥‥ですもんネ。

 

美術館は、そこに展示されている絵画を、見に来る人だけが見に来る‥‥という、随分とスローなスタンスです。美術展のようにガツガツしてない美術館がまだあったんだ‥‥と、とても嬉しく思いました。

 

目的の絵画を、まさに次から次へと至近距離や離れたり自由に見れて、衝撃のるつぼ。「こうだったのか。こう描いていたのか。こんな仕組みだったのか。」といくらでも近くも遠くもいろんな方向から鑑賞できる、まさに「絵を見るため」の時間と空間でした。

 

美術「展」に辟易している人は、自分の欲する画家や流派の作品を所有する美術「館」の常設展にいくことをお勧めします。

 

美術展はダメだけど、美術館はまだまだイケます。

 

 

実は上野の近代国立美術館も、企画展よりも常設展のほうが、人がまばらで、美術と間近に向かい合えるんで、オススメなんですよ。結構、有名な作品も常設しているし、色んな流派の作品を楽しめますしネ。

 

 

見に行った美術館については、実は本業のアニメ制作技法にも深く関わる「商売」のことなので、ここでは書けませんが、絵画から得られるインスピレーションはハンパないです。もちろん、それそのまま技術を模倣できるわけではないですが、思考といいますか、構造といいますか、間接的に透過的にアニメに応用できるビジョンが豊富です。観念的影響‥‥と呼んでもいいかも知れません。

 

まあこれも私の持論ですが、アニメを作っているからといって、アニメをいっぱい見たところで、得られるインスピレーションは極小です。同業者が他の同業者のテクニックをカジュアルに模倣するだけに終始しがちです。「崩し顔」なんてその最たるものでしょう。近親交配の奇妙さは生じるかも知れませんが、それはいわば、締め切った部屋のよどんだ空気のようなもので、時には外気を取り込んで部屋の空気を入れ替える必要があると思っています。

 

アニメの映像表現において、より一層の広がりを得たいのなら、アニメ以外のものに旺盛に触れていくべき‥‥と私は考えます。アニメを作っているからアニメだけ‥‥というのは、一番マズいパターンだと思います。作り手側であるのなら、ネ。

 

 


それぞれの道

ここ数日色々書いてますが、結局は、表題の通り‥‥ですよネ。自分で自分の将来の道を選択して進むしかないです。それが個人であろうと、作業集団であろうと、会社であろうと、業界全体であろうと。

 

私がこのブログで書いている未来の道や方向性は、ひとつの選択肢に過ぎません。昔ながらのアニメの作り方が良いと思う人は、その思いが成就する産業スタイルを模索して進めば良いのです。私も、自分の新しい制作技術に対して、妙な全体主義をブチまけるつもりはなく、むしろ「レッドオーシャン」にならない程度の規模で収めていくのがベストであるとすら思っています。

 

要は喰えない職業から脱却すること。アニメ制作事業が、「未来の設計ができる職業」「親御さんがYESと言ってくれる職業」「自立して生活できる職業」になる‥‥とでも言いましょうか。

 

その状況が成立できるのなら、70年代スタイルで続けても何ら支障はないわけです。でもまあ、70年代スタイルだと2020年代にはあまりにも不適合な要素だらけゆえにそもそも「喰えない状況から抜け出せない」ということを何回も書いているわけです。‥‥でも、私の思いつかない、70年代スタイルのままを現代の労働基準をクリアして成立させる方法があるのなら、それを知る人が自信をもって実行すれば良いんだと思います。

 

 

以前、西陣織の継承者の話題を見かけたことがあります。これです。

 

https://togetter.com/li/1090731

 

引用〜

将来的に仕事にしたい方を募集します。ただし最初の半年は給与的なものも出ませんし、その後の仕事を保証はできません。

〜引用終わり

 

何と言いますか。今のアニメ現場の状況に似たものがありますね。最後のほうまで読むと、伝統の技術が現代社会の中でどう生き抜いていくかの難しさも垣間見えるようです。

 

 

思うに、人材を雇用する、登用するということは、その人間を使う側のリスクも求められわけです。同時に、人材を見抜く能力も、その能力を現代のビジネスに繋げていくしたたかさも、‥‥です。

 

誰でもいいから来て。教えることは教えるから。

 

‥‥なんていうのは、何とも終末的な人材活用です。技術職の求人は、学校のクラス分けとはまるで違うのですから、「誰でも」なんていうわけにはいきません。雇用する前にキッチリ能力を見極める必要があり、高い技量と経験と見識が、採用試験官側にも求められます。試験官のレベルが低いと、現場のレベルもどんどん低くなっていくのを、‥‥まあいいか、これは。

 

人材の流れに変調があらわれるのは、「産業そのものが時代性と錯誤している」「就労状況が現代生活に適応しない」など色々あるでしょうが、ヤバい流れであることには変わりないです。現在のアニメ制作は、「現代生活に適応しない」点で色々と指摘され始めてますネ。

 

ただねえ、人を雇う‥‥ということを、軽く考える場面は、よく見かけます。当人の人生にとっても、会社の未来の発展にとっても、大事なことなのに‥‥です。

 

人材を雇用するということは、雇用する側も多大なリスクを背負う覚悟が必要なのです。なので、将来にエースやチーフになれない人材を「合格」させるなよ‥‥という話です。最低限の見極め、つまり、鳥は鳥、魚は魚であることを見抜かないとさ、魚に空を飛べって言ったって、トビウオくらいにしかなれんじゃないか。

 

「合格」させたなら、「技術職の合格」に見合うだけの、当初から処遇・待遇は必要だと思います。しかし、「将来のエース候補の成長見込みで合格」ではなく、「とりあえず雇ってみるか」的な軽い考えで採用する側も迂闊でいるから、「時給200円相当」とか「月給6万円」とか、「半年稼ぎなし」とか、「仕事の保証なし」なんていう文言が並ぶのでしょうけどネ。

 

私は少数小規模の現場を目指しているので、特にその辺に神経質なのだと自覚します。「とりあえず」だなんて軽い判断で雇用したら、少数小規模で高効率高技術の現場なんて成り立ちませんもん。高品質を実現できない現場は安く買い叩かれて、結果的にスタッフに安い賃金しか供給できません。

 

高い技術力と生産力を持つ人間には、高い報酬が与えられる‥‥という当たり前のメカニズムを実現するには、無料で教えるから、無報酬で‥‥なんて言ってたら全くもってアウトです。それじゃあ「アマチュアのたしなみ」の言い草です。現場を維持する側は、相応のリスクを背負うことになりますから、雇用した人材は是非ともエースに成長して「技術の砦」になってもらう必要があります。その「砦」で技術集団は技術開発と効率向上だけでなく、利潤を追求する戦いもするわけです。

 

 

私の長い現場経験での認識なのでハッキリと書きますが、現場のために人材が必要であるのと同時に、全く等しいレベルで、人材のために現場が必要でもあるのです。

 

現場と人材は全くのEVEN、等価なのです。

 

人材が快活豪快にアクションできる現場を有し得なければ、人材は単に消耗品になり下がります。

 

現場のための人材、人材のための現場‥‥という相互等価の条件が成立してはじめて、空間と人間を「かけ算」して組み合わせることができます。

 

もし、現場のためだけに人材が必要‥‥だなんて思っているのだとしたら、その現場は「人が足りないから人を増やして足し算、人が辞めていったから引き算」なんていう稚拙な演算を繰り返すだけです。能力が冪演算的に増えていく状況など夢のまた夢です。

 

 

しかしまあ、そういう人材雇用の考え方の根本も、結局は「どんな道を歩むか」というリーダーの考え方に起因します。

 

もしかしたら、

 

「人とは無能力な存在である」

 

or

 

「人は何らかの能力を有している」

 

‥‥という相反する考え方の違い、人それぞれの「人間の根本に対する捉え方」の違いが、道を進む上で作用したり、人材雇用にも影響したりするのかも知れません。色々な事例を見ていて、そう思います。

 

現場のリーダーが「人に対してあきらめている」ような性根を持つのなら、現場も相応に「あきらめたような現場」になると思いますヨ。「足し算だけを期待する現場」とでも言いましょうか。「10の能力を持つ人間を雇用したのだから、10の成果が期待できる」なんて考える現場。

 

でも、未来の日本の人材活用って、そんな単純軽薄な足し算引き算では、成り立っていかないと思うんですよネ。特にアニメにおいては。

 

「10の能力を持つ人間が、現場で、違う10の能力を持つ人間と交差して合力した場合、結果的に10x10=100のポテンシャルを発揮する」というような現場を作っていくべきです。

 

ハイスペックな機材設備の現場に、凡人を数だけ揃えて座らせても、安PC程度のポテンシャルしか発揮できません。逆に、高い技量を持つ人間を、タコ部屋みたいな場所に詰め込んでも、個人の能力だけで采配する作業に徹してしまい、機材設備やネットワークを活かして高い技量をさらに高度な技術へと拡張することはできません。

 

ハイスペックな機材設備の環境空間に、高い技量を持つ人間たちを配してネットワークし、足し算では不可能だった「かけ算の事業」を成し遂げる‥‥というのを、手が届く理想として掲げていくべきだと、少なくとも私は思います。

 

 

でもまあ、そんな理想の掲げ方も、結局はそれぞれの道。

 

2020年代に向かって、どんな分岐路を選択するかは、各人の自由です。

 

自分で、「これでうまくいく」と思う方法を選択して進むだけです。

 

今までの方法でうまくいくとおもうのなら、そのまま続ければ良いし、新しい方法じゃないと生き抜けないと思うなら、新たな道を進めば良い。ただ、それだけのこと、ですネ。

 

 

 


ノスタルジーとの天秤

私は20代の頃にバイクを毎日のように乗っており、特に2ストロークエンジンのバイクを愛好しておりました。今にして思えば、燃費は悪いし、排気ガスは多い、色々と問題の多いエンジンでしたが、一方で、出力特性は圧倒的なものがあり、現代の250ccのバイクが軒並み20馬力程度で高めでも30馬力ちょいなのに、2ストは最低40馬力、ちょっとカスタムすれば60馬力は叩き出す豪快な出力を有しておりました。

 

その大馬力、大出力を、いかに扱って操縦するかが、たまらなく魅力だったのです。もし、時代が逆戻りして許されるならば、今でも2ストのバイクに乗りたいと思います。マイルドな4ストに比べて、ピーキー(高回転域でパワーが炸裂する)なエンジン特性も、じゃじゃ馬を乗りこなす快感に満ちていました。RMX、TDR、KDX、ガンマ、NSR、SDR、etc...。

 

でも、今はもう許されないのです。あえて乗りたいとは思いません。ヨボヨボに疲れ果てた中古車2ストの吹け上がらないエンジンは、逆に虚しく切なく悲しくなります。2ストは記憶の中のイメージ、「あの時代でしか得られなかった、格別の体験」として、大事にとっておきます。

 

まあ、数十万円かけてレストアして、民家から離れた私有地のコース(公道ではない場所)を走るぶんにはOKでしょうし、部品供給も怪しくなってきた旧車を労って細々と乗るぶんには許容されるでしょうが、2ストの新車が出ることはないでしょう。

 

戦後の経済成長と技術更新の勢い、豊かさを手にできるようになった社会‥‥と、様々な時代の移り変わりの中で、手にできた「旬のもの」だったのです。恒久的なものでは決してなかったのです。

 

燃費効率が著しく劣り、加速すれば白煙とエンジンオイルを撒き散らすようなシロモノは、今の社会に適さないのです。

 

これはもう、どうしようもないです。

 

俺はサムライだ。廃刀令なんかクソくらえだ。‥‥なんて反発しても、時代が「刀を不要」とする流れに変わっていくのなら、ただ浮いた存在になっていくだけです。浮くだけならまだしも、社会の「敵」なんて思われ始めたら、厄介至極です。

 

アニメの制作も似たような状況です。

 

前世紀にはOKだった「人の使い方」が、もうそろそろNGになってきているのだと思います。ゆえにブラックなどと揶揄されるのです。

 

「時代の流れに負けるのか」と口惜しい人もいるかも知れませんが、その通り、負けるのです。70年代に本格化したテレビアニメの作り方は、言うなれば「2スト的人材雇用」であり、もはや時代に適さないのでしょう。

 

「人間の労働力」という「産業の燃料」とも言うべきリソースを、非効率極まりない「悪燃費」によって、野放図に消費していく‥‥というやり方は、もう2020年代の日本では「アウト」なのです。その現実を直視できるか否かで、アニメ制作現場のありかたも、人間の使い方も変わってきましょう。

 

 

ノスタルジーは私にだって抱えきれないほどあります。70年代のアニメを見て、アニメを作りたいと熱烈に思い込んだ少年時代だったのですから。

 

でも、ノスタルジーと現代の人材雇用を天秤にかけて、ノスタルジーが勝ることはありません。現代の人材を内包する社会の流れを、うまく活用することを最優先に考えます。決して、拒否るのではなくネ。

 

 

正直に言いますと、2ストは2ストでしか得られない、唯一無比の快感があります。それは何を代替にもってこようと、代われるものではありません。紙に鉛筆で描いて1枚ずつ動かすアニメ制作技法も同じで、それにとって代われるものなどありません。

 

しかし、その存在自体が、現代に合わないのです。

 

今でも2ストエンジンで、排ガス規制に適応したバイクは作れるらしいです。しかし、そのコストは半端なく、とても「売り物にならない」=産業製品として成立しないんだそうです。

 

思うに、紙に鉛筆で描いて1枚ずつ動かすアニメ制作技法を採用するのなら、1分500万のコスト、10分で5000万、100分で5億くらいの制作費は必要だと思いますヨ。現代の労働の基準にあてはめて、技術職として各スタッフのコスト計算をするのならね。

 

で、それで成り立ちますかね? 無理ですよネ。鳴り物入りの特別な大型企画でしか実現できないでしょう。

 

その「無理」を、70年代テイストを引きずった生産コスト感覚で相殺して、各スタッフに強いて作り続けているのが、旧来アニメ制作技法と現場です。私はやがて、その「無理」は破綻する時がやってくると思っています。「社会の敵」のように認識されてネ。

 

新人スタッフは親元から離れて「社会人」として現場に入ってきますが、親がまず「現場の悪評」ゆえにアニメの現場に入ることを許さなくなるでしょう。「現場」の状況はNHKでも報道されましたし、今はネットで色んな情報が得られますから、特に家を継ぐ立場の人間のアニメ業界入りは敬遠されるんじゃないですかネ。

 

アニメ業界人のノスタルジーに、いつまで世間が付き合ってくれているのか、考えてみたことはありますか。

 

付き合いきれなくなっているから、ブラック労働だ何だと取り上げられているんじゃないですかネ。

 

 

アニメ制作の事業に関して、未来とノスタルジーを天秤にかけるのなら、私は迷わず即決で未来を取ります。

 

ノスタルジーは天秤から降ろして心の中に大事にしまっておけば良いのです。懐かしくてたまらなくなったら、アマゾンで配信している昔の東映アニメでも見ます。

 

ノスタルジーを現場に持ち出す必要はない‥‥と思います。

 

 

 

ちなみに‥‥、バイク業界紙の関係筋によりますと、今年(2017年)もまた、排ガス規制が実施され、多くのバイクが生産終了になるようです。ホント、ぶっちゃけ、規制にがんじがらめの20馬力のプアパワーバイクなんて、乗る気がしない‥‥とは思いますが、一方で、プアなパワーであっても、もっと他のバイクの要素を楽しんでも良いのかな‥‥と思い始めている自分もいたります。

 

2ストの時代はある意味乱暴な時代ではありましたが、やっぱり懐かしく想う郷愁は否定できません。あの時代のあのパワー感は、2020年代に、他の形に姿を変えて、アニメ作品制作の中で具現化したいと思います。ノスタルジーではなく、新たなドクトリンとして。

 

 


ずけずけと未来を

「アニメの仕事は、産業として成立していない」とは、よく耳にするフレーズです。で、その次に展開される論調は「単価が安すぎる」「時給換算で安すぎる」‥‥です。

 

もういい加減、気がつくべきだと私は思っています。そういう論旨にゴールはない‥‥ということを。

 

仮に、作業単価が今の倍になったとしても、問題は解決しないと思うからです。むしろ、余計に「火に油を注ぐ結果」「傷に辛子を擦り込む結果」となるでしょう。私は「単価が安いからダメなんだ」なんていう近視眼的で全体を見渡せていない論調になど、一切加担したくないのです。ぶっとばしで雑な作業をする人間や簡単なシーンを担当する人間だけが余計に稼げるような構造ができて、一層悲惨で絶望的な状況が生み出されるだけです。

 

今までのアニメの作り方は、もはや総体として、2020年代の産業として成立しないのです。

 

 

日本で何が一番金がかかるか?

 

前回も書きましたが、「空間」‥‥場所、土地、占有する面積です。

 

そしてもうひとつ、同じくらい金がかかるものがあります。それは「人間」です。

 

つまり、2020年代を間近に控えた現代において、「空間と人間」を最大限活用できない産業は、どうやっても苦しい立場に追い込まれるのだと思います。1970年代の「空間と人間」の使い方が2020年代に通用すると思っているのだとしたら、かなり「おめでたい」思考です。「アニメだから時代錯誤が許される」とでも言うのでしょうか。

 

2020年代の「空間と人間」に、「時間」という要素を与えた時に、何が創出できるか‥‥が、最大のポイントでしょう。

 

私は、

 

空間 x 人間 x 時間

 

‥‥という掛け算によって、まずは技術を生み出し、その技術によって作品・商品を生み出すメカニズムを作りたいと考えます。要素は決して「足し算ではなく、掛け算に」する必要があります。

 

「掛け算の演算子」を体現するのは、まさにコンピュータやネットワークです。概念的な表現になりますが、要は、

 

空間コンピュータ人間コンピュータ時間 =技術

 

技術ネットワーク技術ネットワーク技術ネットワーク技術 =作品・商品(産業)

 

‥‥というイメージです。

 

2020年代を間近にした現代、空間と人間と時間を繋ぎ合わせる演算子はコンピュータとネットワークであり、それはアニメ制作でも同じです。

 

 

 

旧来のアニメ制作システムは、はたして、空間と人間と時間を有効に活用できているでしょうか。

 

はっきり申しましょう。活用できていません。

 

空間と人間と時間を甚だしく無駄に使い続けて、現代社会の技術革新を無視し続けて、でてくる言葉は「金がない」「時間がない」「働いてて厳しい」‥‥だなんて、窮状の自作自演です。

 

1970年代には有効だったメソッドは、2020年代に有効でないばかりか、むしろ、諸悪の根源とすら言っても言い過ぎではないのではないですかネ。

 

空間と人間と時間を有効に活用できない現場で、新人の動画マンが喰えないだなんて、よ〜く考えてみれば、あたりまえじゃないですか。母体そのもの、旧来システムのアニメ産業そのもの、現場そのものが、効率の極めてマズい大問題を抱えたまま、現代社会に居心地わるく居続けているわけですから。

 

空間と人間と時間を有効に活用できない古い意識で凝り固まった現場で、新人の作画スタッフが喰えるようになる状況なんて、永遠に実現しないんじゃないですかね。

 

 

 

ですから、「アニメは産業として成立していない」というセリフのあとに、「単価がどうだ」「就労の状況がどうだ」と言っても、甚だ的外れなのだと思います。

 

「アニメは産業として成立していない」というのならば、「昔からのアニメの作り方そのものが現代社会に著しく適していない」というべきでしょう。そこを見据えない限り、井戸端会議で「最近厳しいよねえ」と愚痴って憂さ晴らしするだけのことです。

 

状況がひどいと言いながら、その状況が何によってもたらされているかを解明しようともせず、アニメを産業としてゼロから作り直す気概すら持たず、「辛い」「誰か助けて」なんて言い続ける茶番に付き合い続けたい‥‥でしょうか。

 

しかし、ひとたび、旧来の現場に入り込んでしまうと、「辛い」「誰か助けて」と言い続ける自分に成り果てていきます。旧来の現場が、抜け出すことのできない永遠の居場所のように、どんどん自己洗脳にハマっていくのです。アニメを作るには、この方法とこの場所しかないんだ‥‥と。

 

私はイヤですね。そういうのは。

 

 

まあ、だから、最近、エドワード・ヴァン・ヘイレンを思い出したのかも知れません。自分ながら。

 

「ダメだったら弾き方そのものを変えちゃえばいいじゃん」「ギターなんて作り変えちゃえば良いじゃん」

 

過去の様式に縛られ続けて、いつまでもウジウジウジウジ悩んでこねくり回すんじゃなくて、今、手元にある道具と自分のアクションで変えていけば良い。

 

エドワード・ヴァン・ヘイレンの演奏は、今聴いても、パワフル至極でポジティブ、プラスイメージのベクトルに溢れています。改めて聴き直すと、「この凄まじい勢いって、何なんだろう」と、新鮮にすら感じます。音楽に対する、あけっぴろげなまでの楽しさが発散されています。

 

等しく、アニメを作るのは正直楽しい。根本的に痛快で快感的です。だって、自由に思い描いたキャラや情景が動いちゃうんですから。‥‥それを、なぜ、昔作ったアニメ制作の様式に固執して、苦しい作業にどんどん落とし込んでしまうんでしょうかネ。完成したアニメ作品そのもに、現場の阿鼻叫喚がじっとりと呪いのように染み込んで、表面的な明るい色彩のキャラの奥に、水カビ・黒カビのような暗さが見え隠れするのを、まさに映像そのものから感じ取れませんかネ?

 

現代には、現代のアニメの作り方があるはず。

 

 

 

「アニメは産業として成立していない」??

 

だったら、2020年代の現代に、改めて、産業として成立するように、アニメを「再発明」しましょうよ。ジョブズっぽい言いまわしですけど。

 

今必要なのは、しゃがみこんでセンチメンタルに傷をツツくことではなく、立ち上がって多少荒々しかろうと新しいフィールドにずけずけと乗り込んでいくこと‥‥だと思います。

 

 


ペーパーレスをテッテイ的に

現実的な話、これからのアニメーション技術展開において、紙と鉛筆をこれ以上使い続けても発展していかない‥‥と私は判断しております。紙と鉛筆を使い続ければ使い続けるほど、技術の発展は先延ばしになります。

 

ふと視点を変えて、「今までの技術を伝統として継承するんだ」というのならば、紙と鉛筆は重要なアイテム、中心的存在となるでしょう。であるならば、「紙と鉛筆を存続させる強い自覚と意識」が必要になりましょう。漠然と今まで使い続けてきたから‥‥なんていう意識ではなく。

 

技術を「伝統として保存する」のではなく、「時代とともに発展し続けて、未来と共存していく」と考えるならば、もはや「できるだけ紙は使わない方が良い」と私は考えています。2017年の上半期でそのあたりの思考は全くもって明快でクリアになりました。‥‥おそらく、最近「ワンハムワンボリューム」のギターを作ったのは、私なりの原点回帰、そして、過去とのピリオドを兼ねていたのだと思います。人は、何か新しい境地を目指す時に、自分とはなんぞやを改めて問うのと同時に、今まで背負ってきた荷をおろして身軽になる必要があるのかも知れませんネ。

 

自分の机の周りに必要なものは何か。

 

それは決して、紙の時代に生きて、なんとなく持ち続けてきた、紙を束ねるバインダーでもドキュメントボックスでもないはず。

 

もし紙が必要だとすれば、紙でしか手に入らない書籍の類いだけでしょう。徒然に溜まっていった印刷物や紙で描いた絵を、創作の最前線である机の周辺に放置して「場所取り」させている場合ではないです。最前線=制作・創作の作業場の「特等席」が、なんとなしに溜まり続けた紙の類いに占拠されているのは、作業の根本的な効率に関わります。

 

この2年くらい、旧来の原画作業をiPadで作業しましたが、設定類は全てデータとして供給してもらい、PDF化してサブのiPadやFireで表示して作業しました。それで十分作業は可能ですし、紙に机を占拠されずに済むので、机が広く使えます。旧来作業においても、ペーパーレス=データ化が有用なことは、私の中では既に実証済みで、新技術を展開するのなら、紙は1枚も存在すべきではないとすら思います。

 

しかし、一方で、自分の自宅の作業場をみると、まだまだ紙関連のものが放置されたまま残っています。

 

 

思えば、全く触らずに「デッドストック」状態になっている用紙の類いを、一番手の届く位置に置き続けているのは、我ながらどうしたことか。紙をこれ以上増やすつもりがないのに、机の脇の棚で堂々とドキュメントボックスが鎮座しているのは、なんとしたことか。

 

上述した通り、人は色んなものを貯め続けて背負ってきた経緯がありますから、紙もその流れの中で溜まり続けたわけですが、これから新しいプロジェクトに専心するには無用の品です。‥‥なので、自宅の作業場もどんどん紙をなくすべく、案を練っています。

 

自分的には、紙の存在意義を明確に「清算」する時期なのだと思います。

 

もしデータではない、リアルな物品が身近に必要なのなら、紙の書籍と、創作のイメージを膨らますための立体資料でしょう。‥‥こんな感じの。

 

タミヤの1/48のミリタリーミニチュアです。1/35に比べて場所をとりませんし、精密度は「コミックやアニメの作画の省略」に適した良い感じで、さらには1/48の航空機モデルと並べて対比できるので、オススメです。‥‥今は、1/48のRX-78もあるんですネ。驚きました。

 

画像データの閲覧だけでは、映像のイメージが貧困になることは多々あります。なんでもかんでも、ネットのデータ検索で済むことはないのは承知しています。

 

しかし、成り行き上でそこにあり続けて場所を占拠する紙の類いは、もはや私には不要です。紙をあえて置くのなら貴重な(=私にとって)書籍、そうでなければ「現実の立体として意味があるもの」を置いておくべき‥‥です。

 

日本がカナダくらい広いのなら、別室に紙資料をアーカイブ‥‥‥とか可能ですけど、日本で一番高価なのは「空間」ですもんネ。紙が絶え間なく増殖して空間を占拠していく様を、制作現場で日々目撃していますが、これから先、紙が現場を埋め尽くしていく状況を放置すべきなのかも、熟慮する必要があるでしょう。大量の紙素材に占有された空間を、未来の映像技術開発に活用すれば、どれだけ技術が発展できることか。

 

日本においては、空間をどのように有効に、これから先の未来に活用するか‥‥ということだと思います。

 

極論めいたことを言いますが、アニメの制作会社・制作集団が「過去に生きるのか」、「現在そして未来に生きるのか」を確実に分けていくのが、「紙」との関係だと思います。

 

過渡的に「デジタル作画」であったとしても、まずは紙から離れられるか‥‥が、過去の追憶に生きるか、未来を生き抜いていくかの、決定的な行動指針となりましょう。

 

* * *

 

デジタルテレビ放送、DCP、デジタルディスクの商売、そしてネットの映像配信。アナログデータなんて、どこにあるのか。アナログのデータで今後どれだけ映像ビジネスが成立するのか。

 

どんなに「鉛筆と紙の力を信じて」も、最後は「デジタルのお世話になっている」のです。フィルムを手放した時点で、紙の時代も終わっていたのだと思います。

 

私は紙が嫌いなわけでも憎んでいるわけでもなくて、むしろ長く深い愛着がありますが、しがみ続けていても商売は発展していかないじゃん?

 

映像の商業にこらから先の未来も関わっていくのなら、リアルな選択として、紙との付き合いは終止符をうたなければならない‥‥というのが、私の30年間アニメを作り続けきた上での答えです。

 

人間はあくまで生身の存在ですが、身の回りの物品、道具、そして創作の表現は、デジタルネットワークの中で発展していくことでしょう。その「変えられない社会全体の流れ」に観念して、自分の方針を決定すべし‥‥です。

 

どこかの国から核ミサイルが飛んできて爆発して、世界中が戦乱に巻き込まれるのなら、デジタルネットワークなんて物理的に分断されて成り立たなくなるかも知れません。しかし、そんな時はアニメだって今のようには作れないでしょう。デジタルネットワークが崩壊したら、その時はその時で考えることにします。

 

文明社会が滅亡するような事がなく、発展を続けていくのなら、デジタルデータのネットワークは‥‥どう考えても‥‥主流でしょうねえ‥‥。アナログデータはアンティークや懐古趣味の世界で存続するとは思いますけども。

 

デジタル映像産業の中において、紙を使い続けて「意図的にガラパゴス化」することで希少価値を高めることはできるでしょう。カセットテープが今でもわずかな会社で生産され続けているように。

 

しかし、本流、主流は、デジタルをどれだけうまく使いこなすかです。

 

なので、自分の身の回りから、紙をどんどん片付けていこうと思います。今までも取り組んできたことではありますが、今後はテッテイ的に‥‥です。

 


でけた

ワンハムワンボリュームのギター、できました。

 

これを‥‥

 

 

こんな感じに。

 

 

休日の数時間の作業でできる簡単な改造でした。

 

ピックアップのザグリが合わなかったり、ピックガードがネックに干渉したり、ピックガードのネジの穴が合わなかったりと、色々と修正箇所はありましたが、各種電動工具と材料でちゃちゃっと仕上げました。工具がないとそこそこ苦労するであろう作業ですが、普段から他の工作用途で揃えておいたので、スムーズに作業は完了しました。工具さえあれば、簡単な加工です。

 

 

ピックガードを固定するネジ穴は、結局1つしか場所が合わなかったので、全て木工パテで埋めて穴あけをやり直しました。まあ、違うメーカー製のピックガードの穴が合致することなんてありえないので、穴埋め&穴あけは想定しており、再掘削が可能な木工パテを準備しておいたのです。

 

出来上がった感想は‥‥、ん〜、バランスが悪い。

 

ピックアップの性能に明らかにギター本体が負けてます。木材云々ではなく、ブリッジなどのパーツの総合的なクオリティが、ダンカンのピックアップに各所劣っております。

 

ギター歴のそこそこ長い人であれば、弾いてみて「仕上がってない感」を実感できると思います。要は、「ちぐはぐ」なのです。弾いた時の感じがネ。

 

安価なパーツを組み合わせて、製造工程も相応に低コストで組み上げられたギターに、ダンカンのピックアップだけ浮いているような感じです。全て安い要素で組み上げられていた時には気にならなかったことが、気になりだす‥‥とでも言いましょうか。でもまあ、そのバランスの悪さも想定していたことではあるので、徐々に詰めていこうかと思っています。ブリッジが特に具合が悪いので、まずはそのあたりから調整します。

 

‥‥ちなみに、ブリッジのネジが2つ外してあるのは、5弦の下のネジが斜めにささっていたので、対称で2弦と5弦のネジを外したのです。ぶっちゃけ、1弦と6弦のネジだけ刺さっていれば大丈夫ですしネ。

 

肝心の音の方は、グッと良くなりました。ピックアップはまさに「音を拾う中心的存在」で、それをダンカン製に交換したのですから、当然といえば当然。バイクでいえば、エンジンを交換したのに匹敵しますもんネ。

 

以前の製品出荷オリジナルの状態は、ポールピースの位置が弦の真下にきてなかったりと問題が多かったですが、交換したらピッタリ合いました。何にでも言えることですが、安さを実現するにはパーツだけでなく製造工程も安く(=雑)仕上げて、安い製品に仕立てるのでしょうから、その辺の「作りの雑」さを徐々に詰めて修正していけば、そこそこな全体バランスには仕上げられると思います。‥‥ああ、これはアニメ制作も同じスね。

 

 

合わせて、以前から作ろうと思っていた小道具を自作しました。

 

弦を巻く「ストリングワインダー」の6.35ミリ六角ビットです。

 

 

安いストリングワインダーをぶった切って(サウンドハウスの120円のヤツ)、マイナスのビットと組み合わせて固定しただけの道具です。

 

電動工具に装着して使います。下図のように。

 

ブラック&デッカーのミニ電動ドライバ。回転数は固定ですが、クラッチ機構があらかじめついてたりと、木工や石こう壁などの軽作業にうってつけです。

*同用途のボッシュのも良いですが、クラッチ機構が必須の場面(脆い石こう壁とか)ではトルクアダプタを別途購入して装着する必要があります。

 

マイナスビットは、モノタロウさんで買った200円の安価なビットですが、それでもちょっと勿体無いくらいです。100円ショップのビットで十分でしょうネ。ワインダーにマイナスの切り込みを入れてマイナスビットの先端を合わせて、瞬着で仮固定し、金属用パテでガッチリ固定すると、こんな感じになります。金属用のパテはかなり固くなり強度が保てるので、色々な場面で重宝します。

 

この「ワインダービット」でギターの弦を巻けば、かなり楽チンです。昔から作ろうと思っていたアイテムです。

 

‥‥が、既製品もあるようで、作るのが面倒な人はコレを買っておけば良いですネ。私は既製品があるのを数日前まで知らなかったので、自作しちゃいましたが‥‥。

 


ワンハムワンボリューム

人生の長い時間の中においては、あえてターゲットを絞り込んで行動する期間も必要‥‥だと思っております。ここ5〜6年は、時間を少しでもアニメーションの新しい技術に注ぎ込むべく、全くギターを弾かないように自制しておりましたし、旅行・観光の類いも、絶っておりました。

 

しかし、雪解けの時も、人生の流れの中では巡ってきます。ターゲットを絞り込んで一直線に専心した結果、未来の情景が見え始めたならば、少しアクセルを緩めて色んな方向に動きやすくする‥‥ことも必要なのは、さすがに50年近く生きていればわかります。

 

なので、適当にアニメの仕事以外のことも復活させよう‥‥と思っています。本気にならない程度の趣味で。

 

第1弾はギターいじり。原点復帰も兼ねて、1ハム1ボリュームのギターを作って(改造)おります。

 

1ハム1ボリュームとは、こういうギター

 

 

リアピックアップと音量ツマミだけのシンプルな構成です。近年はさっぱり見かけなくなりました。

 

私は、なんだかんだと工夫を凝らした電気配線のギターよりも、ピックアップの電気信号がほとんど直にジャックに出力されるシンプルなギターが好みだったのですが、そんなことも忘れていたこの30年‥‥でした。

 

配線はこんな感じです。

 

 

おそらく、これ以上シンプルな配線はないでしょうが、頭の中で整理するためにもオムニグラフで配線図をおこしておきました。オムニグラフで模式図を作るのは、何だかプラレールみたいで楽しいです。

 

ダンカンのハムバッカーは気をきかせてコイルごとの取り出しができるように4芯(アースを入れると五本のワイア)仕様ですが、赤白のワイアを結線して直列で繋いで、プラスマイナス(ホットとコールド)のシンプルな2極の構成です。

 

この図を作った後で、本家ダンカンのWebでわかりやすい配線図をみつけました。‥‥これがあれば十分でしたネ。

http://www.seymourduncan.com/wiring-diagrams?meta_params=view-all,humbuckers

https://docs.google.com/gview?embedded=true&url=http%3A%2F%2Fwww.seymourduncan.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2016%2F05%2F1H_1V.pdf

 

ちなみに、日本では極性を「プラス、マイナス、アース」と呼ぶことが多いですが、一般的な英文のマニュアルでは「ホット、コールド、グランド(グラウンド)」です。

 

改造と言っても、改造するギターがもともとハムバッカー用のザグリが入っているボディなので、ハンダ付けとネジ止めだけの簡単作業です。トリマーでザグリ加工をしたりとか、シリアル・パラレルの切り替え配線を考えるとか、難しい作業は無用です。

 

必要なパーツは、ピックアップとピックガード、ポットとノブ、そして配線材くらいなものです。今回、ピックアップはトレムバッカーをチョイスしました。

 

 

ピックアップの二強はダンカンとディマジオですが、そのうち、ディマジオを搭載したギターも作ってみようと思っています。私は昔、ダンカンより若干安価だったディマジオをよく使っていました。

 

* * * 

 

しかし、今この歳になって色々と考えてみると、

 

  • プレーヤーとエンジニアを兼ねる
  • 既製品で足りなければ、改造して自分の思い通りの道具に仕立てる
  • 常識や慣用や通例に束縛されない
  • 欲する表現に対して合理的であること

 

‥‥などは、実は私が少年時代に傾倒したエドワード・ヴァン・ヘイレン直系の思想なのだとしみじみ思います。その思想は姿を変えて、私の映像制作のスタンスにそのまんま受け継がれています。10代の頃に受ける影響って、スゴいですよネ。

 

「この道具だとできない」「今まではそうだったから」みたいに言う人々は結構いるわけですが、「だったらできるようにすればいいじゃん」「今から変えればいいじゃん」というあっけらかんとしたスタンスでやってのけてしまう痛快さは、まさにエドワード・ヴァン・ヘイレンのアクションそのものでした。「できないだろ」と言われるそばから、「え?できたよ」と実際にやってのけてしまうのも、実にかっこよかったものです。

 

ワンハム、ワンボリュームというシンプルなギターを今改めて見つめ直すと、色々と感慨深く思えてきます。ギターはあくまでも趣味ですが、そこから得られるインスピレーションは、決して映像と無縁ではないです。

 

アニメ!アニメ!映像!映像!‥‥と思いつめたって、煮詰まるばかりですもんネ。アニメのことしか知らない悪い意味でのアニメバカでは、視野が狭まりすぎて、やがていつか進退窮まる時がくるでしょう。

 

アニメに限定しない色々な物事を吸収しつつ、最終的にはアニメに帰結させるような、良い意味でのアニメバカでありたいと思います。

 

 


芯から金属

Apple Pencilの芯を、あまり交換しないままにすると‥‥

 

 

‥‥のような感じになります。合成樹脂の先端が消耗し過ぎて、金属の円柱のようなものが露出しております。

 

休憩の後、作業を再開しようとして、気がつきました。いつから、めくれていたんだろ?

 

iPad Proの表面に貼ってある保護フィルムは無傷でした。‥‥なので、もちろん、本体のガラスも無傷。

 

多少は金属が触れようと、簡単には保護フィルムは削れないんでしょうかね。ともあれ、すぐに気づいてよかったです。

 

 

仕事で四六時中使っていると、芯の寿命は1ヶ月くらいなこともあります。書き味向上のシートを貼ってあるので、摩擦が多くて、消耗もはやいのかも知れません。

 

しかし、そうしたコストも作業環境全般の運用プランにあらかじめ組み込めば、特に問題はないです。

 

問題は、書き味向上の「保護シートの安定した供給」‥‥ですかね。価格や貼り替えの手間ではなく、結構、頻繁に品切れや生産完了してしまうので、いつでも入手できるわけではないのが、頭の痛いところです。

 

でもまあ、保護シートに限った話ではなく、PC関連製品は、昔から「安定した供給がおぼつかない」性質をもっていました。パっと現れるかわりに、いつのまにか消えてもいる‥‥という。

 

コンピュータの作業環境は昔から「なまもの」なのです。紙や鉛筆に比べて、はるかに流動的です。なまものなので、腐るのもはやい。

 

ぶっちゃけ、紙の作業環境の方が、先読みの計算がしやすいです。コンピュータが「なまもので、計算しにくい」というのも、何だか皮肉な話ですネ。

 

私の場合、保護シートの消耗による貼り換えタイミングは、年に2〜3回なので、耐用年数と実用年数を兼ね合いして、4年分くらい買いためておけば良い計算になります。‥‥となると、10枚か。

 

まあ、今度、保護シートを購入するときは、10枚はともかくとして、半分の5枚くらいはまとめ買いしておきましょうかね。「業務用」だもんね‥‥。

 

 

 

 

 


フランケンシュタイン、ブラウンサウンド

私の洋楽のルーツは、ディープパープル、レッドツェッペリン、ヴァンヘイレンと、とてもわかりやすいメジャーなバンドによるサウンドで、小学生高学年の頃に聴き始めました。

 

小学生でロック‥‥なんて、なんだかマセたガキのようにも思いますが、兄がロックを家に持ち込んだ影響で、自分の意思で聴き始めたわけではないので、マセてたわけでもないのです。ヴァンヘイレンとかを聴き始めるほんの1〜2年前には「およげたいやきくん」を聴いてたくらいなので。

 

で、やはり、兄が家に「エレキ」を持ち込んだので、私も見よう見まねで弾き始めました。グレコのレスポールコピーモデルで、ピックアップが3つついてる、今にして思えば特殊なレスポールでした。最初に弾けた曲は「スペーストラッキン」のリフでした。

 

中学に上がって、お小遣いで初めてロックのシングル盤を買ったのは、「必殺のハードラブ」です。言うに事欠いてなんてことを‥‥と凄く恥ずかしい邦題ですが、原題は「Somebody Get Me A Docter」で、ヴァンヘイレンの2枚目のLPに収録されていた曲のシングルカットです。バンドの来日記念だったような記憶もあります。

(2枚目の邦題が「伝説の爆撃機」なのも、今となっては、かなりハズかしいです。原題は「VAN HALEN II」で、「伝説」も「爆撃機」も全く見当たらない、日本の担当者の相当な「暴走」ですネ。まあ、それも時代の味です。)

 

私はやがて、リッチーブラックモアやジミーペイジよりも、エディヴァンヘイレンに傾倒していきました。底抜けに明るい雰囲気、ギターを我流でイジって改造する痛快さ、結果良ければどんな弾きかたでも導入する天性の感覚派‥‥と、怖い顔して魔法や伝説がどーのこーのと歌うブリティッシュロックよりも、理屈抜きの「今あるものであるがままに」鳴るニューエイジアメリカンロックに強く惹かれたのです。

 

最近、ふと、「そう言えば、自分の少年時代に好きだったサウンドとは、やたらと小細工して音を作り出すサウンドではなく、リアピックアップのみでワンボリュームのストレートなサウンドだったな」と思い出しました。Webで楽器屋さんのギターコーナーを何となく眺めていて、「最近、ワンボリュームでリアPUオンリーのギターって、全く見かけなくなったな」と思ったのがきっかけでした。

 

「フランケンシュタイン」と呼ばれる、エドワード・ヴァン・ヘイレン(以後、エディと略)が初期から使い続けたギターがあります。これです。

 

(レプリカが流行ってますが、フランケンもレプリカがフェンダーマスタービルドから発売されているようです。ほぼ300万円ですけど。)

 

んー、スゴい。ボロボロですネ。

 

経年変化を差し引いても、相当ラフな改造です。ピックガードを「要るところだけブッた斬って」使ってたり、リアのハムバッカー取り付けの都合でボディーのくりぬき穴の形がイビツだったり、見た目なんてどうでも良い‥‥と思いきや、ボディの塗装には3色使ってたり‥‥と、エディならではのバランス感覚としか言いようがないですネ。

 

フランケンシュタインの最大の特徴は、「エディにとって、必要なものだけがそこにある」点です。要らないものは付いていません。「もしかしたら、これもつけとけば、後々で得するかも」なんてみみっちいパーツなんて、まるでなし。「今、欲しいサウンド」に必要なパーツだけで構成されています。むしろ、要らないパーツはぶった斬ってでも廃棄してしまうほどです。

 

その潔さにも、少年時代の私は強く惹かれていたんだと思います。「サウンドがかっこよければいい」「上手ければいい」「前置きなんていらない」‥‥といった、ある種の「実力主義」を根底にしながら、決して技巧に走り過ぎて小難しくしない開放的な明快さを併せ持っていたのです。

 

* * *

 

こうして書いてまとめると、「自分の価値観の原点」になっていることを自覚できます。少年時代に触れる様々なメディアは、当人に大きな影響を与え、中核を形成していく‥‥のですネ。歳をとるとしみじみと判ります。

 

今の私にとって、「サウンド」は「絵」です。そして、「エレキ」は「コンピュータ」なのだと思います。エディの「ブラウンサウンド」が「フランケンシュタイン」によって具現化されていたように、私の欲する「アニメ」を具現化するためにiPadやiMacがどうしても必要なのです。

 

そしてサウンド作りにMXRなどのエフェクターが欠かせないように、Adobe CCやProcreateなどのソフトウェアは欠かせません。

 

私がコンピュータに馴染めたのは、集積回路に比べて甚だプリミティブとは言え、エレキギターの電気回路に馴染んで、つまみやスイッチでサウンドを探し出そうと、10代の頃にイジりまくっていたから‥‥なのかもなと、ふと実感します。

 

*我が家初めてのエフェクター「マクソンのD&SII」。これも兄がエレキと一緒に家にもたらしました。よく歪んだ記憶(ディストーションのエフェクターです)がありますが、一方で平べったい音にもなった記憶もあります。‥‥ただ、昔はアンプがとにかく「弱かった」ので、それで音がイマイチだった可能性もあります。現代の機材の中に組み込めば、良い使い道があるかも知れません。今は、アンプモデリング、スピーカーや箱鳴りやマイクのエア感のシミュレーションなど、様々な音の底上げができますもんネ。

 

10代の前半に、自分の感情を、アコースティック楽器ではなく、電気楽器・電子楽器で表現していたのは、その後の自分の特徴になったと思います。MIDIで0から127の数値で、例えばベロシティ(強弱)を表現するのも、そんなに抵抗なく馴染めましたしネ。

 

しかし一方で、「機械さえあれば、大丈夫」だなんて全く思わず、「結局は当人の感性と技術が全てを決する」と考えるのは、やはりエディの「道具も機械もテクニックも全部必要」という明快なスタンスに大きな影響を受けているとも思います。どんなに高いアンプとエフェクターを取り揃えても、演奏が下手じゃ全然お話にならない‥‥ですもんネ。

 

* * *

 

道具を使う「思想」って人それぞれですけど、「三つ子の魂」みたいに、使い方のドクトリン的な根底部分って、人格や性質が形成されきっていない10代中頃までに無意識・無自覚に型が出来上がってしまうのかも知れませんネ。後天的には変えることのできない根元の部分が、10代中頃にほぼフィックスしてしまう‥‥のかも知れません。

 

まあ、私の場合、ヴァンヘイレンだけに熱中していたわけでなく、家にLPレコードがあったラテンミュージックやクラシック音楽、アニメソング、当時の歌謡曲、高中正義やラリーカールトンやジェフベックのようなフュージョンやクロスオーバーなどにも大きな影響を受けていますから、複雑な組成ではあります。高校の頃にバッハ生誕300年で、浴びるようにバッハの音楽がNHK FMから流れていたのも影響がデカいと思います。

 

私自身が、小難しく考えがちな一方で、スカーッと明快でシンプルで開放的な性質を求めるのは、おそらく、子供の頃に見聞きしていた音楽や映像や絵の「混ざり具合」ゆえ‥‥なのでしょう。

 

複雑なテンションノートを好む一方で、エディの爽快なドローンコード(1,5,8のアレ。パワーコードとも呼ぶみたいです)のブラウンサウンドも大好き‥‥という、真逆とも言える性質は、自分ながら奇妙で、時に持て余すこともあるのです。

 

* * *

 

10代に好んで聴いた音楽って、私の事情だけでなく、色々な人々の「感覚の拠り所」になっているように思います。

 

例えば、コンポジット作業で「空気感」「光」「風」「空間」「冷たさ、温かさ」を表現しようとする人って、多勢の人々とは異なる音楽体験をしてきたことが多いです。私の知るところ、映像ニュアンスの「感覚の表現」に鋭い人は、皆、何らかの音楽体験を通過していて、興味深いです。話を聞いてみれば、皆、音楽に深く関わった経験を持ちます。

 

周囲の話題に乗り遅れないように、流行っている音楽だけを聴いてた‥‥とか、社交目的でバンドを組んでた‥‥とかだと、映像に音楽体験が滲み出すような特性は表れないんですが、ピアノを幼少からスパルタでやってたとか、声楽を大学で専攻していたとか、近現代の合唱をやってた‥‥とかすると、ぶっちゃけ、「ニュアンスの話がすぐに疎通できる」ので解るのです。

 

音に対する探求心は、実は、絵に対する探求心と、根っこで強くネットワークしているのでしょう。

 

別にAfter Effectsなんて、後で覚えりゃ良いんです。私の目する新しい技術による制作現場において、コンポジター(ビジュアルエフェクトなど)に決定的に必要だと思うのは、「ニュアンスに対する鋭い感覚」です。

 

音楽の一節を聴いて、「なぜ、こんな響きのニュアンスになるんだろう?」と興味が湧いて、自分なりに探求したことがあるか否か。

 

例えば、1,3,5,maj7,9,11,13だったり、1,3,5,7th,9,13だったり、1,3,5,7th,9+だったり、トライアド(いわゆるドミソです)の一筋縄ではいかない響きの「ナゾ」を探ったことがあるか、もしくはそうしたハーモニーを自ら奏でたことがあるか‥‥によって、ニュアンスに対する先鋭度・敏感度が変わってくるのでしょう。

 

もちろん、音楽をやっていた人だけが、映像のニュアンスに敏感だというわけではないです。

 

ただ、私の知るところ、「ものすごく微細なニュアンスの話が通じるのは、一般の人より突っ込んだ音楽体験をしていた人であることが、とても多い」のです。憶測や理屈ではなく、経験上‥‥です。

 

ちなみに、今回のお題のエドワード・ヴァン・ヘイレンも、とてもニュアンスには細かい人だと思います。アホみたいにパワーコードだけかき鳴らしているわけじゃなく、とてもユニークなテンションのハーモニーをええ感じにチョイと繰り出してきます。かと言って、テンションノートで埋め尽くしていかにも技巧的になりきらないところが、魅力でもあります。エディは1980年代に、アランホールズワース(=独自の和音とスケールのセンスを持つ鬼才。最近亡くなってしまいました。)を援助してホールズワースのソロアルバムをリリースしたこともあるくらいですからネ。(実は、私がホールズワースを知ったのは、エディ経由です)

 

* * *

 

とりとめのない音楽周辺の話になってますが、最近、シンプル&ストレートなギターが欲しくなってきて、兄から「使うのなら、やるよ」と貰ったバスカーズ(エントリーモデルのストラトコピーの中古品。ハードオフで数千円で買ったらしい。)を改造しようかと思っています。

 

今でもワンボリュームタイプのピックガードは売ってるようですし、ダンカンはオールドタイプのピックアップを製造し続けてくれているので(「TB-59」を買おうと思っています。高出力は必須じゃないので。)、改造と言っても大した手間ではありません。ワンボリュームの電気配線は極めてシンプルですしネ。

 

 

 

絵も音楽も、「芸の肥やし」ですネ。

 

 


雑感。

私はこのブログで、色々と悲観的なことも楽観的なことも書きますが、自分ながら、極めて楽観的だなと感じるのは「人の描く絵は必要とされ続ける」と何の疑いもなしに考える思考です。未来には様々な映像技術が発達して、ゆえにアニメは3DCGに取って代わられる、実写でもアニメと同じことができる、‥‥とは全く考えないところは、妙に、楽観的なんですよネ。

 

人が絵を描き、その絵が人の共感を呼び覚ます限りは、絵だけが表現し得るフィールドは限りなく存在する‥‥と感じます。

 

もちろん、3DCGは今後もどんどんと表現領域が発展していくと考えていますし、実写の魅力も十分承知していますが、一方で、描いた絵を動かすアニメにも「伸びしろは、いくらでもあるじゃん」と感じるのです。アニメを「原動画を描いてペイントして、背景と合わせて、撮影するもの」と限定しちゃうと、技術的にも経済的にも行き詰まりを感じずにはいられないですが、ふと、iPad ProやiMac 5Kなどの現用の機材を起点にアニメの作り方を仕切り直して考えてみれば、「いくらでもやりようなんてあるじゃないか」とぐんと前向きな気持ちになれます。

 

これは言い換えれば、「原画を描いて、動画を描いて」‥‥という「スタイルに固執するのをやめる」‥‥ということなのでしょう。

 

旧来の作業スタイルにしがみつくのをやめて、旧来の定番の技法を手放して、新たに「現在未来の道具で」絵を描いて動かすことを決心できるか否か‥‥ですネ。

 

「昔の方法は、現在においては、どうやら、うまくいかないことも多くなっている」‥‥なんて、当然なんですよネ。だって、今から50年くらい前に、50年前の道具と社会と経済ありきで作り出された方法なのですから。

*注)世界全般のアニメの歴史ではなく、日本のテレビアニメの制作体制が築かれた頃=1960年代後半〜1970年代から計算して‥‥です。

 

でも、現在は2020年代目前。現在の道具と社会と経済ありきで、アニメの作り方を考えるならば、最初から破綻している方法なんて選択するわけはなく、現在の様々な状況の中でどうやって「具合良く、アニメを作るか」をごく自然に考えます。

 

今までアニメを作ってきた数十年間をどうしても意識してしまうから、未来像にバイアスがかかって変質してしまうのです。

 

今までのことはすべてなかったことにして、まっさらに白紙から、「2020年代にどうやってアニメを作るか」を技術的にも経済的にも考えた場合、数千数万枚の大量の作業による多大な人件費を基盤とした制作方法を考える人などいないでしょう。現在未来の社会経済で通用するやりかたを、現在の道具を用いて考えるはずです。

 

わざわざ、最新の道具を有効に活かせず、お金が足りずに運用も厳しい方法を、ゼロから考えるとは思いません。「現実的に有利な方法を考える」でしょう。

 

要は、「過去のしがらみから脱すれば、現在有利な方法を選択しやすい」が、「過去のしがらみに囚われていると、現在不利な方法でも選択せざる得ない」とも言えます。

 

 

 

例えば、東京から大阪まで500キロ。

 

徒歩を時速5kmとして、8時間歩いて40Km。12日かかることになります。日曜は休んだとして、「徒歩で14日=2週間」。

 

その道中での1日3食の食事と宿泊場所のコストを計算して、「うわあ、随分と金と時間がかかるなあ」なんて、2017年現在に考えるでしょうか。

 

江戸時代ならともかく、今は平成です。鉄道網もモータリゼーションも、空を飛ぶ飛行機もあります。「徒歩で500Km」を計画する人など、特別な目的が無い限り、皆無でしょう。

 

新幹線ありき、ジェット旅客機ありき、高速道路と自動車ありき‥‥で考えれば、プロジェクトそのものが大きく様変わりします。「14日の徒歩」で縛られていたプロジェクトの限界を払拭することができ、新幹線などを用いた移動の段取りに1日かけたとしても、残りの13日間を他のリソース(プロジェクトの資源)として活用できるでしょう。

 

「時間と金」が変わる‥‥ということは、人も仕事も、そしてビジネスも変わる‥‥ということです。

 

 

 

「徒歩をやめたら、人間が関わらないものになる」と考える人もいるかも知れません。‥‥しかし、同じ例えで言うなら、飛行機も新幹線も自動車も、それを使ったからと言って、人間は相変わらず関わり続けていますよネ。

 

徒歩も新幹線も、人が移動することには変わりありません。同じく、数千数万枚の動画を描く地道な作業から、コンピュータを活用して動かす作業にシフトしても、相変わらず、人間が絵を描いてアニメーションを作ることに変わりはないのです。

 

私は実際に新しい技術で何度も作業しているので、リアルな感覚で喋れ(書け)ますが、人間はむしろ旧来よりも「関わりまくり」です。より一層ダイレクトに、映像にそのまま自分の「絵作りの挙動」が反映されるので、旧来のアニメ技術よりもデリケートで繊細な要素を人の手で制御しなければなりません。

 

紙を使おうが、コンピュータを使おうが、人間の脳内のイメージを具現化する以上は、人間はイメージ作りの中核なのです。

 

「コンピュータ=人が関わらない」‥‥なんていうイメージ、いつの時代のイメージのままなの? ‥‥という感じです。ミスターゴードンじゃあるまいに。

 

 

 

 

 

旧来のアニメーション技術から新しい技術へと移行することで、表面上は、多くの積み上げた技術を放棄することにもなりましょう。あくまで「表面上」はネ。

 

技術がうわべの段取りだけで成り立っているのではないことは、「技術を真に身につけた人」ならお判りでしょう。「段取りの暗記」ではなく、「技術の核心」を身につければ、いくらでも応用が可能です。

 

A1、セリフはB-(1,2,3かB-(X,1,2のどちらが良いか‥‥なんて瑣末な要素です。未来を考えるのなら、セリフを喋るアニメーション表現をどう処理してどう描くか‥‥の表現技術のほうがよほど重要です。

 

 

2020年代以降の映像技術の中で、「今までのアニメの段取りがないと、喰っていけない」人間になるのは、少々危険かなぁ‥‥‥と思います。「絵と映像を具現化できる」人間ならば、未来のどんな技術スタイルの中でも生きていけるんじゃないでしょうかね。

 

でもまあ、技術スタイルを変えて道具を持ち替えるということは「改宗」レベル・「宗教改革」レベルの物事だとも思いますから、わざわざ「宗教戦争」にこじらせても面倒ですし、各人各グループの思うところで行動して、欲する状況を順次的・累積的に獲得していけば良いのだと思います。

 

 



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