新じゃが

面白半分でじゃがいもの切れ端を土に埋めておいたら、芽が出てにょきにょき育って、やがてヘナっと枯れたので、次の種を埋めるために根っこを掘り起こしたら、じゃがいもが収穫できました。

 

 

小さくて可愛いじゃがいも。

 

レンジで加熱して、食べました。味はごく普通でした。

 

 

園芸って、映像の仕事にも「間接的に」大いに参考になることが多いです。

 

  • 自然の摂理や自然界のシステムを無視して、独りよがりで栽培しようとしてもうまくいかない。
  • 必要な要素は、土、水、光、肥料だけじゃなく、風も必要
  • 栽培場所の条件にあった品種をチョイスしないと発育不良となる

 

‥‥うーん。言い得て妙。

 

植物が教えてくれることは、「デジタル」や「コンピュータ」や「制作システム」にも通用することが多いです。

 

 

いつか、バジルが元気に育つ土地と家に住みたいな。

 


否定されるとキレる人

わたくし、ツイッターはやりませんが、楽しみにしているアカウントはあります。見るだけツイッター。

 

全然、縁もゆかりもない職種の人(と思われる)の日々の言葉を読むのは、中々に楽しいです。考え方や価値観や、生活習慣も大きく異なるので、読んでてとても面白いし、勉強(作劇上の)にもなります。

 

しかし、たまにそういう人が発したツイートが多くの人の関心を呼び(いわゆる炎上)、いろいろと言葉を返してくるのを見ていると、「人間」を感じずにはいられません。

 

ツイートの内容が特定の人間をネガティブ寄りに指し示すと、その特定の人間から猛反発がかえってきて、「否定されるの大嫌い人間」がこの世には多いことを思い知らされます。

 

でも、ツイッターにいそしむ人間なんて、総人口からすれば、大した数ではないでしょうから、ツイッター上では目立つだけ‥‥なのだとは思いたいですけど。

 

 

否定されるのってさ、ある種、良いことだと思うんですけどネ。

 

自分が知らず知らずのうちにハマリ始めている軽めの自己洗脳を解いてくれるから。

 

「え、NO? うそ。 そんなことない。 だってさ、こういう理屈でさぁ。‥‥そう? そうかな‥‥‥? そうかもな。 そういう面もあるかもな。 その方面から考えて見たことは、たしかに今まで無かったかも。」

 

‥‥という感じで、気づきのきっかけが得られるじゃん。

 

 

自分はいつも、これが自分にとって良き選択だと判断した道筋を進んでいるわけで、別の道筋なんて、中々見えてこないもんです。私なんか、その典型です。

 

だからこそ、自分にとってネガティブに聞こえる言葉にも、許容を有しておかないと、道筋を誤ることもあり得ましょう。

 

否定されたその時は「うっ」となっても、最低でも10秒間はプールして、冷ましてから考えてみることが必要だと思います。相手がたとえ経験の浅い年下だろうが、その「NO」の理由や構造を考える許容範囲は、常日頃から用意しておきたいものです。自分は経験も知識も多いから、年下の反対意見なんて全て愚そのものだ‥‥なんていう事こそ、まさに愚の骨頂です。

 

 

否定されるとキレる人って、単にツイッターだけで目立つだけかな。現実社会では、そんなに目にしないんだけどなぁ‥‥。

 


どうでもいいことかもしんないけど

最近見かけた「帰還した爆撃機のダメージの統計を考慮して、爆撃機のどの部分を強化すべきか」という記事・ツイートは、日々の現場運用においても示唆に富む内容です。さらには、自分の作業経験を、未来にどう活かすか‥‥という命題にも、大いに刺激になるものです。

 

‥‥一方。

 

小学生の頃からの飛行機好きの私は、「これ、輸送機じゃん。爆撃機じゃないじゃん。」と1発目に思ってしまったのは、どうでもよいことでしょうかネ。

 

これです。ハセガワのプラモデル組み立て説明書。

 

 

「帰還した爆撃機のダメージの統計」の飛行機の絵は、DC-3・C-47系の輸送機のように見えます。ただ、エンジンは液冷っぽいですネ。上図の説明書の機体は、DC-3のオーソドックスな空冷エンジンです。細かい仕様はわかりませんが、いずれにせよ飛行機好きなら、輸送機のシルエットであることは、すぐにわかるはず。

 

‥‥こんなことばっかり言ってるから、オタク疲れするのかな。

 

 

原作本の図説が、テキトーにアメリカの双発機を流用したのか、よく解らんのですけど、実際、ほぼ丸腰に近い輸送機と銃座のハリネズミのような爆撃機とでは、戦闘機に捕捉され銃撃されて損傷する部分に差異が生じると思うんですよネ。

*戦時中の軍用型DC-3は、色々と防御武装のバリエーションがありますが、キモチの上で、銃座がないよりはあったほうが‥‥というような申し訳程度の武装‥‥ですネ。

 

まあ、重要なのはソコではなく、「データをどう捉えるか」ですから、ぶっちゃけ、どうでもいいことなんですけど。

 

 

ちなみに、DC-3。

 

DC-3をライセンス生産したL2D「零式輸送機」は、上図の通り、日の丸をつけて、戦時中に飛んでました。ソビエトでも、Li-2という名でライセンス生産&改造されて、2000機も製造されたそうな。

 

ちなみに、零式輸送機はハセガワから1/200が、Li-2はズベズダから同じく1/200のちっちゃいスケールのプラモが発売されてます。ハセガワの1/200の旅客機シリーズと並べられます。


ものごとは複雑だな

特徴を捉えて、単純明快に‥‥という強迫観念は、こと、短く文章が区切られるツイッターの出現によって、より一層、拍車がかかったように思います。

 

スパッと言い当てたり、グサッと核心をついたり‥‥という、言葉の快感を求めて、無理にでも「何々はこうである」と数行でまとめようとするのは、実は、とても的外れなことじゃないかと思うことがあります。

 

人間や、物事や、社会や自然界の仕組みって、そんなに単純で明快かな‥‥。私には、とてもそう思えないのです。

 

ひとりの人間って、そんなに単純じゃないぞ。極めて、複雑だぞ。

 

例えば、「人間は外見のイメージに反する内面を持っている。人とはそういうものだ。」‥‥なんていう格言めいた言葉を聞くと、「そうかもなあ」と思ってしまいますが、実際のところ、「人間は、外見のイメージ通りの内面と、イメージとは違う内面との、多様な内面を持つ」のではないでしょうかネ。「外面に反する内面」だけを語っても、「人とはそういうものだ」とは言えません。

 

ツイッターでは、文を短く切らなければならないので、「自分でも思ってもいないような浅はかな判断で言い切ってしまう」落とし穴がそこら中に待ち受けていると思うのです。ですから「そんなつもりで書いたわけじゃない」なんていう、書いてしまった後からの言い訳をツイートする事例が、そこかしこに発生してるんでしょう。

 

言葉で要約できることは要約すれば良いですけど、なんでもかんでも要約する必要はないですよネ。要約できないものを無理に言葉で要約しても、クオリティの低い(=信頼度や確実性の低い)情報が錯綜するだけだもん。

 

 

私が感じるに、言葉で単純明快に言い表わせることの方が、世の中には少ないと思います。人間だけでなく、ネコと暮らしても、そう思いましたもん。ネコとて、生まれ出でた瞬間から様々な状況に影響され、複雑な人格(猫格?)を有しますからネ。ネットの誰かさんの言葉よりも、一緒に暮らしたネコが私に投げかけた眼差しの方が、この世の色々なことを要約して教えてくれたように思います。

 

 

毎日、核心を言い当てたように吐き出される言葉の数々に対して、いちいち関心して「真実を知った」なんて思い込んでばかりいたら、カラダとココロがいくつあっても足りんです。その「ありがたい格言」を聞いたところで、今日から自分が生まれ変われるか?‥‥と言ったら、残念だけどNOですよネ。人は簡単には変われない‥‥です。「いい言葉を聞いて参考になった」とか言いながら、数年後にはサッパリ忘れてたりするでしょ。

 

自分の中に、本当に心に残り続ける言葉なんて、簡単にネットじゃ手に入らないですよネ。

 

悩み苦しみ傲りヘコみ怒り悲しみ喜びながら、謙虚に傲慢にフラフラよろめいて、ぶざまで複雑な自分と死ぬまで一緒に生きていく覚悟で、日々を送っていくだけです。

 

 


エッセンシャルオイル

オタク疲れ。‥‥ああ、確かにそういう面はありますネ。

 

 

 

まあな‥‥。アニメを制作するという本質が、リアルな世界(世間一般的な世界)から少し距離を置いているような部分がありますから、何とも。

 

「主人公の性格的に、こういうポーズでこんな演技は云々」なんて、少なくとも私の両親が熱く議論しているのを見たことは一度もありませんでしたからネ。50歳近くになって、美少女キャラのハイライトのフォルムの変化に、After Effectsのディストーションエフェクトを駆使する‥‥なんて仕事、あまりにも特殊だもんネ。

 

 

ちょうど今日、作品に滲み出す表現というのは、大量に知識がある中から絞り出されてくる一滴のエッセンシャルオイルのようなものだ‥‥と話していました。

 

たまに、「とってつけたような表現」ってあるじゃないですか。‥‥あれって、自分の中からは絞り出てこないから、「型」を誰かのどこかの作品から拝借した結果だと思うのです。そんな話を仕事仲間と話しておりました。

 

例えば、ハードな香りのするミリタリー表現って、ネットでいくら検索しても醸し出せるものではなく、本人がどれだけミリタリー関連の知識を貯め続けて、そこから絞り出てくる「数滴」のエッセンシャルオイルを垂らせるか‥‥が、「雰囲気」のキモになってきます。

 

エッセンシャルオイルって、大量の材料から驚くほど少量しか抽出できなくて、ゆえに数滴でアロマディフューザーで香りが拡散できるのです。作品の中に滲み出す「香り」も似たようなものだと思います。

 

知識の蓄積って、何段階もあって、例えば音楽で表現すると‥‥

 

  1. この曲いいな。‥‥と気になって、好きになり始める
  2. 一般的な「ベスト盤」を買う
  3. 各アルバムを買い集めるようになる
  4. 演奏者のソロアルバムなんかにも手を出す
  5. 演奏者と同時代のアルバムにも手を出してジャンル全体に興味が湧く
  6. そのジャンルのアルバムもアレコレと買い始める
  7. 好きになった演奏者や楽曲が影響を受けた楽曲にも興味がわく
  8. 音楽の「潮流」的なものにも興味が湧く
  9. 何十年にも渡る音楽の変遷を知るようになる
  10. 買うアルバムがどんどん増える

 

‥‥とまあ、嗚呼、まさに「オタク疲れ」の世界。

 

でもこうした蓄積があってこそ、ほんの1パッセージで時代性も聴き分けられるようになります。モーツァルトの時代に、ラフマニノフスクリャービンのフレーズや和音が登場しない理屈がわかりますし、モーツァルトの前にJ.C.バッハがいて、J.C.バッハのお父さんは「大バッハ=J.S.Bach」みたいな、ポリフォニーからホモフォニーへと変遷していく流れも、楽曲の音使いで解るようになってきます。

 

もしアニメで、フランス革命前夜の貴族の館で、いかにもSteinwayのような鋼鉄フレーム製ピアノの響きが流れてくるシーンが出てきたら、「ああ、このシーンの香り作りは諦めたんだな」と感じるでしょう。平均律でどんな調でも響きが一律で、産業革命の申し子のような近代ピアノの響きは、音色だけで時代を表現できます。ハープシコード、フォルテピアノ・ハンマークラヴィーア‥‥といった鍵盤楽器の変遷を知っていれば‥‥です。

 

ミリタリーも、イーグル1機で表現できるニュアンスというものがありますが、そのニュアンスを自由に操作するには、付け焼き刃の知識ではどうにもならんのです。スパローかアムラームか‥‥なんてところでも色々と表現できますが、「ミサイル」としてしか認識していないんじゃ、香りもへったくれもないです。

 

「そんなの、世界の人間の全員がマニアじゃないんだから、関係ねえよ」と思いがちなのですが、あくまで「香り」として作用するものなので、ぽたりと落ちたエッセンシャルオイル単体に目を向けて議論しても埒が明きません。むしろ、世界中の人間がマニアではないからこそ、香りを嗅がせる手練手管を如何に駆使するか‥‥という話です。

 

作品の「香り」を諦めてしまうか否かは、制作者サイドの知識量から滲み出すエッセンシャルオイルの有無が深く関わってきます。

 

マニアと同等の知識を持たない人でも、なんとなく解るニュアンスというものがあって、「なんか、妙にリアルな物々しさがある」とか、「理屈はよくわからないけど、劇中の独特の雰囲気を感じる」みたいな、作品中の「香り」を嗅ぐことができます。

 

制作者側としては、いざという時に、最適なエッセンシャルオイルを垂らせるのが理想ですよネ。

 

 

なので、制作側のスタッフには、いろんなジャンルの「好き者」が必要なのです。皆が戦闘機・戦車オタクばかりではジャンルが狭過ぎてアカンですが、服飾、トラディショナルな模様、時計などの工業製品、武具、ドレス、髪型、制服、絵画、歴史、動物、鳥類、魚類、etc‥‥と、色んなマニア・オタクがいてこそ‥‥です。

 

まあ、だから、「XX作品のOOというキャラが大好きです!」なんていうアニメオタク要素は現場にはさして有効には作用しません。それは自分の胸のうちに秘めておけば良いことで、仕事にそれを持ち出す機会もないでしょう。‥‥まあ、間接的には影響する(自分の技術スタイルの根っこなどに)とは思いますけどネ。私は自分自身の中に、永井豪さん、松本零士さん、吾妻ひでおさん、水木しげるさんと言った幼少の頃に読んだ漫画家さんからの強い影響を感じますし、旧作ど根性ガエルのAプロ系の動きに今でも深い愛着がありますが、それは胸の内で良いのです。

 

制作サイドのスタッフであれば、ぜひ、「好き者一直線」を貫いてもらって、色々な知識の集合体として作業現場を形成できたらいいな‥‥と思っています。

 

 

ちなみに「こだわりのモノたちばかり集めても、そのアイテムが日の目を見なければ意味がないかも・・・」なんて診断されてますが、その辺は大丈夫。日々、次から次へと、繰り出しておりますから。

 

‥‥私の歳くらいになると、蓄積から放出へと向かうのかも知れませんネ。

 

 


滅びの哲学

今から72年前の1945年の3月10日。爆弾(焼夷弾)をしこたま抱えた飛行機の大編隊が、日本人をひとりでも多く殺す目的で、空の向こうからやって来て、東京を火の海にして去っていきました。私の母の一家は、1944年当時、高円寺に居を構えており、母は幼いながら、空襲で真っ赤になった夜空を見た‥‥と記憶しているようですが、なにぶん幼かったので、1945年の3月は既に疎開して地方都市の空襲を見たのか、まだ疎開しておらずに東京の空襲を見たのかは、確かな記憶はない‥‥とのことです。

 

よくよく想像してみると、「空の向こうから、自分たちを殺す目的で、爆弾を抱えて飛行機がやってくる」って、スゴいこと‥‥ですよネ。

 

しかし、近代戦争だけが残酷なわけではありません。NHK大河で度々取り上げられる安土桃山の戦国時代だって、かなり、エグいです。

 

甲冑武者や日本刀を見ると、これらの道具が、どれだけの人間の血肉を切り刻んだのか、戦場を駆け巡る武者たちの残忍な姿を想像せずにはいられません。

 

戦車や戦闘機をかっこいいというのは不謹慎で、鎧の戦国武者をかっこいいというのは日本情緒があってOK‥‥という感覚は、私は全く同調できません。現代も近代も中世も、どの兵器も等しく、残酷なものでしょう。流鏑馬を見て、「日本の武士はいいわね〜」なんて言うひともいるでしょうが、戦場だったら、的はモロに生身の人間ですからネ。

 

しかし、武器は、敵を打ち倒して自分は勝ち残るという、闘争本能の権化であるからこそ、おしなべて、冷酷な機能美を体現している‥‥とも思います。

 

 

 

‥‥‥あ、のっけから脱線した。

 

今回書こうと思い立ったのは、全然別のベクトルの話題です。

 

日本人には、「ダメだとわかっていても、滅ぶ運命と共に、殉死する性質」があるのだろうか?‥‥という話です。

 

 

1945年3月10日に、東京をあれだけ焼け野原にされても、すぐには戦争をやめられなかったし、もっと酷いことになるであろう本土決戦の準備を着々と進めていた当時の日本人たち。

 

「状況が酷い事はわかっているし、劣勢なのもわかりきっている」のに、方針を転換できなかったどころか、より一層、まるで無理心中のその瞬間まで戦い続けるんだという狂気が、ごく普通に毎日の生活の中に浸透していたであろう、1945年の日本。一般の人々は虚偽の情報に欺かれていた‥‥とは言いますが、一夜にして東京が焼け野原になって、なぜ情報のウソに気づけなかったのか。

 

日本人には何か、「たとえダメだとわかっていても、最後までやり通すんだ」という「滅びの美学」のようなものが、ず〜〜〜っと心の奥底に存在し続けている‥‥のでしょうかね?

 

軍国教育、軍国社会の強い影響下に、日本人は洗脳されていた‥‥というのは、果たして正解でしょうか。

 

 

私は、現代の日本社会を見ていると、決して軍国教育だけが1945年までの日本人の行動指針を決定づけていたとは思えません。

 

そもそも、日本人には、土地と共に生き、土地と共に死ぬ‥‥という土着の精神が深く根付いているのではないでしょうかネ。

 

そして現代社会においては、その「土地」が、ひと昔前は「会社」や「組織」であったり、アニメ制作の場合は「アニメ業界」であったりするだけ‥‥だと感じます。

 

 

動画単価は一時期200円台まで上がっていて、私が新人の頃(1980年代後半)の2倍までにはかろうじてなった‥‥という認識でいました。‥‥なので、人から話を聞くまで、再度200円を下回った単価(190円とか)が存在するなんて、夢にも思いませんでした。仕上げだと160円とか。‥‥正直、耳を疑いました。

 

なんで、単価が下がってんの?

 

だってさ、昔より遥かにキツくなっているんですよ。動画の品質要求は。

 

明らかに破綻していますよネ。確実に破滅の道を進んでいますよネ。単価は上がりこそすれ、決して下がってはいけないと思うのに、内容の高い要求水準に反して、単価が下がっていく状況は、まさに業界の「終わりの象徴」とすら感じます。

 

動画の人が6万円でキツくて辞めた‥‥という話題がちょっと前にツイッターで話題になりましたが、それはその動画の人が所属していた会社云々の問題ではなく、業界全体の問題です。

 

 

東京は大空襲で焼け野原になったけど、日本が負けたわけじゃない。

 

 

‥‥これと同じことを、アニメ業界は繰り返そうとしているだと思います。

 

東京が大空襲で焼け野原になった時点で、日本は気付くべきだったのです。そうすれば、私の祖父もカンギポット山で終戦1ヶ月前間際に死ぬこともなかったのです。

 

核爆弾を2発、大都市に投下されて、ようやく、「もうそろそろ終わりにしないとヤバい」と動き出すのは遅すぎた‥‥と思うのです。

 

 

大東亜戦争の子や孫たちは、同じ構造の「滅びの哲学」を、あいも変わらずに「同トレス」しようとしている‥‥のでしょうか。

 

 

 

既に死んでしまった監督演出のわたなべぢゅんいちさんが、その昔、私が20代前半の若い頃に教えてくれた日本のポップスで、前にも紹介した「夏への扉」の一節が思い起こされます。

 

 

あきらめてしまうには まだはやすぎる

 

扉の鍵を みつけよう

 

 

 

 

みなさんは、「扉の鍵」をみつけようとしていますか。

 

扉から外に出て、生きるか死ぬかも判らないのなら、いっそ、馴染み深いこの部屋の中で死ぬんだ‥‥とばかりに、未来を閉ざされた部屋に閉じこもり続けて、何になりましょう。今、生きているのに、今、死ぬことを決めちゃうんですか?

 

負けは負けと早々に認めて、今まで積み上げたプライドなんか捨ててしまって、まるで幼子のころに戻って、新しい道を模索すればいいのです。

 

私は全然、1%足りとも、未来を諦めてはおりません。

 

 


生き詰まり

先日、耳にした話で、動画や仕上げの単価が徐々に下がる傾向は続いており、動画は200円を切る場合もあったり、仕上げは160円なんていう単価もあるようです。

 

私が学校を卒業して18歳でアニメーターになった時の、動画の単価は120〜130円。80年代後期、線の量のエスカレートした作品が急激に増え、月千枚をコンスタントに描くのはかなり厳しく、家賃三万円台の物件が豊富にあった私の時代ですら、月6〜8万円ではまともに生きていけないことは判明していました。

 

で、2017年の今は、遥かに線が多く、クオリティも要求される状況。

 

 

 

完全に行き詰まっていますよネ。日本のアニメの作り方。

 

 

 

でも私は、「行き詰まり」というよりは、「生き詰まり」‥‥と思うのですよ。永遠に成長し、永遠に機能を維持できて、永遠に生き続けられるものって、存在しないと思うからです。

 

老いは受け入れるべきで、それはアニメ業界も同じことです。

 

人間は歳を重ねるごとに、知識も経験も増え、相応にやることも増え、やったことに対する責任も増え‥‥と、どんどん重荷が増していきます。そして、いつしか、老人となり、第一線を離れ、仕事を辞め、隠居する‥‥という流れです。

 

アニメ制作も同じではないですかね。

 

年代が進むごとに、知識と経験が蓄積してアニメ制作技術が向上し、色々な作風のアニメを作るようになり、品質に対するハードルもあがり、どんどん、どんどん、重荷が増して‥‥。

 

このままのベクトルで進み続ける「わけがない」ですよネ。

 

いつかどこかで、限界値に達して、縮小へと転じるはずです。

 

アラウンド50のスタッフなら、「ああ、自分の身に置き換えれば、思い当たる節がいくつも」と感じるはずです。日頃から「自分の体力に過度に期待する方針は、どこかでストップしなければ」と思っている‥‥でしょう?

 

アニメ業界も同じじゃないですかネ。アニメ業界自身の「体力に過度に依存する」やりかたは、もう通用しなくなるのだと思います。なにものでもなく、アニメ業界「自身」が老いたからです。

 

アニメ業界は、自分自身の体力に過大な自信を持つがゆえに、自分の知識と経験を継承する「子供」を作らなかったし、育てようともしなかった節があります。

 

つまり、アニメ業界の技術は、このまま、「老いを認めない」で行動し続けると、冗談抜きで「一代限り」で消滅する可能性は高いです。

 

 

 

既にそうした危機感をリアルに感じている聡明な方々は、たとえ今はよちよち歩きで幼くても、新しい技術に自分らの「技術の遺伝子」を継承させるべく行動していることでしょう。私も微力で小規模ではありますが、幼い新技術を育てております。

 

現時点では立って歩くこともままならない幼子ですが、今のアニメ業界の技術だって、生まれた頃は同じだったじゃないですか。恐ろしく幼かった‥‥ですよネ。

 

 

積み上げたものをバラして壊すのは、「せっかくここまで積み上げたのに‥‥」と切ないでしょうし、得た技術は手離したくないのも人情でしょう。

 

でもね、‥‥老いたのです。アニメ業界の、思想も技術もシステムもノウハウも。

 

老いて機能が低下し、劣化してしまったからだで、どんなに欲張っても、もう若い頃のように、ウフフキャッキャとはしゃぐことはできないのです。

 

目をそらさず、その事実と向き合わなければ、老いた先でとんでもない破綻がまっているかも知れません。

 

老いた自分自身に全く気がつきもせず、若い世代に老いた思想で洗脳を試みて、大量の脱出者が毎年出る‥‥なんて、あと何年何十年、続けるつもりなのか。

 

 

業界の老いを認めて「覚悟」してしまえば、逆にポジティブな発想も浮かんでくるのではないでしょうか。

 

絵コンテ? 原画? 作監? 動画? 撮影? ‥‥その制作システムの老いを認めた上で、若い層、中堅、ベテランともども、「新しい何かを始める」のが良いと、私は思います。


Apple Park

Apple Park。

 

 

四月、オープンとな。

 

巨大な社屋。5600億円。‥‥むーん。

 

まあ、世界有数の企業だもんね。アップル。

 

 

iPhoneの時もそうだったけど、定期的にアナリストの定人数は、予想をハデにブチ外すよね。

 

Appleは経営破綻してどこかに買収されて消える‥‥なんて90年代に言ってたのは、どこのどいつだ。‥‥でもまあ、たしかに危なかったよネ、当時のAppleは

 

私だって、1997年に自費でPM8600/250を買う頃に、Windowsにしようか本気で迷いましたもん。でも、PM8600筐体の頃から、確実にAppleは立て直しを進めていて、その成果が製品に反映され始めていました。日本版のOSを漢字Talkとか言ってた頃からMacOSへと統合したり、マシンのメンテナンス性が格段に向上したりと、「Macにしてみても良いかな」と思い直せた時代が、1997〜1999年くらいの頃でした。

 

Bloodの劇場版を1999年に作っていた深夜のこと。ふとIEでブラウズした、AppleのWebにiMacが大きく映し出されたのを、今でもよく覚えています。あの不思議なパソコンが要は「スティーヴの仕業」だったんですネ。iMacは衝撃的すぎて、ニセモノの半透明一体型PCも出たし、そこらじゅうの雑貨が不必要にトランスルーセントになるわで、社会現象の起爆剤にもなりました。

 

色々言われる人だけど、結局はスティーヴ様々ですね。

 

 

でも、こうした社屋に、私はあまり憧れは感じませんよ。日本は日本独自のやりかたと美意識があります‥‥って、強がりにしか聞こえんですかね。

 

ディズニーやピクサーのキャラに心の底から愛をもてないですもん。アメリカの趣向には馴染みきれません。私はどんなに社屋が立派でも、もし扱うキャラがアメリカナイズされたものだったら、辞めちゃうと思いますしネ。

 

ほら‥‥。やっぱり、私は根底はとても保守的なのです。好きなものをより美しく表現するために、技術をどんどん乗り換えて進化させていこうとは思いますが、好きなもの自体を変える気など全くございません。

 

 

何か、元も子もない言い方になっちゃいますけど、「日本って、こんなだから、こんなキャラを生み出して、こんなアニメを作れる」とは思っているのです。利点でもあり、弱点でもありますネ。

 

ただ、「こんなままで良い」とは思わないので、何か新しい道筋を探そうとは思いますけど、あくまで日本の特性や美点を鑑みたものでありたい‥‥です。

 

 

 

 


世代

よく、「ゆとり世代」とか「さとり世代」、「バブル」とか「ロスジェネ」など、世代の特徴をして、自分を定義づけることがありますが、わたしはどうもピンとこないのです。たしかに時代性の特徴はありましょうが、個人のポテンシャルに深く関与しているようには思えません。

 

どんな世代でも、何らかのプラスマイナスを包括しているのであって、世代が悪かったから自分は不運だ‥‥なんていう論調にはどうにも賛同できません。どの世代でも、勘の良い人悪い人、伸びの良い人悪い人はいて、もっと言えば、人の「良し悪し」の評価も、ある場所ではダメダメづくしでも、違う場所ではてきめんに性質を活かせることもあって、人の使い所や評価なんていうのは、「世代性で総括できるものではない」というのが、私の経験からくる率直な感想です。

 

私はもう10年以上、学生の若い人たちを見ていますが、たしかに「世代ごとの全体の雰囲気」程度は感じるものの、やっぱり人はその人自身で成り立っており、「XX世代だからダメ」なんていう決定的な場面を経験したことがないです。

 

むしろ、「自分はXX世代なので不運だ」とか言って、自分の境遇を世代性に転化する様を目や耳にすると、少々イラっときます。例えば絵を描くのならば、デッサン力の欠如やパースの知識の低さは、世代のせいじゃないだろ?‥‥と思いますしネ。単に、その人間の学習法や絶対的な学習時間に欠陥があるのであって、「XX世代だから絵が上手くならない」なんてありえません。こと、絵に関して言えば、上手くなりさえすれば、世代なんて簡単に超越できます。

 

頼りになるロスジェネ世代のスタッフは多いし、ゆとり世代でも感性が鋭く自分に厳しい人もいます。世代なんて、ほんの些細な会話の中で感じる程度で、技能でネットワークする現場においては、本人の技術だけがよりどころです。技術は度外視されて世代の違いで冷遇される‥‥なんて、少なくとも私の知るアニメ制作現場では皆無です。

 

自分の不運や境遇のわびしさを、世代性を理由にして自分の中でごまかしちゃうのは、結局は何も解決しないよネ。どんどん怨念感情が募っていって、境遇に対する恨みが外部へと発散されて、逆に疎まれて、好転への糸口を見失う原因にすらなり得るんじゃないですかネ。

 

「自分はゆとり世代だからナメられてる」とか、「自分はロスジェネ世代だから運から見放されてる」なんていうのは、実は、そういう思考で物事をあてはめるがゆえに、ナメられて運から遠のくだ‥‥と、様々な人間模様を見てきて思います。世代にこじつけて何かにつけてイジけちゃう人を、周囲はどうやって扱えばよいのか‥‥を、客観的に考えてみれば、自分の立ち位置を世代で定義することの「逆効果」を分析できるんじゃないですかね。

 

実は、「おまえはXX世代だからダメなんだ」と言い放つ他者と、「自分はXX世代だから損をしている」という当人は、「同じ穴のムジナ」なんだと思います。人間そのものを見つめないで、安易に「世代の風潮」で人間をジャッジする思考において、どっちもどっちじゃないですかネ。私は、世代で分け隔てなんてしませんし、性別も年齢も国籍もマイノリティも、要はその本人の状態が重要なだけです。

 

むしろ、少人数の制作規模においては、個性や世代なんて拡散していた方が良いとすら思います。どんな世代がどんな私生活を送っていようが、作品制作で比類なき能力を発揮してくれれば、それでOKなのです。そして、発揮された能力が正当に評価されて、相応の報酬が与えられる現場を作るのが、目標でもあります。世代で何かをジャッジする遑などありません。

 

 

技術者だったら、絵描きだったら、コンポジターだったら、とことん自分の技量を高めて、色々なプロジェクトに参加して、それでも何か違和感を感じるようだったら、その時に初めて「世代」の性質を考慮してみても良いとは思います。‥‥でも、技量がめちゃくちゃ高いのに、世代ゆえに冷遇される‥‥なんて、あらゆる世代のスタッフが入り乱れる制作現場においては、私は見たことがないですけどネ。

 

たしかにね‥‥「あの時代の、あの感じと雰囲気は、グッとくるよね〜」などの世代ごとの共有感は、超越できないこともありましょう。もうそろそろ50代になろうという私が、20代の人たちに対して友達のように輪には入っていけないな‥‥とは肌身でひしひしと感じます。

 

しかし、制作現場はお友達クラブではないので、仕事の腕っぷしで繋がる「仕事仲間」で充分です。

 

 


扉の鍵

tga1.jpg今は亡き、演出・監督のわたなべぢゅんいちさんと出会った頃、教えてもらった楽曲のひとつに、山下達郎の「夏への扉」という曲がありました。

*追記:おぼろげな記憶だと、わたなべさんが好きだったのは、山下達郎バージョンではなく、難波弘之「センス・オブ・ワンダー」バージョンだったように記憶しています。

 

私は、山下達郎ハインラインも馴染みがなかったので、いわゆる70〜80年代のフュージョン系アレンジの楽曲、AOR系の曲というのが第1印象でした。聴くうちに、徐々に愛着も増していき、今では、iPhoneの中には必ず入っている定番となっています。

 

歌詞は、そのまま、小説の内容を反映していますが、あらすじを要約するような無粋なものではなく、物語の心情的なエッセンスを表現しています。

 

今にして思うと、なかなか、グッとくる節もあります。

 

もしか君 いまここで

やり直せなくても

さびしく生きることはない

 

あきらめてしまうには まだ早過ぎる

扉の鍵を みつけよう

 

 

今の時期、別にアニメ業界だけでなく、日本全体にも、なにか妙にキモチに響くものがありますネ。

 

わたなべさんが、当時の20代前半の「迷える」私にこの曲を聴かせてくれたのも、なにかピッタリくる感じような雰囲気があったのでしょうかね。そして、わたなべさん自身にとっても。

 

 

わたなべさんが死んで、もう10年‥‥だと昔からの仕事仲間の方から聞きました。

 

ただ、私は結構定期的に、わたなべさんのことを思い出しているので、10年とか聞くと、ちょっと意外な感じもします。

 

わたなべさんが生きていた時、「墓参りなどしなくても、その人のことを、どれだけ思い出しているかのほうが、大事だと思う」と話していたことがありました。

 

たしかにそうかも知れません。冠婚葬祭の儀式とは別に‥‥な。

 

今はもう一緒に仕事をしていなくても、あるいはもうこの世に存在していなくても、今でも私の心の中に響き続けるコトバとビジョンがあります。即物的に一緒に居ることやネット経由で文字をやり取りするだけが、繋がりの全てではないのです。

 

 

むしろ、深い繋がりというのは、目の前の近い距離に実在してたり、頻繁に手軽にSNSでやり取りすればするほど、見えなくなっていくようにすら、思います。

 

でもそうした日々の馴れ合った関係とか、瑣末な文字のやり取りの中に、後になって輝きを放つ原石のような何かが埋もれていたりもするんですよネ。

 

 



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