人の明暗

昨日、いくつかのツイートでリンクされていたコレ。

 

30歳貧困男性がアニメ制作会社で見た深い闇

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180328-00213089-toyo-soci

 

この記事に対する反応で、同情だけではなく、批判するコメントも多いのが興味深いです。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/articlemain?d=20180328-00213089-toyo-soci

 

 

教師になる夢がまずあって、家の不幸により大学を中退し、マスコミ関連の会社でバイト、バイトをやめてアニメ会社に就職、御多分に洩れず厳しい労働内容から離職、マスコミ関連会社に復職、そのマスコミ関連会社を辞めてバイト、農家になるべく準備中で、同時に実習助手の兼業も目指す‥‥という道のりは、たしかに「文面だけ読めば」迷走しているようには感じられます。批判する人が出てきてもおかしくはないです。

 

ただね‥‥。あくまで、要約した記事の情報ですからね。本人がどのようなニュアンスで言葉を選んだか‥‥なんて、記事ではふっとびますから、短くまとめられた記事を読んで過剰に同情するのも批判するのも、それはそれで勇み足です。

 

映像制作を生業にしている私からすれば、「映像制作」をなぜ、この人が選んだかは気になるところです。夢は教員だったとのことですが、本人の意思とは裏腹に大学を中退して夢が絶たれた経緯があったにせよ、その後にマスコミ関連会社やアニメ会社‥‥というのは、なぜだろうと思います。

 

おそらく、当人の内部では、自身で意識か無意識かはわかりませんが、「教師と映像制作スタッフ」が繋がる何かしらのシナプスがあるのでしょう。しかし、その内部構造を、限られた記事の情報から読み解くのは不可能です。

 

 

 

何が人の行動を左右するんでしょうネ。

 

そして、何が、明暗をわけるのでしょう。

 

地域性はまずあるでしょうネ。地域の特性は成長期にも深く影響します。そして、親の性質も関係するでしょう。幼少の頃の影響は絶大です。

 

しかし、北海道出身の方も、沖縄出身の方も、アニメーターにはいます。

 

声優さんを親御さんに持つ人も、私のようにアニメとは何の縁もない郵政・郵便局勤めの両親を持つ人間もいます。

 

 

「本人の性格や性質」とは言いがちですが、人間の性質なんて、一言で言い表せるほど単純でも明快でもありません。「本人の性質」って何よ?‥‥と思います。

 

記事では、本人の生い立ち〜どこに生まれてどこで育って、両親はどんな職業でどんな価値観が家風で、少年時代は何に熱中して、何が得意で何が不得意で、どんな友人関係を形成しどんな恋愛をしてきたのか‥‥などは全く伝わってこないので、要領を得ません。アニメ制作会社がリアルに酷い制作状況なのは伝わってきますが、現在は農業と実習助手を目指す本人の思考や性質は記事からは読み解けません。

 

 

こういう記事を読んで、私が未来の新技術ベースの現場に想うことは、「自分のところは、こういう現場にはしないように、地道に頑張ろう」ということです。そのためには、労働環境云々のもっと地層の深い部分〜アニメを作る技術を根本的に変えて、労働の「エンジン部分」を一新することこそ、残りの人生の事業と再認識するのでした。

 

アニメ業界を変えることはできなくても、自分が深く関わる現場の技術ベースや労働構造を意図的に変えることはできます。特に、監督権限をもつチーフや責任者が土台を変えようと思うのなら、1年2年で簡単に諦めないで、10年規模で取り組むべきです。‥‥諦めるのが早過ぎる人は、多いように思います。

 

構造を変えずに、ソフトウェアのチョイスや使い方をチョコチョコとマイナーチェンジしたって、状況の根本なんて何も変わっていかないですよ。

 

それに、人材なんて、募集して簡単に見つかるもんじゃないです。人材獲得を甘く見過ぎる傾向は、どんな業界でもあるでしょうが、アニメ業界も御多分にもれず‥‥ですネ。

 

 

 

さて、人材をどうしようか‥‥。今度のプロジェクトは待った無し‥‥だからな。

 

人材の巡り合わせって、やはり、誰かが人為的に操作できるものではなく、時間と場所が導く運命‥‥という気がする、今日この頃です。

 

 

 


リア充とかコミュ障とか

「リア充」って、未だに意味がわからなくて、会話の中にぽっと出てくると、ふわっとスルーする私がいます。

 

現実の生活が充足している。‥‥意味がわからん。

 

現実の生活が充足してる人って、そんなにいる? 豪邸に住んでいる人だって、ビクビクどこかで恐れを抱いて生きている人は多そうだよ。ビバリーヒルズの暮らしぶりを取材したNHK特集とか昔見ましたけど、いたたまれないよね。

 

コミュ障って言葉もよくわからなくて、

 

「コミュ障」という略語は、病気というよりも人見知りや、他人とのコミュニケーションがうまく取れないと感じたときに、「自分はコミュ障だから」と都合のいいように使うことが多く、医師に診断されるコミュニケーション障害とは少し意味合いが異なります。

 

‥‥みたいな記事も検索して読んで、私も人付き合いがうまいとは言えない方なので、テストしてみました。

 

そしたら。

 

 

 

罵られました。

 

「リア充」なのか?

 

仕事に追われて月月火水木金金、旅行に行きたいけど行けない、たまにはお酒でも飲みたいけど飲めない、幸せな家庭(一般論)に恵まれているわけでもない、この私が?

 

釈然としないまま、他のテストもしてみました。

 

これ。

 

 

あー。なるほど。

 

確かにな。

 

誰か特定の人に負けるのがイヤ、というよりも、人々の何気ない総意みたいのに屈するのはイヤですね、昔っから。

 

では、他のテスト。

 

 

まあ、犬タイプではないです。猫タイプでしょう。

 

ムラ食いしますし。

 

 

‥‥‥脱線したのを元に戻して、コミュ障の別のテスト。

 

 

 

ハイレベルかどうかは判断の基準もわからんですが、おしゃべりは好きです。‥‥なんか、「猫タイプ」の診断結果と矛盾も感じますが。

 

おしゃべりが好きなのは、寂しがり屋のせいでしょうネ。事実、こうやって、ひとりでブログでおしゃべりしてますし。

 

次元大介がルパンに向かって言う「独り言の悪い癖がついたぜ。寂しがり屋め」というセリフが身に沁みます。

 

‥‥独り言の悪い癖が、まさにブログか。

 

 

でもさ‥‥。私に限らず誰しも、‥‥例えば小学生から高校生などティーンの頃に、同級生の男の子でも女の子でも、会話の中での笑顔を見ると、幸福感を少なからず感じませんでした? 色々な笑顔を記憶していますよ、今でも。

 

人見知りだからって、おしゃべりが嫌いなわけじゃないもんネ。むしろ、人見知りこそ、おしゃべりが好き‥‥なのだとしたら、ネコタイプがおしゃべり好きなのは、あり得るのかな。

 

でも、喋り過ぎはあかんね。胸に刻みます。

 

 

とは言え、違うテストでは「聞き上手だけど、もっと自己主張してみよう」と診断されたり、よくわからんですワ。

 

 

まあ、人間、多面性をもってて然るべしですから、あまり気にせず、生きるのが吉でしょうネ。

 

ネコだって、番犬のように子供を守るネコだっているんだし。

 

 

 


被害者意識

被害者意識で思考する人は、さぞ他人も被害者意識で物事を考えていると思いがちですが、実際は違います。失敗したり被害に遭遇することは確かに辛いことではありますが、思考や意識まで失敗や被害に覆われることはないです。

 

被害にあったり失敗したからといって、被害者意識に捉われるか否かは、本人の性質次第です。

 

他人を見て「こいつ、すげえ、被害者意識が強いな」と安易に言う人こそ、実はとんでもない被害者意識の当事者だったり‥‥するのかもネ。

 

 

私は「デジタルアニメーション」の状況が急激に悪化し始めた2005年以降について、正直なところ、強い被害を被ったと実感しています。新規参入した制作会社があれよあれよと言う間に良好だった環境を劣悪なものへと変質させてしまった‥‥と身をもって体験しました。

 

でもね。そのことで、意識まで被害者意識にはなりませんよ。被害者意識に陥っていたら、新しいアニメーション技術の開発なんて着手せずに、呑み屋でくだまいて愚痴をこぼすだけに終始していたでしょう。

 

2018年の現在に想うことは、新しい方向性を得るために、当時の被害や失敗はむしろ「運命の必須」だった‥‥ということです。

 

もしあのまま、事がうまく運んでいたら、私らは今でも「今までの作り方で十分だ」と思い続けていたかも知れません。作業内容を度外視した均一単価制度、人足を膨大に必要とする現場、それによる制作構造の破綻‥‥などを省みることもなく、根本的なシステムの病巣にメスをいれることもなく、ドンマイドンマイで誤魔化し続けていたかと思うと、背筋が凍る思いです。

 

業界の状況がマイナスにどんどん転んでいくことで被害を被ったり、一方で、その状況の劣化に自分らの体質を合わせようとして失敗したりと、辛いことは多かったわけですが、逆に考えれば、小さい頃からアニメを作りたくて熱中してきた自分が、今までのアニメの作り方に対して、自分自身のなかで決定的なピリオドを打つには、天地がひっくり返るほどの「大事件」が必要だったと述懐します。

 

未練がましく、被害者ぶって今まで生きてきたら、新しいフェイズには進めなかったと強く実感します。被害者意識に自分の能力を無為に費やし疲弊させてしまっただろうと思います。

 

 

記事「二度はやらないほうがいい、人生を大きく変える10の失敗」4ページ目の引用ですが、

 

被害者のフリをすることは、自分の力を放棄することにほかならず、そのデメリットは計りしれない

 

‥‥というのは、本当にその通りだと実感します。

 

例えば、ロスジェネとかゆとりとか、自分が挫折しそうになった時、都合よく世代論に乗っかるような人間は、ぶっちゃけ、頼りになるとは思えません。ロスジェネ世代でも、世代論に逃げ込むことなく、弱音を吐かない人は多いですし、技術的にも信頼できる人も多いです。「世代の被害者」を公言する人は、なによりもまず「自分の被害者意識の被害者」なのでしょう。

 

他人の世代は好く見える。‥‥隣りの芝生は青く見える。

 

ずっと、他人を羨み続けて、歳を重ねていくのは、果たして、自分にとって良きことか。

 

被害者意識で行動し続けることは、果たして、良き未来へ続く道なのか。

 

 

同じ記事ですが、「二度はやらないほうがいい、人生を大きく変える10の失敗」には、色々と示唆に富むことが書かれていますね。

 

「同じことをやって、違う結果を期待する」「すぐに成功や満足を得ようとする」「予算を考えずに進める」「大局的に見ない」「すべての人を喜ばせようとする」‥‥など、アニメ業界でも当てはまることは沢山あります。

 

「同じことをやって、違う結果を期待する」と少し似た教訓‥‥というか思考ですが、「過去と現在と新しい要素を足した単純な計算式を思い浮かべられない」過ちを繰り返す失敗もあります。SDからHDに移行した時と同じセリフを今も各所で耳にしますが、未来予測をまるでマジックか予知能力か妄想のように考える人は多いです。‥‥が、そんなの、足し算を理解してれば容易に未来像の予測はできるものです。

 

10という過去に、現状の10を足し、新しく出現したテクノロジーの10を足せば、未来は30になる。

 

‥‥‥小学生でもできる計算式ですヨ。

 

なのに、30なんてありえない、30なんて認めない、30なんて夢物語だ‥‥という人の、なんとも多いことよ。

 

 

昔を大切に想うのは善きことです。今を大切にするのも善きことです。しかしそれは、固執して盲目になることや、被害者意識に凝り固まることとは、全く無関係です。

 

本人の思考のバイアスがどのように作用するかがキモとなります。

 

 

どうせさ。地球なんて肥大化した太陽に呑み込まれる運命なんでしょ。科学の予測によれば。

 

それ以前に、自分たちの苦労して作ったアニメーション作品も、文明滅亡とともに、砂の中に消えます。

 

もっとそれ以前に、人生なんて100年生きれば上々。

 

どうせ死んじゃうんだもん。どう足掻いても。

 

どうせだったら‥‥‥、被害者意識などに捉われるのは、単純に、もったいないよなあ‥‥。

 

 


子供の将来

こんな記事を見かけました。

 

「子どもになってほしくない職業」の1位はぶっちぎりでYouTuber その理由とは?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180320-01462289-sspa-soci

 

1位はぶっちぎりでYouTuberとのこと。100人にアンケートして59%だそうな。

 

しかし、11種の中から選べば‥‥との内容なので、大まかな傾向や目安でしかないでしょう。100人という人数も少ないように思いますし。

 

私は、「もし選択肢の中にアニメーターが入っていた場合、どんな結果だったろう」と思うと、ちょっと怖くなります。「ゲームクリエーター」が8%で3位だったので、もしかしたら、アニメーターもランクインしたかも‥‥ですネ。‥‥いや、確実に?

*しかし、なんだ。‥‥SPAの記事は「面白い」のが多くて、真面目な記事との境界線に戸惑いますネ。

 

記事の「精度」はともかくとして。

 

その昔、アニメーターの男女比は、圧倒的に男のほうが多かったように思います。アニメ制作会社のフリー原画マン(そもそも「原画マン=Man」ですもんね)のフロアには女性は1人か2人で、ムサい男どもの中に咲いた1輪のマーガレットのような存在でした。もしくは魔女(失敬)のような男勝りの女性か。

*ちなみに、仕上げさんは圧倒的に女性の方が多く、男性アニメーターと仕上げさんのカップルはとても多かったです。

 

今はアニメーターでも女性は多いですよネ。大学や専門学校でも女性の志望者が多いように感じます。‥‥私の知る現在の限りでは。

 

これには、いくつかの理由が想像できます。

 

 

  • 社会の変化で、女性の進出が増えた。
  • 男性が現場から減った。

 

 

ゆえに、男女比に変化が生じた‥‥と、「あくまで想像や憶測ですが」感じます。リサーチしたわけではなく、私の憶測でしかないので、その点はご理解のほど

 

じゃあ、なぜ、男が減ったように感じられるのか。

 

 

まずは、少子化があるでしょう。

 

私の世代は、子供はそこらじゅうを駆け巡って電柱に激突するほど、ウヨウヨいました。まさに「子供の時代」を私は生きました。いわゆる団塊ジュニアの世代のちょっと前です。団塊ジュニアは1973年をピークとするようですから、1967年生まれの私はちょっと前ではありますが、子供は多かったですヨ。

 

ゆえに、「長男は別として、次男、三男は、好きなことをやらせても良いだろう」という気風は強かったように思います。あるいは、長男がダメでも、次男がいるさ‥‥という「親の計算」はあったでしょう。

 

少子化の現代はどうでしょうかね。‥‥どんな時代でも「親の計算が子に影響する」のなら、「家を継ぐべき人間」を、あえてリスキーな方向へと向かわせるでしょうか。

 

 

次に、戦争なき社会です。

 

戦中に少年少女時代だった親、戦後の貧しい時期に少年少女だった親が、「せめて子供には自分の好きな道を歩ませたい」と思うことも多かったと思われます。私の親がまさにソレでしたからネ。父は実質上の戦争孤児、母は疎開で辛い少女時代を過ごし‥‥と、戦争に対する怨念感情は根深く、私の親に限らず、「戦争に対する反動」ゆえに「子供には好きなことを」と思う親は、今よりも確実に多かったと思います。

 

開戦間近、戦中、終戦直後に生まれて、おしなべて戦争に巻き込まれた親たちが子に対して抱く感情と、戦後70年以上が経過した現代の親が子に対して抱く感情が、「同じわけがない」のは誰でも想像できますよネ。

 

「自分の家のことも考えて将来を決めろ」と子に迫る親は、逆に昔より増えているかも‥‥?

 

 

そして、アニメ業界の「悪評」の情報共有です。

 

今の親御さんは、いくらでもネットで検索して、アニメ業界の色々な噂や現状を知ることができます。

 

一方、昔は調べようとしてもほとんど手がかりがなかったがゆえに、悪評など耳にすることもなく、実際に自分の子供が喰えてない様子をみて、「アニメ業界はこうだったのか」とようやく認識できたことでしょう。

 

 

少子化

 

親の感情

 

聞こえくる業界の情報

 

この3つが揃えば、十分過ぎます。

 

よほど子供の未来の希望に理解があって、子供の生活が苦しくても援助しようと思う親御さんでもなければ、アニメ業界に「家の跡取り」を送り出しますかね。‥‥私は、昔より格段に難しいと思うな。

 

 

私の世代は、

 

目方で勘定するほど、子供がいっぱいいた

 

戦中と終戦直後の貧しかった時代の反動

 

情報不足

 

‥‥の3つが揃うことで、アニメ業界に入れる男の数も多かった‥‥ように、私のあくまで私論ですが、思います。

 

 

一方で、「それって、ある意味、女性性にたいして、酷くないか?」‥‥とは思います。「女性は結婚して、よその家の人間になる」「跡取りになり得ない」という旧態依然の社会認識は根底にあるように思われるからです。

 

しかし、社会の認識や慣習、民衆のなんとない総意を、ここでどうこう言っても、制作現場の何が即応で変わるわけじゃないです。

 

むしろ、女性スタッフを継続的で最有力な技術戦力と捉え、結婚しようが出産しようが、高齢で引退するまでポテンシャルを発揮し続ける人材足り得るには、現場はどうあるべきかを考えたいですし、実践していきたいです。

 

男は女とは違う。女は男とは違う。生物的・性差的な差異があるのは承知していますが、こと、アニメーションの技術においては、基礎技術と応用技術の体得に差異は生じないと実感します。男より男っぽい描線や表現をする女性の方々を何人も挙げることができますもんネ。

 

 

 

話を戻して。

 

まあ、ここで書いたことは、私の推測や思索の域を出ない、「そうなんじゃないかな」的な分析です。

 

実際にアンケートをとって、「自分の子供がアニメ業界に入るのを良いと思うか否か」を集計すると‥‥‥‥‥‥‥‥、どんな結果に、なるんでしょうね。2018年の現代は。

 

 


感覚を数値で表すこと

ブログの記事を色々書いてて我ながら思うのは、私は小さい頃(小学5年だったと思う)からエレキギターを弾いて、兄の買ったプレーヤー寄りの音楽誌(機材記事や楽譜が載ってるタイプの)を読んでいた影響で、「ツマミの位置」=数値で「自分の好きな感じ」を表現することに、自然と馴染んでいたことです。

 

2018年の現代っ子ならいざ知らず、1967年生まれの私が、小学生でエレキなどを弾き始めたのは、自分の意思というよりは「家にエレキがあったから」=兄の影響なんですが、やっぱり、エレキギターや電気オルガン(電気でモーターを回して送風してオルガンの発音管を鳴らす)を弾いてたことは自分の「感覚」の大きな根本を成すように思います。‥‥‥でもまあ、絵を描き始めたのは小学校1〜2年なので、絵の感覚はもっと根深いですけどネ。

 

私がエレキを弾き始めた頃は、インベーダーゲームが日本で大流行しており、「自然界」系ではない操作系に、子供までハマり始めた世代だったとも思います。

*実は私はインベーダーゲームは当時やってなかったんですけどネ。‥‥小学校で「ゲームセンターへの出入り」が禁止されてたから。

 

当時に家にあったのは、グレコのレスポールのコピーモデルと、ELKというメーカーのアンプと、「D&SII」というマクソンのディストーションでした。

 

 

 

今、こうして、D&SIIを眺めると、「バランス」って何をコントロールしていたのか思い出せないんですが、色々とツマミの位置を変えて組み合わせて、一生懸命音を作ろうとしていました。ツマミが3つしかない‥‥と言っても、仮にツマミのボリューム幅を11段階だとして(0から10)、11の3乗=1331の組み合わせが存在しますから侮れません。まあ、実際は使う範囲は2〜10の9段階くらいなので、9の3乗で729通りくらいかな‥‥とは思いますけどネ。

 

エフェクターだけでなく、ギターのボリュームとトーン(といっても私は全て10のフルでしたが)、アンプのボリュームとBassとTrebleとファズ(時代を感じるね)が加わり、組み合わせのバリエーションは膨大です。

*ELKのアンプはトランジスタで、ボリュームの位置で歪みが変わってくることはなかったので、設定要素としては外しちゃっても良いとは思います。単なる最終の音量(マスターボリューム)でしかなかったから。

 

私が中学生になる頃には、CS01というヤマハのミニ鍵盤のモノフォニックシンセサイザーが三万円前後で発売され(破格でした)、友人が買ったこともあって、さらに「表現の数値化」に馴染んでいきました。シンセサイザーはまさに自分の欲しい音をアナログであれデジタルであれ「値」によって作り出す楽器でしたからネ。

 

CS01は今見ると必要最低限の構成のアナログシンセサイザーではありますが、自分の欲しい音を「より積極的」に「数値」で作るのに最適でした。

 

 

ちなみに、「アナログ」という言葉を、「データ化しない=アナログ」「電気や電子に頼らない=アナログ」「生身の人間=アナログ」という捉え方をする人はたまにいますが、非デジタルのディスクリートやICの電気回路による「アナログなデータ」「アナログ信号処理」は往々にして存在するので、「アナログの言葉の使い方がズレている」と感じることがあります。アナログでもめっちゃエレクトリック&エレクトロニックな事例は多いです。

 

話を戻して、私が中学卒業間際の頃は、いよいよ「デジタル」を体現するパーソナルコンピュータ〜廉価なMSXが発売される時代となりました。「人々のヒットビット」のアレです。

 

今では信じられないほどの超低スペックなコンピューターでしたが、私にとっては「ミュージックマクロ」という「シーケンサー的な」機能とFM音源との組み合わせにより、夢のような世界を提供してくれるコンピュータでした。‥‥が、やっぱり自分では買えず、友人のMSXを使わせてもらってマクロを打ち込んでいました。

 

そして高校を卒業してアニメーターになって、人並みチョイ以下くらいにはお金を稼げるようになって、「デジタルデータ」で楽器を制御する「MIDI」に突入します。MIDIに手を染めた最初の頃に買ったのは、TX81ZとMT-32とQX5でした。

 

 

 

 

MIDIは演奏をデジタルデータとして記録し(あくまで演奏の動作を記録し、音声をデジタル記録するわけではない)、再現することができました。

 

ノート(音=ドとかレとかミとか)を記録し、音の強弱や発音の長さを記録し(ppやff、レガートやスタッカート)、ペダル(ピアノのダンパーペダル)のオンオフを記録し‥‥と、人間が楽器を操る動作を細かく記録できました。

 

昔にもピアノロールという自動演奏システムがあり、ラフマニノフやマーラーが直に弾いて記録した演奏を再現して聴くことができますが、MIDIはピアノロールの現代版というべき機能を提供してくれていました。

 

MIDIはピアノの音色だけにとどまらず、様々な音色をマルチトラックで1系統16トラック(16チャンネル)まで重ねることができたので、頑張ればオーケストラ規模の楽曲も、当時の音源でショボい音ながらも作ることが可能でした。

 

でもそれはすなわち、大量の数値で音楽の表現を具現化することであり、絶え間ない「数値責め」に対して、「数値返し!」で負けずに応酬していました。

 

 

こうやって、書いてみると、自分は結局、コンピュータに馴染むべくして馴染んだ‥‥とも言えますが、当然のことですが、絵なり映像なり音楽を作っているときは、使っている道具がなんであろうと、数値なんて具体的には意識していません。信号のレベルオーバーなどを数値でイメージすることもありますが、頭の中が数値で動いているわけではないです。あくまで、生身の感覚です。

 

「数値ありきで表現している」のではなく、「表現を数値に置き換えている」のです。

 

「言い方が逆なだけじゃん」‥‥と、言葉遊びのようになってしまいますが、重要なことです。

 

表現が目的、数値は手段

 

‥‥という、「逆だったら絶対にNG」な極めて重要なこと‥‥なのです。

 

ですから、私は正確には、

 

表現のためなら、手段の数値化も厭わない

 

‥‥というだけです。決して、コンピュータのために映像を作っているのではなく、映像のためにコンピュータを使っているに過ぎません。

 

 

人には、目的よりも手段のほうが重要‥‥という人もいます。それはそれで構わないと思います。

 

鉛筆で絵を描くことこそ、自分の最愛の行為‥‥と言う人がいても、批判すべきことではないです。例えばショパンのように、ピアノという絶対的存在ありきで音楽を作り続けた作曲家もいます。

 

手段を優先しても、人の心を打つ作品は作れましょう。表現を極めさえすれば、です。

 

 

私は結果物に重きをおく人間だ‥‥というだけです。手段を変えるのは、さほど苦痛ではないです。必要なら率先して手段を変えます。

 

一方、商業作品制作においては、手段よりも結果のほうが重んじられますし、商業世界においては「時代性」も必要です。ゆえに、手段に固執するのは、あまり良い選択とは言えない‥‥とは思います。個人作家で特定のファンが多くいてビジネスが成り立つ‥‥という場合でもない限りは。

 

 

 

表現の数値化は、深刻に考えるとドツボにハマりますし、軽く考えるとハズしてダメだし、中々手強いです。でも、結局は自分の脳内のビジョンと「答え合わせ」すれば良いだけですから、キーフレーム1つ1つにビジョン・イメージを反映させていけば良い‥‥だけです。

 

でもまあ、表現の数値化を「ソフトウェアの設定した範囲」に合わせるのは、正直、面倒ではありますネ。

 

あと、現状のソフトウェア&ハードウェアの限界もあります。MIDIの強弱(ヴェロシティ)は0-127とショボいし、音源の表現力もよほど高い音源を買わなければ生の楽器には近づけません。映像においても、生の人間の視覚ダイナミックレンジは、現行のテレビ放送なんて目じゃないほど、鋭敏で繊細です。sRGBやRec.709のモサっとした濁った色彩で、よくず〜っと今まで我慢してきたと思うほどです。

 

なので、私は、4K60pHDR、8K120pHDRなんて聞くと、夢がどんどん広がるんですよネ。

 

 

 

 

 


記憶容量と言語学習

人間の記憶容量に限界があるのか、人間は自分自身をゼロから設計して作ったわけではないでしょうから、確実なことは言えないとは思いますが、医学研究上は「限界はあるらしい」です。つまり、記憶容量は無限ではない‥‥ということみたいです。

 

記憶を無理に詰め込むと、記憶に混乱が生じるらしいです。新しい記憶を収納するために、昔の記憶を廃棄しにかかる‥‥ のが、医学上の経験で知られているとか。

 

それは凄く納得。

 

おもいあたるフシ‥‥というか、経験があります。

 

面白がって、色々な語学をかじってみた時期があるのですが、その頃から格段に物忘れが酷くなりました。自分でも手に取るように、記憶の「本棚」がどさどさっと崩れて散らかった感覚を実感し、正直、恐怖でした。

 

ただ、記憶が無作為に混乱するのではないみたいで、ティーンの頃の記憶はあまり混乱しておらず、20〜40代の記憶が散らかった印象です。小さい頃に覚えた戦闘機のシルエットと最高速度は今でもすぐに思い出せますが、ここ十数年の記憶はかなり乱れました。

 

最近、「チック・コリア」の名前が思い出せなくて、どわあああああ、劣化してる、確実にジジイになってる‥‥と焦りました。「フレンズ」という曲が聴きたくてApple Musicで検索しようとして、チック・コリアの名前が思い出せなかったのです。ジャズピアニストの大御所を‥‥です。

 

 

なので、言語学習は、現実の語学だけでなくプログラミング言語も、若いうちにやっておくのが肝要です。

 

どうせオジサンオバサンになれば、個人の差こそあれボケてくるんですから、若いうちのできるだけ早期に、語学は根付かせておくと良いと思われます。

 

プログラミング言語はいっぱい種類はありますが、基本的には大して変わりません。

 

"ABC" + "DEF" + ".psd";

'ABC' . 'DEFF' . '.psd';

"ABC" & "DEF" & ".psd"

 

みんな「ABCDEF.psd」の結果となります。連結演算子の違いくらい、すぐに読み解けますよネ。表面の違いよりも、根底の構造を若いうちに理解しておけば、色んな言語もそんなに怖くないです。プログラム言語は暗記する語句が少ないのも特徴ですし。

 

でも、リアルな読み書き喋りの言語は、暗記物が多いし、発音もあるので、20代からできる限り着手したほうが良いですネ。

 

私は40代になって面白半分に、ロシア語とドイツ語とエスペラント語(焼肉&寿司バイキングみたいなチョイスだ)に加え、英語の覚え直しをやろうとして、自分でも呆然となるくらい物覚えが酷くなって、今でもその後遺症に悩んでいます。20代だったら、面白半分でも可‥‥だったんでしょうけどネ。今ではすっかり忘れてしまって、自分の名前の「Hisashi」をキリル文字では「Xucacu」のように書くとか、断片しか覚えていません。イクラ(魚卵)はイクラ(икра, ikra)‥‥とか、苗字まで男女で変わる(スキーとスカヤ)とかネ。

 

 

人間の寿命が、200〜300年あれば、いろんな国の言語を覚えて、いろんなプログラム言語を覚えて、いろんな画風のキャラを描いて、いろんなメカを描いて、色んな作品を作って‥‥と夢も広がりますが、現実的には、人生でやりたいことがやれる一番イイ時期はたった50年です。

 

そういった意味では「人生50年」は今でも変わっていないのかも知れませんネ。

 

 

 


どうせなら

日々、アニメの制作業務を粛々とこなし続け、どこかの誰かが作業環境や待遇を向上してくれるのを待つのは、それはそれで人生の選択肢の1つでしょう。

 

「いつか、お金が上がる」のを期待しつつ、年月を積み重ねる。

 

「いつ」「どのくらい」作業環境や報酬が向上するのかは全くの未知なので、ただひたすら、待つ、待つ、待つ‥‥。

 

でも、ごく普通に考えて、待っている時間をもっと他のことにも使ってみても良いと思います。「待ち時間」の使いかたの工夫です。

 

「雨乞い」している時間を他の何かに使って、別の選択肢を増やそうと考えるのは、自然な流れです。

 

しかしながら、雨乞いの日々で不満を抱え続けていても、「次の仕事の話が来る」と多くの人は「自分はまだ必要とされているし、生きていける」とばかりに「不満が一時的にマスク」され、「別の選択肢」「新しい可能性」を見つける「大変なこと」からは遠のいてしまいます。

 

多くの人が、現状に強い不満を感じながらも、現実的にはその不満の多い作業を受注し延々と作業する日々に甘んじます。

 

そして、日々の作業の中で、「何か別の方法を見出さなければ」と危機感が再燃し‥‥という、同じ繰り返しです。まるでビューティフル・ドリーマーのごとく。

 

当座の安心感と、当座の危機感の、無限ループ。

 

 

いっそのこと、干されるくらいのことがあったほうが、新しい可能性や選択肢を得るきっかけが生まれます。

 

「現在の自分の世界をブッ壊す」のはキツいことですが、自分の経験からも、そう思います。

 

干された屈辱感と挫折と忍耐、干された際の不安、干された状況を打開するための知恵、干された時に生まれる別路線の人脈、干された状態から起死回生への実質的な段取り‥‥など、日々の業務に塩漬けされながら生きるだけでは得られない経験と知的人的財産を獲得できます。

 

 

でもまあ、それも人それぞれです。「干されるのはイヤだ」という感情の中で、どのように行動するかは、その人間の根本が作用するでしょう。

 

干された時、ある人は「これからは、どんなに理不尽なことでも言うことを聞くようにしよう」と過度に従順になるかも知れませんし、ある人は「こんな仕事、辞めてやる!」と感情的にもなるかも知れません。

 

「仕事があるだけ有難い」と物乞いのような気分に自分を貶めて卑屈になることもあれば、「下衆な仕事などこちらからお断りだ」とどんなにイキがっても実際に全く仕事がなければ日々の諸経費を払えずに電気水道ガスも止まることもあるでしょう。

 

じゃあ、どうするんだ。‥‥ということです。

 

あまりにもあっけらかんとした答えで恐縮ですが、「極端な行動に出ずに、表向きは中庸でいく」ことでしょう。全ての可能性を留保し、時と場合によって、使い分けることです。

 

新しい可能性を探って準備することは、今までのことを一切拒絶することとは同義ではありません。同時進行が可能です。

 

「自分を干した状況と人間が憎い」‥‥だなんて、アホ丸出しです。感情に支配されているようでは、新しい可能性をモノにすることなど到底不可能。

 

キモチだけじゃダメなのです。キモチは原動力ですが、エンジン単体だけで車は走るまい?

 

それに、干されたら干されたなりに、新しい人間関係も新しい信頼関係も生まれるものです。捨てる神あれば、拾う神あり。

 

でもまあ、最後は自分が頼りなのは正直なところ‥‥ですけどネ。拾う神も、なんでもかんでも拾ってくれるわけじゃないですから。

 

 

 

冒頭に戻って。

 

待つだけの人生か。色々と動きまわる人生か。

 

人それぞれとしか言いようがないですが、どちらも、その当人の行動に相応の人生が展開されます。

 

消極的な人には、消極的な人生。積極的には人には、積極的な人生。

 

まあ、私はどうせ生まれ出てやがて死ぬのなら、自分の美しいと思うビジョンを、できるだけ美しく表現して映像に結実したいと思いますから、待つだけの人生ではなく、「ソレを可能にすべく」動き回る人生を選択しますネ。

 

 


線画描きと絵描きと

アニメとはこういうものだ! アニメは本来こうあるべき! ‥‥と言う人とは、新しいアニメーションの技術や運用やビジネスの話をしても、全くの平行線のままで、接点は生まれません。ゆえに、お互いの心情やポリシーに触れずにそっとしておくのが肝要。

 

ただ、全ての人が、「何か一つの価値観に縛られている」わけではないのも事実。

 

アニメーターの中には、線画だけを専門にする人もいれば、キャラの着彩イラストが上手な人もいますし、シーン全体の情景を描ける人もいます。

 

何がそうした「多様性」を決めているのか? ‥‥思うに、当人の根底の意識が色濃く影響しているのでしょう。

 

例えば、作画作業で言えば、作画している当人は、自分自身をどう思っているのか。

 

自分は原画マンだ。

 

こう言う人もいるでしょう。言葉の揚げ足取りをしたいわけではないですが、「あなたは原画だけを作業する原画専門の人ですか」と思ってしまいます。日本の量産アニメ独特の「原画の線画」だけを描く人のように思えていまします。

 

日本のアニメ業界では、「アニメーター」という言葉が、かなり狭い範囲を示す言葉になってしまっていて、「アニメーター=線画オンリー」という暗黙の総意すら感じます。

 

でも、アニメーターって、「何か」を動かす人でしょ? アニメ業界の「アニメーターの定義」は「線画専門」に限定され過ぎて、あまりにも狭義で、発展性に乏しいです。

 

自分は絵描きであり、絵を動かすアニメーターでもある。

 

‥‥との言い方のほうが、自分の「絵を描き、絵を動かす」という技術を要約しているように思います。

 

* *

 

私もかつて、「原画の線画」だけに囚われ、アニメーション技術の根本を喪失していた時期がありました。「線画のことしか見えてない」状態です。

 

でもそれでは、アニメーション映像を全体でイメージすることなどできません。過去の私に限らず、今でも、原画を描いている人は、自分の線画がどういう色で塗られて、どのような情景の色彩かをイメージできる人はあまりいません。大半は線画だけのことしか考えていないのです。

 

線画のレイアウトはできても、明暗のレイウアトには全く無頓着なのは、作画現場の特徴です。

 

線画でカッコいいバランスであっても、色がつくと全く違うバランスになって、意図しない結果になることも多いです。で‥‥さ、そう言う時に線画しか見えてない人は、例えば、「なんでかっこよくならないんだ!一生懸命レイアウトも原画も描いたのに!」とヒステリックに怒りますが、「じゃあ、逆に聞くけど、レイアウトを描いた時にどんな明暗や色彩のレイアウトをイメージしてたの?」と聞くと、「そんなところまでイメージしていない。そんなのは自分の管轄じゃない。線画を描くのがオレの仕事だ」みたいに自己防衛モードに突入します。

 

「そんなところまでイメージしてない」なんて言う人が、「自分がかっこいいと思うイメージ」を「他者が実現してくれる」と思うならば、「あなたは、イメージしているのか、いないのか、はっきりしてください」と言うほかないです。

 

「遠景の山並みは、空に比べて、どんな濃さなの?」と聞いても、「え?自分がそんなこと聞かれるなんて思いもしなかった‥‥」と驚いて、「いや‥‥自分は考えてなかった。美術さん任せで良いと思ってた。」と言う人が大半だと思います。

 

 

自分を「絵描き」としてみた場合、こうした「線画だけ」の意識は、極めて異質です。

 

普通、絵を描く時、線だけで終わらす?

 

‥‥その昔、知り合いの子に絵を描いてあげた時に「色は塗らないの?」と言われて、ハッとしたことがあります。

 

つまり、線画は描いているけど、絵は描いてないのです。自分が「原画工程」の人間であっても、絵の途中段階のところで意識まで止める必要はないでしょう。

 

 

たとえ、背景は美術さんに任せようと、レイアウトを描いている時点で、線画だけしか意識できず、明暗のレイアウトすら全く考えもしない‥‥のは、「そりゃあ、アニメ業界の今のシステムから離れられなくなるよね」と思います。「今度の仕事は、線画以上のことをしてほしい」と言われた時に「ツブシ」が効かないですもんネ。

 

なので、例えば「カラースクリプト」を作業する時には、一般的な原画マンには仕事を振り難いのです。多くの場合、ただの基本色の塗り絵になってしまうから。

 

シーンのコンセプトカラーをイメージして、メインの光の陰影を駆使してテンションをコントロールしたり、アンビエント的に忍ばせる光の演出‥‥などを、線画しか意識していない作業者には依頼できないわけです。

 

でも、それって、「絵描き」としてみれば、とても屈辱的なことじゃん?

 

「線画描き」としては認知されているけど、「絵描き」としては認知されていない。

 

少なくとも、私はそんなのはイヤなんですよネ。必ず誰かに色を塗ってもらわないと絵を完結できない自分‥‥なんてさ。

 

 

でも、線画だけしか意識できないのは、単に「そう意識することしかできない現場だったから」です。人間の可能性を現状で否定するつもりは毛頭ありません

 

おそらく、線画単体を描くだけでなく、全体の色彩を意識することを習慣づけて、コンセプトアートやカラースクリプトの作業をiPad Proや液タブで恒常的に作業するようになれば、多くの人間が「線画専門」の境遇から脱出できるでしょう。もちろん、収入の多様性も生まれましょう。

 

 

「デジタル」〜コンピュータの使い方と可能性を「デジタル原動画」に託すのは、まあ‥‥やりたい人がやれば良いと思います。それこそが「アニメの正常進化」と言うポリシーならば、そう思う人が実践すれば良いです。

 

私は、全く違うポリシーで未来の映像制作を進めようと思います。アニメーターは線画専門である必要などないし、むしろ、アニメーターは絵描きとしても活躍するべきだし、多様な収入の選択肢を得るべきだと思います。‥‥まあ、あくまで、私のビジョン‥‥なので、絶対に同意してくれとは無理強いしませんけど。

 

でもね‥‥、もったいないと思いますよ。どんな人間でも「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」‥‥なのですから、現状に不平を言いながら自身の能力をダラダラと安ガネで消費するに任せるだけ‥‥なのはネ。

 

 

 


新しい時代の新しい映像技術によるアニメーション制作に至る前には、何本もの大きな河が流れていて、乗り越えられる人間と乗り越えられない人間を分けるだろうと思っています。それは技術的な面も大きいですが、意識、感情として、乗り越えたくない‥‥と思う人も多いでしょう。

 

前回書いたスキームも、河を渡る際に大きく影響してきます。スキームのもたらす利潤が、今まで通りのアニメ業界基準では、河を渡るための船さえ調達が困難です。船をうまく操縦して向こう岸に渡れるかが問われる以前に、渡河できる船そのものを得られるかも、個人や集団で明暗をわけるでしょう。

 

Windowsマシンは安く調達できる‥‥なんて今でも思っている人はいるかも知れません。しかし、安いWindowsマシンは要は安くて性能の低いマシンです。4Kの描き仕事とコンポジット仕事をこなせるCPUとグラフィックそしてM.2のSSDを、BTOで見積もりしようものなら、コンパクト筐体のマシン本体だけ(4Kモニタを含まず)で30〜50万円に軽く到達します。性能の高い構成にすれば、WindowsもMacもお金は同じ。

 

つまり、そうした「高性能な船」を買って、大きく激しく流れる大河を渡った末に得られる「利益」が問われます。高性能な船で激しく流れる河を渡って得られる報酬が、今までの原動仕の単価では、あまりにも採算に合いませんし、作業者たちのモチベーションがあがろうはずもないです。

 

河を渡る前段階でそんな状態では、向こう岸にたどり着いた先こそ本番なのですから、まさに、「是非に及ばず」です。どんな理由であれ、新天地に到達することができなければ、その新天地で店を開いて商売するなんて、できようはずもなし‥‥です。

 

今までの相場はこうだった。現在の単価はこうだ。アニメとはそもそもこういうものだ。アニメのあるべき姿とは‥‥のような話を繰り返すのなら、今までの場所に居続ければ良いです。受注側も発注側もネ。

 

 

ゆえに、「河を渡る必要なんてないじゃん」と言う人がいても当然です。しかし、今いる場所の境遇・待遇が、この先の未来も延々と続くことは、覚悟すべきでしょう。もちろん、「河を渡る」と決意した人にも覚悟は必要です。

 

ただ、「覚悟」の「致し方」は、40〜50代の人間と、20〜30代の人間とでは、大きく変わってきます。

 

「私はもう歳だし、こっち側でいいや」という50代の人間に、20代の人間が意志に関係なく巻き込まれるとしたら、それはもう災難以外のなにものでもないです。しかし、アニメ業界は旧来の技術基盤に深く足をのめり込ませたまま動けないので、若い世代ももろとも、選択の自由なしに、「河のこっち側」に引き止められ続けるような気配は満杯です。

 

一方、50代の人間でも、向こう岸に渡ろうと粛々とミッションをこなしている私のような人間もいますから、50代のなんとない総意=「別に今までのやりかたでいいじゃん」的総意に巻き込まれて同一視されるのは甚だ心外です。50代の人間がおしなべて古い思考しか獲得できないなんて、思われたくもないです。私のひと回り近く年上のベテラン中のベテランでも、20代の固定概念に囚われた人間よりも格段に思考が柔らかい人も多いです。

 

 

まあ、若い人間でも古い考え方をする人間は多いですし、年を喰った人間でも新しい考え方を実践する人間もいます。老若に関係なく、前例のない新しいことにチャレンジする人もおりましょうし、昔どこかで定まった意識にずっと縛られ続ける人もおりましょう。

 

色々な人間がいようと、新旧それぞれの考え方によって、土台となるスキームも変わるし、映像表現の結果物も変わるし、当然、お金も変わります。

 

「河」を渡るか否かは、当人各々の自由です。自分の運命の選択‥‥ですもんネ。

 

 

制作の枠組みも、人の技術も、人の感情も、集団の心理や行動原理も、河を渡るか否かで大きく変わるのが、まさに2020年代の未来といえましょう。

 

 

 


学生の頃

現在、学生がアニメ会社やスタジオでバイトするって話、存在するのかな? 聞いた事ないな‥‥。

 

私の世代(昭和40年前後生まれの世代)は、「あの人も高校生だよ」「あの人は中学を卒業してすぐに」みたいなことは結構ありました。10代半ばの子が在学しながらスタジオに通うのなんて東京近郊じゃないと不可能だったわけですが、20代前半の先輩は随分大人に見えましたし、20代後半の人は凄くベテランに見えました。

 

今はもう時代が何もかも違います。2020年代を間近に控えた時代です。

 

ただ、何を言うても、動画の出来高+アルファで稼ぐのは、今でも辛いはずです。その動画のキャリアを大学卒業からスタートするのですから、かなりキビしいでしょう。

*ちなみに、私の時は最低保証賃金なんてものはなく、完全な出来高でした。

 

動画時代‥‥。

 

私にももちろん動画時代がありますが、学校の休み時間に線の引き方を黙々と練習してたり、UP日がヤヴァい時には始発でスタジオから帰って寝ないで学校にいったりとか(よくまあ、ウチの親も許したもんだ)、「稼げない時期」を巧妙に学生期間に「消化」させていました。

 

そして、私自身も、学生時代の期間をうまく下積みに重ねておこうと「明確に」考えていました。‥‥まあ、つまりは、その頃〜30年前から動画の出来高では稼げないことが知れ渡っていたのです。独り立ちしてアパートを借りてしまったら、正直、動画の単価収入だけではすぐに破綻する‥‥と高校時代からハッキリと自覚できていました。

 

私の動画時代(80年代半ば)には既に線はかなり増えており、先輩から聞いた「月3000枚」なんて「どうすればそんなに描けるの?」と思っていました。「昔は今ほど線が多くなかったし、丁寧さもそこそこだったから、枚数が描けたんだよ」‥‥って、当時の先輩は言ってましたが、何だか既視感のあるセリフですネ。

 

 

まあ、昔話はこの辺で。

 

1980年代と2010年代では、あまりにも大きく、時代は変わりました。しかし、アニメ業界のワークフローが抱える問題は、30年前と変わっていません。

 

私の動画時代の1980年代中頃のように、学生時代に動画のキャリアを積んでおく‥‥なんてことができない現在、むしろ、状況は今の方が悪いとすら思えます。だからって、まさか今、学生に動画をバイトでやらすわけにはいくまい? ‥‥もう時代の「就労・雇用に対する意識」が違いますし、飯が食えないから学生時代に‥‥という考え方自体が2010年代には通用しません。

 

そろそろ考え方を根本的に変えないと、この先、20年30年とやっていけない‥‥と、少なくとも私個人の見解でそう思います。

 

 

私の未来の考え方は、アニメ業界のワークフローを一切踏襲しない、その事につきます。全く互換性がなくても可。むしろ、互換性は皆無にせねばと思います。

 

まあ、その辺はこのブログでちくちく書いてきたことなので繰り返しませんが、ワークフローを一切踏襲しないからこそ、根本から変われると思っています。

 

私が経験してきたことで、無駄だったことは何もない‥‥と思いますが、若い世代が同じことを経験して踏襲する必要もない‥‥とも思います。

 

私らが進める新しい技術は新しいなりに、相当キツいです。クレイジーで常識はずれと言っても、なんら誇張しているとは思いません。でも、クレイジーだからこそ、新しいとも思います。

 

しかし、クレイジーなのは映像表現や技法体系だけで十分です。お金の面までクレイジーなほど貧しい必要はないです。

 

 

そういえば、最近聞いた昔話で、スタジオによっては動画30円でやらせていたところもあったとか。悪い意味でクレイジーな貧乏話は、アニメ業界古今東西、尽きませんよねぇぇぇぇぇ。

 

 



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