世代

よく、「ゆとり世代」とか「さとり世代」、「バブル」とか「ロスジェネ」など、世代の特徴をして、自分を定義づけることがありますが、わたしはどうもピンとこないのです。たしかに時代性の特徴はありましょうが、個人のポテンシャルに深く関与しているようには思えません。

 

どんな世代でも、何らかのプラスマイナスを包括しているのであって、世代が悪かったから自分は不運だ‥‥なんていう論調にはどうにも賛同できません。どの世代でも、勘の良い人悪い人、伸びの良い人悪い人はいて、もっと言えば、人の「良し悪し」の評価も、ある場所ではダメダメづくしでも、違う場所ではてきめんに性質を活かせることもあって、人の使い所や評価なんていうのは、「世代性で総括できるものではない」というのが、私の経験からくる率直な感想です。

 

私はもう10年以上、学生の若い人たちを見ていますが、たしかに「世代ごとの全体の雰囲気」程度は感じるものの、やっぱり人はその人自身で成り立っており、「XX世代だからダメ」なんていう決定的な場面を経験したことがないです。

 

むしろ、「自分はXX世代なので不運だ」とか言って、自分の境遇を世代性に転化する様を目や耳にすると、少々イラっときます。例えば絵を描くのならば、デッサン力の欠如やパースの知識の低さは、世代のせいじゃないだろ?‥‥と思いますしネ。単に、その人間の学習法や絶対的な学習時間に欠陥があるのであって、「XX世代だから絵が上手くならない」なんてありえません。こと、絵に関して言えば、上手くなりさえすれば、世代なんて簡単に超越できます。

 

頼りになるロスジェネ世代のスタッフは多いし、ゆとり世代でも感性が鋭く自分に厳しい人もいます。世代なんて、ほんの些細な会話の中で感じる程度で、技能でネットワークする現場においては、本人の技術だけがよりどころです。技術は度外視されて世代の違いで冷遇される‥‥なんて、少なくとも私の知るアニメ制作現場では皆無です。

 

自分の不運や境遇のわびしさを、世代性を理由にして自分の中でごまかしちゃうのは、結局は何も解決しないよネ。どんどん怨念感情が募っていって、境遇に対する恨みが外部へと発散されて、逆に疎まれて、好転への糸口を見失う原因にすらなり得るんじゃないですかネ。

 

「自分はゆとり世代だからナメられてる」とか、「自分はロスジェネ世代だから運から見放されてる」なんていうのは、実は、そういう思考で物事をあてはめるがゆえに、ナメられて運から遠のくだ‥‥と、様々な人間模様を見てきて思います。世代にこじつけて何かにつけてイジけちゃう人を、周囲はどうやって扱えばよいのか‥‥を、客観的に考えてみれば、自分の立ち位置を世代で定義することの「逆効果」を分析できるんじゃないですかね。

 

実は、「おまえはXX世代だからダメなんだ」と言い放つ他者と、「自分はXX世代だから損をしている」という当人は、「同じ穴のムジナ」なんだと思います。人間そのものを見つめないで、安易に「世代の風潮」で人間をジャッジする思考において、どっちもどっちじゃないですかネ。私は、世代で分け隔てなんてしませんし、性別も年齢も国籍もマイノリティも、要はその本人の状態が重要なだけです。

 

むしろ、少人数の制作規模においては、個性や世代なんて拡散していた方が良いとすら思います。どんな世代がどんな私生活を送っていようが、作品制作で比類なき能力を発揮してくれれば、それでOKなのです。そして、発揮された能力が正当に評価されて、相応の報酬が与えられる現場を作るのが、目標でもあります。世代で何かをジャッジする遑などありません。

 

 

技術者だったら、絵描きだったら、コンポジターだったら、とことん自分の技量を高めて、色々なプロジェクトに参加して、それでも何か違和感を感じるようだったら、その時に初めて「世代」の性質を考慮してみても良いとは思います。‥‥でも、技量がめちゃくちゃ高いのに、世代ゆえに冷遇される‥‥なんて、あらゆる世代のスタッフが入り乱れる制作現場においては、私は見たことがないですけどネ。

 

たしかにね‥‥「あの時代の、あの感じと雰囲気は、グッとくるよね〜」などの世代ごとの共有感は、超越できないこともありましょう。もうそろそろ50代になろうという私が、20代の人たちに対して友達のように輪には入っていけないな‥‥とは肌身でひしひしと感じます。

 

しかし、制作現場はお友達クラブではないので、仕事の腕っぷしで繋がる「仕事仲間」で充分です。

 

 


扉の鍵

tga1.jpg今は亡き、演出・監督のわたなべぢゅんいちさんと出会った頃、教えてもらった楽曲のひとつに、山下達郎の「夏への扉」という曲がありました。

*追記:おぼろげな記憶だと、わたなべさんが好きだったのは、山下達郎バージョンではなく、難波弘之「センス・オブ・ワンダー」バージョンだったように記憶しています。

 

私は、山下達郎ハインラインも馴染みがなかったので、いわゆる70〜80年代のフュージョン系アレンジの楽曲、AOR系の曲というのが第1印象でした。聴くうちに、徐々に愛着も増していき、今では、iPhoneの中には必ず入っている定番となっています。

 

歌詞は、そのまま、小説の内容を反映していますが、あらすじを要約するような無粋なものではなく、物語の心情的なエッセンスを表現しています。

 

今にして思うと、なかなか、グッとくる節もあります。

 

もしか君 いまここで

やり直せなくても

さびしく生きることはない

 

あきらめてしまうには まだ早過ぎる

扉の鍵を みつけよう

 

 

今の時期、別にアニメ業界だけでなく、日本全体にも、なにか妙にキモチに響くものがありますネ。

 

わたなべさんが、当時の20代前半の「迷える」私にこの曲を聴かせてくれたのも、なにかピッタリくる感じような雰囲気があったのでしょうかね。そして、わたなべさん自身にとっても。

 

 

わたなべさんが死んで、もう10年‥‥だと昔からの仕事仲間の方から聞きました。

 

ただ、私は結構定期的に、わたなべさんのことを思い出しているので、10年とか聞くと、ちょっと意外な感じもします。

 

わたなべさんが生きていた時、「墓参りなどしなくても、その人のことを、どれだけ思い出しているかのほうが、大事だと思う」と話していたことがありました。

 

たしかにそうかも知れません。冠婚葬祭の儀式とは別に‥‥な。

 

今はもう一緒に仕事をしていなくても、あるいはもうこの世に存在していなくても、今でも私の心の中に響き続けるコトバとビジョンがあります。即物的に一緒に居ることやネット経由で文字をやり取りするだけが、繋がりの全てではないのです。

 

 

むしろ、深い繋がりというのは、目の前の近い距離に実在してたり、頻繁に手軽にSNSでやり取りすればするほど、見えなくなっていくようにすら、思います。

 

でもそうした日々の馴れ合った関係とか、瑣末な文字のやり取りの中に、後になって輝きを放つ原石のような何かが埋もれていたりもするんですよネ。

 

 


日本の強み

欧米のいわゆるカットアウト系のアニメや3DCGベースのアニメは、日本の今後の技術展開の観点からみて、決して無視できない「潮流」であると感じます。その「潮流」が、新たなエコシステム=生態系をかたち作ると考えます。

 

ただ、私は一方で、欧米の動向は気にはなるけれど、日本は日本ならではの強みがあって、その強みが「新たな潮流」と混じりあった時、欧米では考えつかないような形態を形成できるとも考えています。私が、悲観的な展望を抱かないのは、その「日本の強み」ゆえです。

 

欧米がカットアウト系で発展しようが、日本も合わせて「カットアウト一本勝負」にでる必要はなく、むしろ、従来の技術を最大限に活用し、カットアウト系と様々な豊かな表現と組み合わせて「複合技術」とすることで、「欧米のカットアウト系とは一線を画す」映像が作れると、今から強く予感できます。

 

欧米から輸入した技術をもとに、日本人は何を作り出したか。今のアニメを見渡せば、ディズニーの絵柄の影も形もないですよネ。

 

同じく、カットアウト系の技術を日本が扱い始めても、決して欧米の表現スタイルで満足するわけはなく、独自の美意識を色濃く反映するでしょう。小難しい技術論を持ち出すまでもなく、実は、日本の美意識こそ、日本の最大の強みだと思います。同じ動力源を用いても、欧米とは活用アイデアが大きく異なる、美意識を足場とした「発展の独自性」が日本にはあるのです。

 

しかし、どんなに日本に「強み」があろうと、新たな表現技術の潮流が一向に滴ってこないのなら、どうにもなりません。カットアウト系を全く扱うことができなければ、組み合すもクソもないです。0 x 1000 = 0です。

 

もっと言えば、「日本ならではの強み」が、潮流を塞き止めているような皮肉な状況すらあり得ます。

 

日本のアニメは、たとえその源流がディズニーなどのアメリカンアニメーション(タップの規格やところどころに残るインチサイズが「先祖の面影」を物語っていますよネ)だとしても、独自の美意識を色濃く反映した、「ほとんど米国人の血が残っていない、クオーターのクオーター」の混血です。しかし、出自がどうであれ、アニメ業界を支えている技術基盤は、テレビや劇場の夥しい数のアニメを作り上げてきた経験と実績であり、それゆえに、日本で独自に発達した作業様式に「かなりの自信を持っている」と言えます。今や、アニメは日本の「土着の特産物」かのようです。

 

その和製アニメに対する強い自信が、24コマシートに作画のタイミングを書き込んで、絵を一枚ずつ動かす技術基盤から、一向に目線がそれず、旧来作業スタイルに「無意識」にでも固執している原因だとも言えます。「新しいものなど求めずとも、今のやりかたで十分うまくいく」という考えは、口に出さずとも、多くの作画関係者が胸に秘めているのではないでしょうか。

 

ゆえに、カットアウト系のアニメ技術に対してひとたび日本が「本気」で取り組み始めたら、欧米人では全く予想もできなかった作品表現を生み出せるにも関わらず、「そもそも手を出さないから、進展もしない」状況に甘んじます。現在のエコシステムに漫然とした安心感を抱くあまりに、新しい技術の潮流を感じることができずに遅きに失する‥‥のも、実は「日本人ならでは」なのです。

 

 

日本のアニメの作り方が、特に状況が過酷なテレビアニメにおいては、産業として成立しにくい状況にどんどん進んでいるのを、業界経験のある人なら誰しも認識しているはず‥‥です。70〜80年代に形成されたアニメ業界のエコシステムが、2020年以降にどのような様相を呈するのか、どんなにポジティブに考えようとしても楽観的なビジョンは浮かびません。

 

一方で、家庭のテレビは、やがて耐用年数に到達し、「次に買い換えるのなら、4K」という人は結構いるでしょう。白黒テレビ〜カラーテレビ〜テレビのステレオ放送〜VHSビデオデッキでの録画〜DVDの登場〜DVDレコーダでの録画〜ハイビジョン放送〜BDの登場〜BD or HDDレコーダでの録画‥‥という流れに、人々がなんだかんだ言いながらも誘導されていることを考えると、次のリプレース時期にすんなりと4Kを受け入れてしまう家庭は多いと予測されます。家電メーカーの2020年あたりの主力が、2K上位互換の4Kテレビになっていれば、なおさらです。

 

旧来のアニメ技術の限界は、内側からも外側からも、ジワジワと迫ってくるのに、「今は大丈夫。だから、未来も大丈夫だろう。」という、ある種の、戦前から通じる日本人の「おおらかさ=呑気さ=危機管理の甘さ」が、「同じ過ちの歴史を繰り返す」元凶とも言えます。

 

今のアニメ制作スタイルで散々痛い目にあって、もうこれ以上はダメだと疲弊しきって破綻するまで、次の技術への移行へと踏み出せないのは、日本人の悪い性質だとも思います‥‥が、同時にその粘って粘って粘りきる粘り強さが、アニメをここまで高度に技術発展させた原動力とも考えます。

 

弱さは強さのみなもと。悪は善を生み出すジェネレータ。

 

‥‥悩ましいですネ。我が国の性質とは言え。

 

 

それにまあ、根本的なシフトである必要もなく、日本人の「なんでも取り入れてしまう国民性」を発揮して、今の技術に新しい技術を組み合わせる発想で、むしろ良いと思います。白黒はっきりさせて「塗り替える必要」など、こと、技術に至っては必要ないのです。技術発展の本質は「覇権争い」ではないのですから。

 

中々に、技術のシフトや新規導入というのは、日本人の気質ゆえ、難しいものがあるな‥‥とも思いますが、少なくとも私は、難しいからといって、あきらめないですヨ。

 

踏みつけられても、最後には粘り勝ちできるのも、日本の「強み」なのですから。

 

 


デジ熱

ダルい。体が熱い。汗が出てくる。熱でも出たか‥‥と、ふと室温を見たら、27.8度。

 

どうりで暑いわけだ。冬だと思って油断してました。

 

暖房は、もちろんOFFのまま。‥‥と、言いますか、暖房自体、今シーズン通算で数時間しかONにしておりません。

 

 

恐るべし、コンピュータ熱。

 

 

よって、まだ2月だと言うのに、冷房です。

 

マシンはあまり暑い部屋に置いてはダメなのです。格段に故障するリスクが増えます。‥‥まあ、そもそも、人間も「熱中症」というのがありますもんネ。

 

 

まだコンピュータの運用の知識の無かった20年近く前の私は、「人間が普通に過ごせるのと同じ環境が、コンピュータにとっても故障の少ない環境」だということを知らずに、あまり入らない部屋にMacを置いて、35度くらいの室温でどんどんハードディスクが故障していったのを、「ハードディスクって壊れやすいんだな」とプンスカしていました。

 

無知の恐ろしさよ。

 

 

冬は19〜20度、そのほかの季節は26度を目安に空調すれば、人もコンピュータも「不調なし」です。

 

室温に気をつけ、メッシュのラック(メタルラック)にサーキュレータと一緒にマシンや周辺機器を設置し、エアフローを考えて運用したら、一気に故障率が減りました。メタルラックをうまく活用すると、空気が何段にも渡って吹き抜けるので、便利ですヨ。自宅のサーバやマシンラックにはぴったりです。

 

 

それにしても、コンピュータや周辺機器の熱って、そうとう強力ですネ。冬だけは、コンピュータの排熱が暖房代りになりますが、春夏秋は電気代がキツいです。特に夏場は地獄。

 

コンピュータが部屋にどんどん増えると室温が上昇するので、部屋全体の冷却が必要になり、一層のコストがかかります。

 

 

ふと、「コンピュータがなかったら、お金、いっぱい貯まってただろうな‥‥」と思いますが、反面、「コンピュータがなければ、稼げなかっただろうな」とも思いますので、ほんとにもう、つくずく、コンピュータとはメフィストフェレスのような存在です。

 

 


なんやかんや言ってもな。

前回、前々回、技術的特徴を活かすだの、絵描きとしてのマーケティングを考えるだの、(私の思考の整理がてら)書きましたが、結局は、当人の意思決定次第ですわな。

 

生きるも死ぬも、当人の意思‥‥としかいいようがない。他人が「あんたはやるべきなんだよおおおおお」と肩を掴んでブンブン揺さぶっても、当人がその気にならなければ、どうにもならん。

 

人間の運命なんて、自分の思念に揺さぶられて、その時々の状況に揺さぶられて、木の葉のように風に翻弄されるものです。

 

ただ、自分では何も変えられないと思い込むのは、勘違いだし、早とちりなのは、事実。自分を「木の葉」だと自嘲的にやさぐれてるから、翻弄され続けるループから抜け出せないのも、事実。

 

一方、「自分には何でも可能性があるんだ。何でもできるんだ。」というのも、あからさまな躁状態であって、勘違いだし、早とちりです。「自分の能力の実情に応じて、可能性が開ける」だけのことです。

 

結局は、自分の能力を低くも高くも見積もらない、できる限りフラットでクールな評価を、自分自身に対して実施し続けるしかないです。

 

それができれば、対応策も色々見えてきますし、自分の能力の何を拡張すれば良いかもアイデアが浮かびます。‥‥まあ、自分をフラットにクールに客観視するのは、そこそこ難しいとは思うのですが、だからといって、自己評価を放棄してちゃ、その次の段階へとは進めないスもんね。

 

自分の表現能力を直に売り物にする職業は、メンタル的にキビしいものです。自分の能力に対するオブセッションがかなり強くなります。従量で労働力を切り売りするのとは、具合が異なります。

 

ですから、「なんでこんなにやってるのに自分は」なんて、従量制的な考えに自分の状況をすり替えないで、能力を活かすために色々知恵を絞って、頑張っていきましょう。お互いに‥‥ネ。

 

 


中庸

ネガティブな話題ばかりが駆け巡りがちなアニメ業界ですが、全ての現場やグループが防御戦や後退戦に四苦八苦しているわけではなく、様々な「野心的な」プロジェクトも動き出していて、未来は決して暗いものでもないと思えます。さすがに、発表前のプロジェクトのあれこれをインサイダーがリークするわけにもいきませんが、ネットで取り上げられる作画崩壊だの放送延期だのがアニメ制作現場の全ての姿ではない‥‥とだけは言えます。

 

ただ、そうした中、「中くらいの生産力と、中くらいの技術力」を併せ持つような中庸な性質のグループは、新しい流れに対して関与することが難しくなっていくとは思います。

 

「今までのアニメ現場の技術を組み合わせた、皆のよく知っている絵柄と動きのアニメなら、普通に作れます」‥‥というのは、先鋭的なプロジェクトにも積極的に参加できないし、技術の粋を集めたプロジェクトにも積極的に参加できないし‥‥で、「どっちつかずの弱点」が露呈しやすいのです。要するに、小規模な野心的な作品も、大規模で様々な技術リソースを集結させる作品も、どちらも主体的には引き受けられない「中庸である弱み」です。

 

その「中庸さ」が、この10年弱の「短期のアニメテレビシリーズ」の原動力になったのは、中規模アニメ関連会社が乱立したことからも伺い知れます。特に技術的ブランドを有していなくても、「アニメが作れる」ということが何よりも「売り」にできた時代‥‥といいますか。今後も「中庸に、原作をアニメ化する」流れは、ある種の定番として存続するとは思いますが、そうした旧来からの流れを尻目に、技術的特性を得た人間やグループは新しい流れにのって、どんどん稼げる方向へとシフトしていくでしょう。

 

技術的に言えば、中庸な作品を手堅く作るのは、実はとても広範で高い技術力が必要なのですが、中庸な制作力のフィールドは競争も激しく、皆似たような技術で背比べするので、必要な技術力の高さのわりに対価は低い現実があります。

 

中庸な制作力を旨とするグループは、近視眼的な技術の繰り返しと小変更に明け暮れやすい傾向があり、それがさらに新しい流れにのれない性質を作り出します。目立って欠落しているところもないけど、目立って突出しているところもないがゆえに、外部から見れば技術的特徴が希薄で、良くも悪くも「原作をアニメ化してくれるところ」としか認識されないのです。当然、技術の価格も激しい競争に晒されやすくなります。

 

中庸な性質に限界を感じ、「何か、売りになる特徴を自分たちも有するべきだ」と感じても、2年や3年の取り組みでは技術的特徴なんて周りにアピールできるほどに確立できるものではありません。4〜5年出費を重ね続けて、ようやく表に認知され始めるくらいの、地道な積み上げが必要です。‥‥ゆえに、現実的に難しいと考え、中庸な状態から抜け出せない‥‥という図式ができあがるのです。

 

「じゃあ、どうやって中庸状態から抜け出すんだ?」と思うわけですが、実は考え方1つです。「現実的に難しい」とさっさと諦める、その性根を叩き直せば良いだけです。

 

「現実的に難しい」なんてセリフを常用して物事を片付けてるから、結局、何も変わらないわけです。自分たちのアニメを作る技術を狭義に押し込め、アニメはこうあるものなどとレッテルを貼り付け、「原画マンたるもの」「アニメの撮影とは」なんて何の根拠かも定かではないプライドを持ち続け、財布の紐はいつだかに思い込んだ思想の延長線上でしか緩まない‥‥という、近視眼的マーケティングの典型を実践し続けるから、1万円の使い方一つ、新しいベクトルに作用していかないのです。

 

中庸に慣れきってしまうと、お金の使い方すら中庸で凡庸になります。

 

「今は現実的に難しいけど、どこからか、徐々にでも切り崩していって、制覇できないものかな」‥‥と考えたいですよネ。また、そういう思考をもつリーダーや仲間と一緒に未来を切り開いていきたいですよネ。

 

中庸さは大なり小なり不可欠な要素ですが、「中庸さしか取り柄がない」というのは、長期的なスパンでみれば、中々に厳しい現実と向き合うことになりましょう。特に、技術の入れ替わりが起こり得る時期においては‥‥です。30年間中庸で過ごせた事実が、未来20年を保証する担保では決してないことを、自覚すべしです。

 

どんなにネットを検索しても、毎日ツイートを気にしても、講習やイベントに参加しても、「いい勉強になったなあ」だけで終了して、実際に自分・自分たちで実践しなければ、何も始まらんよネ。ただ単に「耳年増」になっていくだけ。腕を組んで「現状はどうしたものか、困ったものですね」と世間話をするだけに終わります。

 

やりゃあ、いいんです。やりゃあ。

 

やらなければ、なーんも始まらん。

 

情報だけ見聞きしても、自分らの現状は変えられない。

 

自分たちが実際に動くから、物事も動く。

 

 

現在・現状が中庸だとしても、当人たち次第で、突破口は切り開けるものです。

 

何かしら行動を起こして、それを少しずつでも日々の「中庸さ」の「許容範囲」の中で実践していって、それが多少なりとも効果を発揮すれば、その次にすぐには反映されなくても、巡り巡って「次のオーダー」へと繋がります。当時は「徒花」と思えた特質的な技術でも、その後に徐々に芽吹かせて自分たちの武器となっていきます。「どうせ、やっても無駄だ」という人もいますが、無気力な人間に同調する必要はありません。他人からは「狂ってんのか?」「何かに取り憑かれているのか?」と揶揄されようが、「これはモノになる」という技術を1度や2度の失敗で心なんか折れてないで、継続し続ければ良いのです。

 

実際、自分のこなした作業が、次の仕事へと繋がっていく実感は、多少なりとも誰もが感じているはず。

 

その「仕事の繋がり」を、仕事の依頼がきて中庸にこなすというスタンスで用いるのか、未来の新しい「機会」への「橋頭堡」として次々に築くスタンスにするのか。

 

行動の選択は、当人らの自由です。どうすべきかは、自分たちのビジョン、ロードマップ次第でしょう。

 

「誰でもどこでもいいから」という仕事と、「あなたがたに是非」という仕事は、次第に、そして確実に、状況の明暗を分けていきます。いやらしくは「金額」として‥‥です。

 

水面下で様々な野心的な取り組みが進行するのを目の当たりにする中、「舵取り」がまさに未来の行き先を大きく変えていくのを、ひしひしと実感し続けています。

 


快適は楽じゃない

現代社会をして、よく、「快適さと豊かさを求めて社会は発達したのに、ちっとも生活は楽にならない」という言い草があります。

 

しかし、よ〜く考えてみれば、快適で豊かな日常を作り出すためには、それ相応の多大な労力が必要になるわけです。「快適==楽」ではなく、「快適<>楽」「豊かさ!=楽」なのです。

 

例えば、映像品質に一層の豊かさを盛り込むためには、一層の技術開発と現場の丁寧な作品作りが要求されるでしょう。つまり、豊かさを手にいれるためには、様々なコスト(お金、労力、時間、設備)が必要になりますし、結果的に市場の様々な形態の価格にも反映されるのは、当然至極。

 

安易に「快適で豊かになったから、日々の生活も楽になるだろう」と思うのは、実は甚だしい見当違い‥‥なのかも知れません。

 

私がフリーアニメーターでキャリアをスタートした1986(か1987。覚えてない)年に、1ヶ月に要したインフラのコストは、

 

家賃32000円

電気代数千円

電話代3千円前後

水道代は家賃込み

ガス代2000円前後

 

‥‥とまあ、今から考えると、「なにそれ?」な低いコストですよネ。基本、5万スよ。そこに食費だのを足していけば、生活できたのです。

*その当時の物件には、「トイレ・流し台共同・18,000円」とか、2万円台の物件もありました。状態的に、かなり「げ(下)」の物件でしたけど。‥‥「トイレ・流し台共同」って、「四畳半シリーズ」のノリですネ。

 

しかし、スマホはない、パソコンもない、無論インターネットもない、デジカメはない‥‥というか、デジタルデータの画像すら身近にない、ネットがないからネット通販はもちろんなし、世間は涼しかったからクーラーなし、蛇口からはお湯は出ない、トイレはまさかの和式(水洗でしたけど)、当然ウォッシュレットはない、テレビは14型、ビデオデッキはあったけどSDサイズ、録画できても画質はショボい。

 

今は上記の全てが満たされて「豊か」になっていますよネ。当然、生活維持にかかるコストが増大します。しないほうがおかしい。

 

現代は30年前と比べて「豊か」になりましたが、その「豊かさ」を得るために、より多くの「お金」が必要になったわけです。そして、その増えた分のお金を稼ぐ必要が生じた。‥‥何のヒネリもない、理屈ですよネ。「タダで豊かさが手に入るわけがない」のです。

 

 

とは言え、80年代の私が「不便だな」「貧しいな」と思っていたかというと、全くそうではなかったです。

 

当時の私は、自分のアパートにテレビとビデオデッキと電話があって、ガス水道電気のインフラが整っているだけで、「豊か」だなと感じていました。「電気使いたい放題!」「電話でいつでも友達と話せる!」とウハウハでした。‥‥もちろん対価(電気電話料金)は支払いますけど。

 

ちなみに、私はプッシュ回線だったので、基本料金が1980円だった記憶がありますが、自分専用のプッシュ回線なんて、すごくリッチな気分でした。仕事をするために必要だったがゆえですが、最初に電話加入権だかで8万円前後の金額を支払った記憶もあります。

*でも実は、プッシュ回線の利点で思い起こせるのはほとんどなくて、割り込み通話の「キャッチホン」くらいだったかな‥‥。

 

私の子供の頃は、電話のない家もいくつかあって、「xxさん方」みたいに、ご近所の電話を借りていたご家庭もありました。まさに「三丁目の夕日」の世界。昭和40年代生まれの私ではありますが、昭和30年代の雰囲気はまだ残っていました。

 

そんな少年時代を経て、アニメーターでアパートを借りて、インフラ完備(当時のネ)、自分専用のテレビもビデオデッキも電話もある。まさに、夢のような快適さ‥‥ですが、もちろん、そのインフラのコストと家電のコストは前の世代の人より多く支払っていたわけで、快適さにお金を支払うために稼がなければならない構造そのものは、今と何も変わっていなかった‥‥と思い起こされます。

 

ただ、80〜90〜00〜10年代と時代が進行するに従って、個人の持つお金を引き剥がしていく傾向は強くなっているでしょうネ。どんどんお金が消えていくから、どんどん稼がなければ‥‥というループから抜け出せず、結果、「楽じゃない」という実感が生まれるのでしょう‥‥ね。

 

これは私もしみじみ実感します。私はフリーアニメーターで稼ぎ始めた当時18歳、平均で14万くらいの原画料金の報酬(70カット分、源泉徴収差し引き済み)でしたが、その金額で現代の家賃とインフラ全てを賄うのは、かなりギリギリです。自分の技量を高める美術専門書なんて、とても買えないでしょう。現代において、月5万円で家賃含めたインフラが成立するなんて、ありえんですもん。

 

 

つまり、ぼやくにしても正しくは(ぼやきに正誤があるかはナゾですが)「社会が快適になり、自分の身の回りも快適になった。しかし、その快適さを支えるために、「楽」さはどんどん消えていったなあ‥‥」ということなんでしょうネ。「社会が快適になっても、決して楽にはならない」ということでしょう。「便利」にはなるでしょうけどネ。‥‥「便利」は「楽」の同義語ではないですもんネ。

 

 

社会は否が応でも「一蓮托生」。「快適上昇気流」から抜け出すには、世捨て人になるくらいの決心が必要です。

 

現代社会において、携帯電話をもたず、ネットも契約せず、エアコンもテレビ(モニタ)も買わず‥‥なんて、かなり難しいです。少なくとも、エアコンを使わなければ、熱中症で死にます。窓を開けて風通しをよくしても、その風が熱風なんですもん。住宅が密集している地域は、みんなでがんがんエアコンを使うもんだから、30年前に比べて格段に暑くなっていますよネ。

 

社会の技術進化によって様々な快適さが生まれ、その旨味を享受し、現代技術に支えられた社会システムありきで仕事をしようと思うのなら、「楽にならない」なんて言うのは往生際が悪すぎるのでしょう。

 

スマホを捨て、ネットを捨て、都心や都心近郊から離れれば、今よりグンとコスト消費は抑えられるでしょう。お金がかかる生活が楽じゃないと本気で思うのなら、お金がかからない生活を本気で目指すしかないです。

*ただし、お金のかからない生活を支えるために、どのような仕事を見つけるか‥‥は、なかなか難しいと思われます。

 

 

私は映像制作という現代社会の申し子のような職業を選択しているので、現代社会から脱皮したお金のかからない生活を目指すのは無理です。節約はできますけど、現代のインフラを拒絶することは不可能です。

 

スマホを肌身離さず持っていて、何かというとスマホばかり覗き込んでいるような人間が、「なんで自分の生活は金がどんどん消えていくんだろう」というのは、少々滑稽です。スマホを常用し、スマホのソリューションを成立させるインフラを利用している時点で、潔く、「金のかからない生活」なんていう妄想はあきらめましょ。

 

私はぶっちゃけ、携帯電話やスマホは嫌いなのですが(何か、首に縄をつけられているようで)、そんな私でもスマホはいつも持ち歩くようになりました。「現代の社会システム」と一蓮托生です。私が携帯電話を持っていないと、色んな方面に面倒がでますから、これはもう、「しょうがない」です。

 

その代わり、「金がかかるとわかりきっているからこそ」、コストを抑える取り組みに目が向いていくのです。「金がかかる」と嘆いているだけじゃ何も解決しませんが、「金がかかるのは不可避である。だったら、その金のかけ方を工夫してみよう。」と肝を据えれば、色々なアイデアはでてくるものです。

 

アニメ制作現場の「オールデジタル時代」の未来も、「コストに対する覚悟」が意識を左右し、同じお金のかけ方でも、プアな現場とリッチな現場とを大きく分けていくと思います。

 

 

快適さを捨て、山にこもるか。

 

快適さを求めて、街に住むか。

 

現代人に対する恫喝」とすら思える極論ですが、なんだかんだ言おうが、結局はソコ‥‥だと思います。

 


アロマのもの

現場は様々な緊張感でいっぱいです。品質的、物量的、時間的、包括的責任、特定的責任、etc...。

 

私が作業場の温度湿度、香りに気を使うようになったのは、そうした緊張感からは逃れられない現場だからこそ、緩和する要素を現場の中に取り入れたいからです。

 

香りは、目に見えない緩和要素の1つです。

 

最近、ユーカリのアロマオイルがなくなったので、今度はどどんと100mlの「大人買い」で「ブルーガム」を補充しました。ユーカリは、作業場の定番と言って良い香りなので(あくまで、私の見解ですが)、どうせ消耗するのなら‥‥と、容量まとめ買いしました。空になった瓶に詰め変えて使います。

 

 

ユーカリには、ブルーガムやらラディアータやら種類があるようで、よくわからないのでラディアータのほうは10mlの小瓶で買ってみました。今まで「ユーカリ」としか認識しておりませんでした。

 

香りの世界も奥が深いですネ。

 

 

作業場の「アロマ」の代表格といえば、コーヒーでしょう。‥‥とはいえ、大量にドリップして作り置きしておくコーヒーは、アロマというより苦味。

 

私は20代の頃は、コーヒーの良さがわからなくて、いわゆる「オモチャコーヒー」=砂糖とミルクで「ほぼ乳飲料」みたいなコーヒーしか飲めませんでした。ブラックのどこが良いのか、全く解りませんでした。

 

しかし、コーヒー好きの人に、香り豊かで甘みをうっすらと感じるブラックコーヒーを飲ませてもらってから、一気に開眼し、「コーヒーとは、本来、とても繊細な「香り」のものなんだな」と思い知ったのです。

 

まあ、モンドセレクション受賞の缶コーヒーも、それはそれで1ジャンルだとは思いますが、風味豊かな豆をゆっくりドリップするブラックコーヒーは、全く別のジャンルの飲み物だったとわかりました。

 

それ以来、コーヒーは作業場の定番「環境」アイテム。

 

モカベースのイタリアンロースト、ブラジル、マンデリン、マンデリンのフレンチロースト、ケニア、マイルドブレンドなど、少人数の部屋なのを利点として、その時の気分に合わせて、酸味・苦味、深煎り・浅煎り、ライト・フルなど、様々な豆をドリップしております。(私はあまり豆自体のことは覚えてませんが、室内のメンバーが皆コーヒー好きなので、経験則的に豆を購入しています。皆、深煎りでフルボディが好きみたいです。)

 

同時に、「すぐ飲みたい」用にネスカフェのバリスタも用意。葉っぱから出したお茶と抹茶をお湯でとかしたお茶が全く異なるように、挽いた豆をドリップしたコーヒーとインスタント粉末のコーヒーは全く別物ですが、電源ONから1分以内に飲めるバリスタの存在価値は、忙しい時に高まります。今年になって導入したバリスタアイはBluetoothで濃さを調整できたりと、まさにコンピュータを主力装備としたスタジオにはうってつけ。

 

こだわりのオヤジさんが半ば趣味でやっている個人経営の喫茶店には全く及ばないけれど(今でも忘れられないお店があります)、やっぱり、苦いだけのコーヒーはキビしい。特に、キワキワの責任の所在を問われる作業の最中だと、心にあまり余裕がないので、ひと息つけるコーヒーや紅茶にはこだわりたいです。そうした意味では、時間に余裕がない現場でも、香り高いコーヒーや紅茶は必須だと思います。

 

適度な照明の加減、適度な湿度と温度の空調、日々のアロマ、そして香りの良いコーヒーやお茶は、それだけで気分をポジティブに傾かせてくれるので、重宝しています。ギスギスしている時は大抵、コーヒーの香りに感情を傾ける余裕もないものです。そうした時にあえて、コーヒーの良い香りを差し挟むことで、感情に余裕が生まれます。

 

目には見えない、温度や湿度、香りという要素に気を配る。

 

タコ部屋なんて言われていた過去にピリオドをうって、未来の現場を作るにはかかせない要素だと確信しています。

 

 

 


寝る

忙しいス。

 

Apple Pencilのペン先も、みるみる減っていきます。ハイペースで使うと、1ヶ月もたない可能性もアリです。

 

*滑らかな曲線を帯びていたペン先も、使ううちに、鋭利な円錐状に変化します。

 

ペン先は4個セットで大体2400円(税込)くらい。アマゾンはApple製品に弱いみたいなので、割高な値段の出品が多いですが、ヨドバシやAppleストアとかで買えば、2370円くらいなので、/4で、1つ592円。中クラスの鉛筆1ダース分ですネ。

 

私は猛烈に鉛筆で描きまくっていた時、1〜2日で鉛筆1本を消費していましたから、大体1ヶ月で12本=1ダース、つまり似たようなランニングコスト‥‥ですネ。

 

ただ、私はなぜか、原画を描くときは「安い鉛筆が好き」だったので、実は1ダース400円未満だったりします。

 

*自分の鉛筆線をそのまま使用する場合(=動画工程を挟まない〜版権など)は、上図の8900では品質的にNGなので、1000円前後のグレードのものを使っていました。

 

 

とは言え、Apple Pencilは、鉛筆としての役割だけでなく、筆やペンとしての役割も兼任するので、原画だけで鉛筆を使う状況よりも過酷です。

 

大面積をガシガシと塗りつぶしたり、筆致の勢いで色彩を描いたり、「描く用途全て」を引き受けるので、考えてみれば、減りが速いのは当然ですネ。

 

* * *

 

仕事が忙しくなって、目まぐるしい日々が続くと、睡眠も「場当たり」的になってきます。しかし、「寝る時間も惜しんで」睡眠をおろそかにすると、結局、日々をおろそかにすることになり、本末転倒です。

 

私自身、公私共に「こなすべきミッション」がたくさん有りすぎて(というか、盛り込みすぎて)、「寝る時間がもったいない」強迫観念にかられております。‥‥だからといって、実際に「中途半端に、隙間で睡眠」すると、心身共に低調となり、結局はペースが維持できず生産性が落ちます。

 

最近、久々にちゃんとした寝具で1日10時間近く、土日で合計20時間くらい寝たんですけど、起きたらスゴい。いろんな事柄がポジティブに思えたのです。

 

現代社会、深刻な体調不良がでないまでも、「仮性鬱」「鬱予備軍」の人はかなりいると思われます。どんなに「自分の好きなことを仕事にできて、それで食べていけて、ラッキー」と表層では思っていても、椅子をリクライニングして仮眠2〜3時間で作業を続行してたら、体だけでなく、ココロの深層でもネガティブなベクトルへと誘導されてしまいます。

 

私の場合、自宅でもそんな感じで色々なプロジェクトを進めていたので、睡眠をとって起き抜け一番でも「ネガティブ」などんよりとした重さを感じていました。実際、残された寿命をカウントすると、「寝てられない」実感が強すぎて、寝起きで既にこなすべきミッションを想像してドヨンとしていたのです。

 

でもね、やっぱり、寝とかんと。たーんと。

 

休日にたっぷり寝るだけで、かなりのダメージ回復が可能‥‥なことを、最近、しみじみ実感しました。1日10時間なんて「寝貯め」みたいで非現実的ですけど、連続で5〜6時間は寝るべきだな‥‥と思います。

 

 

自分の作業・創造性を「売り物」にするということは、すなわち「自分自身を結果物という溶媒を通して売る」ようなものです。そして、色々な評価を下され、作業費の金額で価値を決められるのですから、「不安」や「戸惑い」、「歓喜」や「有頂天」を感じないはずがありません。つまりは、物を作って売るということは、「躁鬱」とあらかじめセットなのです。

 

何かを作って、他者に見せる(売る)‥‥ということは、「躁鬱」で当人を疲弊させる性質を、宿命的に有しているわけです。もし、そうした「躁鬱」から逃れたいのなら、あくまで趣味で自分だけで作って自分ひとりで楽しんで、誰にも見せなければ良いのです。

 

自分の能力をガチで売り物にして対価を得る以上、自分の能力が査定されるのは、致し方ないことです。原画は一律単価が設定されていますが、原画や動画の作業から一歩外に出れば、いやらしいほどの「値踏み」に翻弄されることになります。

 

作業そのもので疲弊し、その作業の評価で精神的に「躁鬱」となって疲弊し、睡眠もろくに取らずに体力が回復しない‥‥なんて、「地獄への片道切符」ですよネ。

 

 

しかし‥‥‥なあ。

 

日頃から良い睡眠をとるには、どのようにすれば良いのか。

 

まあ、「良い睡眠」という命題克服が中々難しいから、あの手この手の、寝具や健康のグッズが商売として成立するんでしょうネ。

 

 

ちなみに、私は「躁鬱」でお医者さんにかかったこともないし、処方薬をのんだこともないですが、自分自身をかたち作れずにユラユラフラフラしていた20代のころは、いつ潰れてもおかしくない状態でした。Kindleコミックの「うつヌケ」の冒頭とかを読むと、似たような状況だった…と思い起こされます。

 

ただ私は基本的に持久の体力があったのと、根源的に「生きるのが好き」だったので、「死」のベクトルには向かなかったのが幸いしたのでしょう。その当時に実際、私とは正反対の、ふっと消えてしまいそうな生命感のか細い人が、ポジティブを振舞ってもどうしてもネガティブから抜けられないのを知っておりますから、ココロとカラダはまさに一心同体なのでしょう。

 

どんなにココロが持ち堪えようとしても、カラダから突き崩されることは、よくあることです。才気を感じる若い人でも、ガタイが華奢だと、それだけで心配してしまうのは、私の経験ゆえ‥‥です。だってさ、アニメ業界って、特に過酷じゃん? 全行程のスケジュールのおとしまえをつけさせられるコンポジットも、どんな内容でもゼロからカタチにしなければならない作画も、どんな素材でも塗り切らなければならないペイントも、全ての工程を追いかける制作も、その他いろんな工程がさ‥‥。

 

だから、まずは睡眠。どんなに過酷でも睡眠。

 

寝なければ、どんなに喰っても、馬力など発揮できないです。ただ、デブるだけ。

 

でも、ココロが弱っていると、カラダが眠れなくなるのも、また、人間の難しいところ‥‥ですネ。睡眠障害って、自分の体ながら、ホントにむかつくよね。私の場合は、単に「やろうとして、焦って、それで眠れない」ことが多いだけですけども。

 

 

でもまあ、人間には最大最強の「憂鬱なこと」が存在しますよネ。「必ず、死ぬ」という事実・現実。

 

私はそれだけで、いっぱいいっぱい‥‥です。だから、生きているうちに、精一杯いろんなことを成そうとして、無理をして‥‥という、なんとまあ、マヌケなサイクルから抜け出せないんですけどネ。

 

 


雑感。

「デジタル」、つまりコンピュータやその周辺のリソースを制作現場に活かすのって、映像表現技法の拡充や発展とともに、現場の肥大化を抑えるのも、大きなテーマの1つなんだよネ。

 

だから、デジタル作画にしました、人員は今まで通りかそれ以上です、メンテ要員も増えました‥‥なんて、破滅街道まっしぐらです。

 

人員を減らす。その代わり、人ひとりに渡る金を増やす。

 

「デジタル」の運用の本命はソコ‥‥です。

 

* * *

 

そう遠くない未来、団塊、そして団塊ジュニア世代の要職の人間が、引退を始める頃、その世代の人々から仕事を発注してもらっていた同じく団塊&団塊ジュニア世代の作業者の仕事は、徐々に減り始めます。‥‥普通に考えて。

*例えば、自分は上の世代の人に、同世代と全く同じように、気さくに、気楽に、仕事をお願いできるか?‥‥と思えば、やっぱり多少なりとも、「かしこまって」しまいますよネ。同世代でしか共有できない連帯感みたいなものは、どの世代でもあるのです。

 

作業者だけでなく、発注側の人間も老いるのです。

 

50代の作業者にとって、同世代の制作側の人間は、今や現場のトップでしょう。しかし、死ぬまでトップなわけではなく、引退が始まります。

 

つまり、横のつながりが消え始めます。

 

20代の頃に感じた10年後と、40代・50代の頃に感じる10年後は、まるで違います‥‥よネ。

 

 

ホントに、これから先の5〜6年は重要。今から数年先まで実践する取り組み次第で、当人の未来の30数年の運命が決まる‥‥とすら思っております。

 

「状況作り」をミスると、寿命を待たずに首をくくるしかない状況まで追い込まれるんじゃないですかね。冗談ではなく、そう思います。少なくとも私は、そういう危機管理で動いています。

 

 

一方、今の20代、30代の人間は、現在のアニメ業界の規模と発展が、10年後、20年後、30年後に続くかどうかを、意識しなければならないでしょう。

 

社会とともに生きていくのがアニメという娯楽産業ですから、社会が変わるのに合わせて、アニメも変わっていくことを拒絶できません。下手をすると、「俺(私)の若い頃にはね、アニメという娯楽があってね、手で一枚一枚絵を描いて動かしてたんだ」「へー、そんな大変なこと、よくできたね。すごく手間とお金がかかりそうだね。」「うん。だから、皆、長い時間働いて、とても安い値段で一枚の絵を描いてたんだ」‥‥なんて、昔話になることだって、普通に考えられます。時代の流れから外れて、経済的に破綻して、廃れた産業は数多い‥‥ですもんネ。

 

俺たちの時代が来た!‥‥という頃には、スカスカでボロボロな状態になっている可能性だって‥‥ありえますもんネ。今後の行動と取り組み次第では。

 

 

 

みんなで1つの「方舟」を作る必要はないです。それぞれのグループが、それぞれの「方舟」を作って、「淘汰という大洪水」を逃れれば良い。みんなが乗れる巨大な方舟なんて、設計段階で頓挫するのは見え見え‥‥ですよネ。だったら、必ず完成する小中規模の方舟を作るのが肝要です。

 

洪水なんて水が見えてから対策をとるのでは遅すぎる‥‥のは、誰でもわかること。

 

たとえ、今が平穏でも(‥‥ということもないか、既に)、生きつつ、備えつつ、たくましく生きて行きたい‥‥ものです。結局、洪水の規模がそんなに大きくなくても、備えをうまく使って、有利に展開できますもんネ。

 

 

皆で絶望して傷を舐めあおう‥‥というのではなく、どうせ困難が訪れるのであれば、どうやってその困難を乗り切ろうか? ‥‥というポジティブな思考をもってこそ‥‥ですネ。



calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM