誤字

しかしなぜ、文章のケアレスミスって、書いてる時に気づかんかな。我ながら。

 

なので、私はツイッターはやらんのです。文章のセルフチェック力が弱いから。

 

誤字を書き直せないなんて、私には無理ス。

 

右と左をたまに間違えますし、ドルの桁を間違えることもあります。

 

まあ、ちまたでも、蛍光灯型LEDで「50000ルーメン」なんていう誤字(誤表記)をアマゾンで画像で見たことがあるので、自分だけじゃないんだ‥‥と、妙にほっとしたり。‥‥50000ルーメンなんて目が潰れちゃいますよネ。正しくは5000ルーメンです。

 

 


考えてみれば

なんだかんだ言っても、現在はやっぱり、映像制作には相当恵まれている時代ではあります。そのことは素直に実感すべきだと日々思います。

 

だって、「やればできる」条件は揃っていますもんネ。

 

今から20年前だったら、お宅のパソコンじゃあ、320x240の解像度程度の映像、しょぼい色数、貧相なサンプリング音源、たとえ完成しても公開する機会がない。‥‥考えてみればヒドいもんです。

 

もちろん、今は映像の品質基準が上がって、完成度に対する厳しさも増していますが、相殺するほど深刻な要素ではないです。遥かに、映像制作環境のコストダウンと性能進化の方が上回っています。

 

ただ、欲を言えば、私に20年前と同じ体力があれば‥‥ということだけです。

 

 

ですから、積もり積もったしがらみや状況でごまかさずに、よ〜〜〜く考えてみれば、古い慣習にしがみ続けて、新しいことにチャレンジしないなんて、勿体無いにもほどがあるというものです。

 

自分にはiPad ProもApple Pencilも、iMac 5Kも、Adobe CCも、LogicもNIもComposerCloudも、YouTubeも4Kテレビも、みんな味方についているんだと考えれば、これほど心強く恵まれていることなんて、他にありえないですよネ。

 

年末に向かって、そして新年から、また頑張っていきましょうぞ。


ねばらねば

複数の仕事を次から次へと切れ目無くこなしていくと、長期的な計画がダレ気味になりますが、何かを成し得たいなら、尻切れトンボにしない「粘り強さ」はどうしても必要になります。‥‥と、自分に言い聞かせているのですが。

作業の流れに沿って、目の前の作業をこなしているだけでは、根本的には何も変わらないのは、何度も経験済みです。‥‥いや、何も変わらなければ良いほうで、同じ事を続けるばかりでは、徐々に徐々に、悪化していくのかも知れません。

「頑張り続けていれば、いつかきっと」というのは、その「頑張る」を何に向けているかが重要なんですよネ。誰もがやっている事に頑張り続けても、何も変化が訪れないのは、現状が示しています。

でも、前例がなく誰も成し得ない未知の何かを、ひたすら地道に続けるのは、やっぱり相当な精神力の強さが必要です。成功して初めて、人々は興味を示して寄ってくるのであって、それまでは孤独感と戦う精神力がどうしても求められます。

ゆえに、似たような孤軍奮闘をしている人々と出会うと、どこか心が慰められるのです。独りで頑張っているのは自分だけではない‥‥と思えるのです。

まあとにかく、今年は踏ん張りどころです。今年の動き方次第で、自分を取り巻く未来が、大きく変わることでしょう。2014,15,16年にアクションした人としない人の差は、その後に大きく表れると思います。「流されて生きる」のが信条ならばともかく、「何かを変えたい」のなら「柔らかくなったタイミング」を見据えましょう。すっかり固まった後で「変えたい」と思っても刃が立ちません。

スイッチをONにしても、機械が動き出すのは少し遅れてからです。同じように、2017〜2020年、そして2030年までの流れを方向づける「最初のスイッチ」を押すタイミングは、去年から来年にかけた3年間の短期間‥‥なのかも知れませんね。

日々の駄文

ふと気がついてみれば、いつのまにか、ハードなスケジュールになっております。先週、短期で仕上げるのが1つ追加されたのですが、それは通常のアニメではないので、現場の進行は自立的に制御しなければなりません。加えて、自宅では水槽の濾過器がクラッシュし水浸しになって抜本的な対応を迫られるわ、兄は入院(大動脈解離というキツい病気です)するわ、冷静に評価してみると結構大変な状況に。

でもまあ、自分のシフト・アクションで如何様にでも状況をコントロールできますし、計画発案時点からアイデアをひねりだして状況を変えられるのは、それがどんなに大変であっても光明が見えるので、ネバって戦おうというキモチになるのです。

何を提案しても、どんなにアイデアを考えても、ほとんど状況が動かないのは、私のような類いの人間からすれば、絶望しか感じません。同じ「キツい」事でも、自分次第で状況や事態を変えられる事のほうが、数百倍「救いがある」と思うのです。

マンパワーが低い事は、全てにおいて不利であるとは限りません。キャパシティを肌身で感じながら、そのキャパで実現可能なある種「突飛な」アイデアを考え出す。‥‥しかしそれが、生産規模が拡大し分業化が極度に進んだ状態では実現できない事‥‥であるのは、アニメ業界で散々学んだ事です。

そう言った観点では、欧米ってやっぱり巧妙ですよネ。大規模になっても、企画のフットワークを失わないように、アイデア力・デザイン力と、生産力をきっちり分けてプロデュースしているもんね。多くの日本人は「中国製品は云々」とマイナスイメージを持っていますが、質実剛健なドイツ製品も美麗なApple製品も中国製なんですよネ。「デザイン by ドイツ」「デザイン by Apple」でも、工場はアジアにある‥‥という。

今、私はアニメ業界フローの本筋とは離れて、様々な仕事をしていますが、それは未来に通ずるとても良い「お勉強」になっていると実感しています。アニメ業界のフローに組み込まれていた昔は、単に「自分の仕事をどうこなすか」が支配的となり、フロー全体の取り回しや設計には手を出せない状況でした。それは行動力・発言力云々以前に、「原画しか知らない」「撮影しか知らない」人間は、全体を設計する事など「物理的に」できないから‥‥です。現ワークフローのマイナーチェンジや微調整はできても、新しいプロダクトとフローを生み出す事は「セクションの中に引きこもっている」がゆえにできないわけです。

しかし標準の制作フローから離れて、小規模でも映像制作全体に直に関わってみると、「あのセクショナリズムは何だったのか?」と不思議にすら思えてきます。学校を卒業すると学校そのものがある種の異様な空間だったように思えるのと同様に、業界が一丸となって踏襲するアニメ制作フローは、一度離れて客観的に見ると、「特定スタイルのアニメ映像を作る為に特化した業界のシステム」である事が冷めて目に映ります。似たストーリー、似たデザイン、似た動き、似た映像処理‥‥、運命共同体のように互いを縛りつけ合って生きていく様は、映像作品・映像商品をつくる本来の目的とは別のベクトルに動いているようにも見えるのです。

ですので、たとえ当該のミッションが「無茶振り」であっても、お膳立てなど丸で無い乱暴なスタートでも、映像全体をゼロから作り出す事を何度も経験すれば、どんなにキツくて目が回ろうが、アニメ業界フローでは決して得られない、映像制作の濃い経験として蓄積されていきます。局所のディテールではなく、制作構造全体に対するデッサン力が自ずと養われていくのです。「大変だった」仕事が大変な「だけ」で終わらず、栄養素として確実に血肉となっていくわけですネ。

ゼロからフィニッシュまで一貫して制作する作業経験は、アニメ業界に30年在籍しようが、既存のフローの既存セクションに収まっていたままでは、蓄積できない経験だ‥‥と己を振り返って見ても、強く実感します。単一セクションに在籍し続けて得られるのは、単一作業に対する耐久力や忍耐力がほとんどなんですよネ。むしろ、セクションに囲われる事によって、プロダクトに対するアイデア力やデザイン力は、急速に衰えていくように思います。(セクション限定・小エリアのアイデアやデザインは蓄積されていくんですけどね‥‥)

「しんどい時」って2タイプあるように思います。「変えられない構造の中で消耗して疲弊する」しんどさと、「手探りゆえに判断力と計画力と行動力を求められる」しんどさ。

自宅の水槽の水漏れ事件も、「今までの水槽の状態を維持せよ」というミッションならば、単に水漏れの後始末と復旧作業に追われるだけです。しかし、「お魚や貝、水草と今後も一緒に暮らしていきたい」というミッションならば、「なぜ水漏れがおきたのか」「水漏れが経年劣化により回避できないのなら、その対応策をどうするのか」「そもそも水槽設置プランを見直すべきでは?」という色々なアイデアやデザインが浮かんできます。

これをアニメ制作に置き換えて考えると、現アニメ業界は前者、私がやろうとしているのは後者‥‥という事になります。どちらが悪で善か‥‥みたいなチャイルディッシュで馬鹿げた話をするつもりはなく、どちらの道を選択するかという単純な話です。

今の自分にある見識や知識が、20代の頃の自分に持てていれば、少なくとも自分周辺の未来をもっと変えられたのに‥‥とは思いますが、そこはそれ、上手くいかないもんです。‥‥なので、年長と成った私の知識や経験の「フィードバック先」は、自分自身はもとより、志を同じくする若い世代へも意識的に作用していくべきなのでしょうね。

格闘戦のナゾ

私は小さい頃から、「零戦と隼」とか「大和と武蔵」と言ったタイトルの、子供向けのハードカバー本をよく読んでいました。なので、前回書いたNHKのドキュメンタリーの内容の大筋は子供の頃から知っていたのですが、当時の搭乗員が2010年前後になってようやく語り出した心情が、特に興味深いものでした。

零戦関連ではよく語られる、F4Fワイルドキャットは一方的に零戦に不利だったとか、F6Fヘルキャットは零戦キラーとして開発されたとかは、今では不正確な情報である事が知られています。私の子供の頃は、ワイルドキャットは零戦の餌食で、ヘルキャットが登場して形勢が逆転した‥‥みたいに語られていましたが、実際はワイルドキャットも戦法を切り替える事でむしろ零戦に対して有利に戦闘を展開したようですし、ヘルキャットは既に開発中の機体に、対零戦の要素を「追加」したのであって、決してヘルキャットが新規に零戦キラーとして開発された訳ではない事が知られています。

しかし、新たな情報を得た今でも大きな疑問が残っているのです。格闘戦の疑問です。

格闘戦に自信満々だった当時の経験豊かな日本軍パイロットが、米軍機との空中戦においてドッグファイト〜巴戦を仕掛けたのは、理屈として理解できます。ドッグファイト性能に優れた零戦を、ドッグファイトに長けた日本軍パイロットが駆る事で、絶大な効果を発揮したのは想像に難くありません。

そこで米軍は「ドッグファイトを禁止」し、ワイルドキャットが急降下での速度性能で勝る点を活かして、一撃離脱戦法を徹底したり、サッチウィーブによる「零戦1機 vs ワイルドキャット2機」で対応したわけですが、これも理由として理解できます。わざわざ劣る要素で戦うのではなく、勝る部分で戦うという、めっちゃ合理的な判断ですよネ。

ただ、多くのドキュメンタリーや読み物は、そこで「零戦劣勢のまま、悲劇の最後を迎える」と結びます。

日本の航空隊は、格闘戦にこだわり過ぎたのでしょうか。あくまで、「1対1」の剣術の試合のような美しさを追い求めたのでしょうか。‥‥だとすれば、愚かとしか言いようがないのですが、本当にそうだったの??? 私はどうしても、その点が納得いかない〜日本人がそこまで非合理だとは思えないのです。何度も負け続けている戦い方を、ポリシーゆえに変えずに踏襲し続けて、さらに負けを重ねていく‥‥なんて、命を賭けていればなおのこと、あり得ない話だと思うのです。

米軍の戦術が移行したのに合わせて、日本軍も呼応して戦術を変えていかなかったのでしょうか?

日本海軍も陸軍も、「重戦」〜零戦とは対照的な、重武装で速度性能に優れる戦闘機〜を推挙する人間が少なかった事は、よく知られている事ですが、たとえ零戦のままであっても、格闘戦重視の思想を和らげて、複数機の連携による新しい戦法を編み出そうとはしなかったのか?‥‥というのが、子供の頃からの最大の疑問なのです。

零戦のエピソードを聞けば聞くほど、「一撃離脱戦法のほうが、絶対的に、ドッグファイトに勝る」と思われて仕方がありません。しかし、ベトナム戦争でのF-105などのセンチュリーシリーズの米軍ジェット機が、MIG-17などの格下の戦闘機に機動性で劣勢となって大負けしたのは有名な話です。ベトナム戦争の教訓から、米軍はドッグファイト性能〜格闘戦〜を強く意識したF-15などの戦闘機を開発したのは、これまた、あまりにも有名です。また、同じくベトナム戦争で、MIG-17ジェット戦闘機を、機動性の高いレシプロ(プロペラ)機のA-1「攻撃機」(=戦闘機ではない)が撃墜したのも、よく知られています。

つまり、どっちなんだ?‥‥と。

格闘戦か、一撃離脱か。

まあ、もしかしたら、撃墜されたMIGは、油断してA-1に格闘戦を挑んだのかも知れませんし、F-105もMIG-17を格下の1世代前のジェット機だと見くびって、まんまと不利な戦いに巻き込まれたのかも知れません。状況は様々でしょうから、一概には「どっち」と言い切れるものではないとは思うのですが‥‥、やっぱり「格闘戦と一撃離脱」のモヤモヤは残るのです。

​一撃離脱戦法に屈した事ばかりを強調される零戦の、周囲の状況を含めた「真の姿」が、中々見えてきません。零戦が一撃離脱に持ち込まれた際、どうであがいても、「詰将棋」のように負けが確定していたのか。「しかし、日本海軍側では鈴木実少佐が相手のダイブに注意し深追いしないように部下に徹底し、零戦の得意な格闘戦に巻き込んで優勢な戦いをしていた」とのWikipediaの記載もあり、釈然としません。

ただ、「マッチのように火を吹いた」と零戦パイロット自らの証言にあるように、例えヒット率がEVENであっても、一撃が致命傷となる零戦は、酷く不利だったと容易に想像できます。日本のエースパイロットの証言からも、「敵より早く、敵を発見する事」が大事、つまり先手必勝だった事が伺えますが、その先手を仕掛けた際に、相手(米軍機)は火を吹かない、こちらが先手を仕掛けられた時は、簡単に火を吹く‥‥では、かなりのハンデがつきまとっていたのは事実なのでしょう。

日本海陸両軍の航空隊のバトルドクトリンは、結局、零戦の惨状を目の前にしても、変わる事はなかったのか。もしくは、変わる事のできない何か組織内部的な障害があったのか。または、巴戦ではない新戦法を編み出したものの零戦では効果が著しく低かったのか。

零戦の機体構造や性能に言及するドキュメントは多いのですが、零戦を扱う戦術システムの変遷については、あまり多く語られていないので、結局今でも、「零戦が華奢過ぎたので、アカンかった」という「零戦の責任」で結ぶのが多い‥‥のです。でも私は、零戦の兵器としての性能が大きな要素である事は変わりないと思いますが、同じくらい、いやそれ以上に、戦術や運用法の移行、また搭乗員の意識改革も、零戦を始めとする「航空戦」には非常に重要な要素だったように推察しているのです。

現在日本のアニメ業界でも、ヤバい状況を何度も再演する体質や、ドクトリンを柔軟に変えられない気質を、強く感じる事があるので、昔の日本も軍部とは言え、似たような国民性の上で似たようなグダグダな状況に甘んじていた「可能性」は否定できません。改善すべき点を皆で肌身で実感している割に、「とりあえず一難去った」とばかりに、何の対応策もないまま、「今度は上手くいくかも知れない」とまた同じ事を繰り返す‥‥と言う。

NHKのドキュメンタリーでの、「コックリさん」で自分の運命を占った航空少年兵の話は印象的です。「勝負は時の運」とは言いますが、「勝てる勝負に誘い込む」のも兵法の大原則です。まず、パイロット自身が「勝てていない」のは大問題です。

とは言え、パイロットたちの危機感が中枢へと伝達していかなかった事も多いのではないか‥‥とも、様々な戦時のドキュメントを読むだに感じるのです。権益を得た者たちは、例え状況に改善点が山積みであろうと、今の権益構造が崩れるほうがマズいので、あえて、改善しないまま放置していたのかも‥‥とすら思えます。

零戦の興亡。米海軍航空隊の戦術転換。組織の問題点。‥‥歴史的な事実は、自分たちに有利に活用できる「教訓」の宝庫ですネ。

歴史のフィードバックが豊富に手に入る恵まれた環境にある中、それをふんだんに活用しない手はないです。少なくとも私は、4Kに関する戦術アイデアが色々と想い浮かびましたヨ。

いつか、空戦技術に詳しい方に出会う事があれば、色々と聞いてみたい事がありつつ、零戦を始めとした当時の航空機に思いを馳せることにします。



ちなみに、私の好きな日本の二次大戦機は、陸軍の「五式戦」という戦闘機です。水冷機譲りの優美なボディラインが何ともまたイイ。現在の日本人アニメーターが決して米国のようなキャラデザインをしないのと同じく、当時の航空機も日本人の美意識に沿ったデザインである事に気付きます。日本人からはワイルドキャットのようなデザインは出てこないんですよネ。(川西(現在の新明和)は無骨なデザインが多いですが、全世界的に見れば、やっぱり優美な部類に入りますしネ)





 

ブログについて

私がこのブログで書く事って、ある人には突拍子もない荒唐無稽な事のように響くかも知れませんが、いずれも長い段階を経た上で発信している内容です。1995〜6年くらいからPhotoshopをイジり始めてから20年近い積み重ねの後の、今の状況に由来する事柄なのです。

私とて、紙と鉛筆だけを自分の道具としてた頃は、前回書いたような事はとても想像できませんでした。しかし、コンピュータで色々な事を実践するうちに、様々な視点を得るに至ったのです。After Effectsを使い込むような状況にならなければ、「中割りなしでも自分の絵は動かせる」なんて、とても考えつかなかったです。コンピュータを使ううちに、「あれ?‥‥考えてみれば、何で自分は中割りで物事を考えてるんだろう。コンピュータを使っているなら、コンピュータで動かすやりかたもアリじゃん。」と、思いつくに至ったのです。コンピュータを本格的に使い始めた1996〜7年頃では、全く思いもしなかったのに、です。

ブログと言うのは、「書こう」と思った事をおもむろに書くわけで、いきなり文面を目にすると過激に思えるような事でも、実は長い長い経緯があってのことなのです。そして、こうしてブログに書くということは、喋れる状態にある‥‥とも言えるわけです。

このブログをどんな方々が読んでくれているのか、調べる手段がないので解りませんが、わたし的には「アニメーション作品に携わる人」を想像して書いております。プロでもアマでも、予備軍たる学生諸君でも。‥‥なので、用語的なものは逐一細かく解説しておりません。たださえ、長くなりがちなので。

ただ、多少の配慮は必要だとは思っていて、じゃあ、どこまで書けばよいのか‥‥をいつも悩みます。前回、「タブレットでブルーナのミッフィまで描画できる」みたいな事を書きましたが、後になって、「まさか、ディック・ブルーナさん本人がタブレットで作画している‥‥という意味に受け取られていないだろうか」と不安になり、急遽、「ブルーナのミッフィ」から「ブルーナのミッフィのような可愛い絵柄」という記述に変更しました。わたし的には、ブルーナさんが生の画具で描いているのは「いわずもがな」の事ですが、絵に携わっている人全員の知識とは言い切れないので、書き加えたのです。

文を短く簡潔に、しかも伝える事はしっかり伝えて‥‥というのは、難しいですネ。プロのようには、とてもいきません。

略語の乱用、例えば、ペンタブだの、シート、2フレ、プリコン、ノンドロ‥‥と言った業界用語チックな言葉は、開口を狭くしているようで好ましくはないと思ってはいますが、書くのが楽なもんで、つい‥‥。
(ちなみに、ペンタブ=ペンタブレット、シート=タイムシート、2フレ=2フレーム、プリコン=プリコンポーズまたはプリコンポジション、ノンドロ=ノンドロップフレーム(NDFとも)‥‥です)

アクセス

しかし何だ、どんな影響であれ、アクセスが増えるのは良い事です。

結局、ブログにしろツイッターにしろ、人目について読まれるのが目的ですもんネ。

林檎

ここ数年のAppleって、何か、惹かれる要素が大きく減っているように思います。基準が「iPad・iPhone合わせ」になっている‥‥というか。

「便利」と「簡単」が短絡しちゃっている‥‥と言うか。

「難しいから面白い」と思うわけで、「簡単だったらつまらない」のです。

ティムおじさんは、高学歴で働き者かも知れないけど、「よく、そんな事、考えつくもんだね」という鬼才・奇才ぶりは、あまり「期待できない雰囲気の人」だよネ。それがそのまま、今のApple製品に反映されているように感じます。

Appleも秀吉よろしく、ジョブズ1代限り‥‥なのかな。‥‥でもまあ、それなら、それで。

ヨセミテ

本日未明のWWDC(ワールドワイド・デベロッパーズ・カンファレンス〜世界開発者会議〜つーても、アップル主催)の基調講演での新ハードの発表は無しでしたね。しょぼーん。

昨日の夜の時点で、アップルストアのMac miniにおける納期表示に変化がなかったので、Mac miniの新型もしくは別の何かは期待薄だな‥‥とは思っていましたが、ハードウェアの話題自体がありませんでした。

iOS8と次期MacOSX「ヨセミテ」が主な演目、Objective-CからCを引っこ抜いた開発言語Swiftなども興味をそそるものでしたが‥‥ハードの発表は一切なしで、つまり今のところは、Macで4KをやるにはおとなしくMac Proを買ってね‥‥という事か。

まあ、2年前のMac miniでも4Kのアニメーション制作は「工夫次第」で可能なので、Mac Proはスルーしておきます。Mac Proは色んな意味で、職場で使うくらいのが、まだちょうどいいですネ。

ハズい

「クールジャパン」‥‥口が裂けても、自分たちからは言わないフレーズすネ。

そげな言葉で形容されることからして、「木に登ったブタ」になっていないか、状況を冷静に俯瞰視するきっかけにはなりますが。


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