絶対練習量

昔から「練習量の問題ではなく、どこをどうすれば上達できるか、メカニズムの問題だ」という論調があります。私の実感からすると、これは半分当たっていて、半分外れています。

 

メカニズムの問題、もっといえば、どうやら自分が上達に行き詰まっているらしきことを、自覚するためにも、絶対的な練習量は必須なのです。数日に1枚しか絵を描かなければ、数日に10分しかピアノやギターを練習しなければ、塀にぶち当たることもままなりません。だって、ちょっとしか歩かなければ、塀はまだまだずっと先にあって、見えもしません。

 

ただ、どんなにちょっとしか練習しなくても、自分の下手さ加減は認識するので、「指南書」「技法書」「何々教室」みたいな「上手くなれるかも知れない魔法の手段」を求めて彷徨い続けて、やっぱり壁にはぶち当たらないまま、時間をどんどん浪費します。

 

まずは独学でも良いから、とことんやってみる。‥‥基準としては、例えば絵を独学で描くのなら、数歳から十代最後までに1万枚くらいは描いておきたいところです。8歳から19歳まででカウントして、12年間で1万枚だとして1日平均2〜3枚ですし、クロッキーのような絵が大半ですから(精密なイラストを1日に3枚描くわけではない)、決してできない量ではないです。‥‥まあ、こうして文に書いているくらいですから、私はそのくらいは描きました。

 

そうすると、2〜3千枚くらいの小区切りで、もっと他の考え方、描き方を実践してみても良いのでは?‥‥という考えが自分の中にどうしても生まれます。そりゃあさすがに、2千枚も描けば気づきますわな。

 

そんな時に1冊の技法書に出会うと、今までの数千枚の経験も合間って、目からウロコが落ちるのです。

 

つまり、技法書1冊と向き合っても、その技法の指南が有用で有意義であることに気づくためにも、絶対的な練習量の前段階は必要です。

 

もし習い事で親御さんがお金をだしてくれるのなら、それはラッキー。独学ではなく、先生に教えてもらいながら、やはりとことんやれば、独学よりもさらに上達が期待できます。ピアノ学習が良い例です。基本をみっちり、幼少の初期段階から学ぶことで、独学とは一線を画した強固な基礎が形成される‥‥のを見て、独学の私は羨ましい感情を覚えたものです。‥‥ただ、実際に幼少からの厳しい訓練を経験した知人は、精神を病むくらいのところまで追い詰められる経験もしており、外野の人間が羨むだけの甘い世界でもないとは聞きました。

 

 

自分がうまくならないのは、練習の方法が悪いからだ。うまく教えてくれる人がいないからだ。

 

厳しい練習量を避けて、上手くならない原因を外部ばかりになすりつける人もいましょう。誰かガツンと「お前のその考え方がつまずきの大原因だ」と親身に言ってくれる親友でもいない限り、一生死ぬまで「自分以外が原因だ」と思い続けるでしょう。

 

絶対的な練習量は必要で、さらに上達するには、メカニズムにも着目し、段階に見合った学習法を実践する」のが、私の考える理想的な道のりです。

 

 

 

変な言い方‥‥かも知れませんが、何年も描いているにも関わらず、絵が上達しない人って、傲慢な人だなと思う時があります。

 

なぜかというと、「自分は才能があってデキる人間だ」という前提があって、ゆえに地道な練習を避けているだろうと推測するからです。地道な練習なんて才能のない奴のすることで、自分は才能があるからいきなり中級レベルから始めても出来るはずだ‥‥と、本人以上に、絵が口ほどに物を言います。

 

まともに左右対称に描いてみましょう。まともに立方体を描いてみましょう。顔の中身だけでなく、手の指先まで、シューズのアウトソールまで、すべて誤魔化さずに描いてみましょう。

 

頭部と「性的なニュアンスを感じさせる部分」しか興味がなくて、それ以外は「めんどくさいもの」とみなしているのが、絵から発散されているのを、絵が下手な当人は気づかないのです。

 

「絵の要素に格付けを勝手にして」、「めんどくさいものは描きたくない」だなんて、極めて傲慢ですよね。

 

絵の中の全ての要素に対して謙虚であっても、そこから先にさらに上達の何段階ものステップ、絵を魅力的なものへと導く技法の数々が待ち構えているのです。自分に才能があるかないかなんて、矮小な視点でうじうじ悩んで留まっている余裕などないです。

 

技法書や教室での指南は、日々の修練に勤しみ、謙虚に物事にあたる人にこそ、福音をもたらすものと思います。

 

根拠のない自信に自惚れて、自分を甘やかす人には、技法書も指南も有効に作用しません。そして、当人は「この技法書は使い物にならなかった」なんて吐き捨てるのです。

 

「教室マニア」「技法書マニア」を自認するのならそれはそれで趣味なので他人が口出すいわれはないでしょう。しかし、「どこかの教室」「何か技法書」さえあれば自分が上手くなれると思い込んでいるのだとすれば、それは非常に見当違いで哀れなことですから、身近な人がアドバイスしてあげても良いように思います。同僚のよしみでネ。

 

 

 

思うに、就職して社会に出てしまったら、絶対的な練習量を確保する時間も相当削がれます。

 

アマチュアの時に、多くの練習量を重ねて、自分の中で何回かの気づきも経て、そうした上でプロの作業に就けば、シームレスに上達のカーブを上がれるはず‥‥ですが、アニメ業界はそうなっていないのかな‥‥。

 

絶対的な練習量はどうしても必要です。ひたむきな情熱は、なにものにも代え難い、当人の資質です。

 

絵を描くのがめんどくさい人を、どうやって絵描きに育て上げるか‥‥なんて、愚の骨頂です。やはり、絵描きの職業は、絵を描くのが好きな人がなるのです。

 

あとは、受け入れ側としてのアニメ制作現場が、過去の因習を断ち切って、どのように未来の現場を構築し直すか、ですネ。

 

 


「付加」価値

すごいツイートを見かけました。

 

私のオスプレイ発言が話題になっていますが、鉄の塊15トン15万円が、なぜ200億円になるのか?経済的には、それを付加価値と呼ぶ訳ですが、その付加価値なるものの中味を詳細に分析する必要があるのでは、という問題提起です。なぜなら、国民の皆さんの税金で買う物だからです。

 

私は前後の経緯を知りませんし、ツイートした議員さんも知らないし、文章を分割して言葉尻を論う気もないですが、「鉄の塊が15万円が、なぜ200億円になるのか」というのは、何か、どんな時でもどこにでも生じる「人間の心理」を物語っていて、興味深いです。

 

もちろん、文中では「付加価値の中身を分析」とあるので、オスプレイの材料費が15万円(かなり無理がある試算とは思うけど)なので200億円は高すぎると主張しているわけではない‥‥のは判ります。

 

 

ただねえ‥‥。この言い回しをあえてする必要があるのか

 

15万円と200億円とのものすごい「ギャップ」を強調して、嫌悪感を煽ろうとする意図のほうが見え隠れしますが、私はそういう政治的なことよりも、どんな理由であれ、「材料の原価」を持ち出して論じる人間の心理のほうに、深刻な問題を感じます。

 

 

 

作画の人間は最近まで、いや今でも、紙に鉛筆で絵を描いてきたじゃないですか。プロの技量を持つ人が、紙に。

 

紙を運用する現場において、成果物は紙で提出されるわけですが、価値を推し量る場面で、「紙の原価」を論点にされたら、たまったもんじゃないですよネ。

 

「いや‥‥、だから、付加価値の分析を」

 

‥‥と言うのだとすれば、その時点でズレているのです。ものつくりのことを全然理解できていません。

 

紙を基準にして、描かれた絵が「紙の付加の価値」だなんて、思っている人、いる???

 

描かれた絵が基準でおおもとであって、紙は単なる「結果物の媒体」みたいなものです。

 

 

コンピュータのデータだって、同じです。

 

今は32GBのSDHCカードが今だと1080円くらいで買えます。だからと言って、その中に収納した何万ファイルもの連番データや、何百ものMOVデータが、数円、数十円の原価だなんて、言い出す時点で無知で馬鹿で阿保です。

 

 

 

これ、笑い話じゃないんですよ。

 

昔ね。ソフトウェアの販売メディアがCD-ROMへと移り変わり始めた時、

 

いまどき、フロッピーで売ってんの? だったら、もっと安くして。

 

‥‥みたいなことを言い出す人が続出したんですヨ。

 

今だとうひゃひゃひゃと笑い飛ばせますし、むしろ、高度なプログラムがフロッピーサイズに収まる=コンパクトになることのほうが賞賛されます。

 

でも、昔はそういう人が居たんですよ。ソフトウェアの価値を、記録メディア自体の価格で計ろうとする人がね。

 

 

アニメ制作現場にもありますよ。似たようなニュアンスのことはネ。

 

デカイ容量の映像ファイルは凄い。レイヤー数の多いのは絵が凝っていて「仕事してまっせ」感がある。素材を何種類も出力すると、どんなに凄いことをしているかをアピールできる。

 

「レイヤーを整理せい!!!」‥‥ただそれだけですけどネ。

 

コンパクトにまとめられたレイヤー構造で、美しく素晴らしい映像を実現したいと私は思っています。でも中々コンパクトにはまとまらず、「見極めが甘い」と精進する日々です。

 

同じく、紙一枚に描かれた線画が、これ‥‥凄いな‥‥とプロ同士の目線で見ても驚嘆することもありましょう。

 

 

絵でも飛行機でも、材料の原価を持ち出したら、お話にならないですよ。

 

 

オスプレイの材料原価が15トン15万だが導入時の価格は200億円。‥‥この論調を持ち出す時点で、明らかに他の思惑がありますよネ。逆にボロが出て、透けてみえちゃったように思います。

 

同じように、紙と鉛筆で描いているのなら、原価が安いから安くして!‥‥みたいなことを言い出す人は、そりゃあもう、原価なんて「方便」であって、絵描きの人間を安く買い叩きたいだけの理由です。

 

好きな絵描きさんがいて、その人が描いた絵の画像ファイルがJPEG形式で1MBだったとしても、それは1円くらいの価値しかないんでしょうかネ?‥‥そんなことはないですよネ。

 

 

 

飛行機が空を飛べるのは、鉄の塊の「付加」価値じゃ無いってば。

 

観る人々を惹き込むキャラの表情が描けるのは、紙と鉛筆の「付加」価値じゃ無いってば。

 

でも、人はたまに、そういうこと=原価云々を言い出すんだよねえ‥‥。

 

やめましょうネ。原価で物事を推し量るのは。

 

 


用い方

「多重組み」「複合組み」という言葉は、何か「正式な技術用語」みたいに見える‥‥というのをツイッターで見かけましたが、確かにそうですネ。なんだか、新しい技術みたいに聞こえちゃうので、「組み事故」みたいなマイナスイメージをもつ言葉に変えた方が良いというのも頷けます。

 

もう一歩、踏み込むのなら、その「組み事故」を原画のせいにしないでほしい‥‥ということも感じます。すでにキャラ表のデザインの時点で「組み事故確定なデザイン」はあります。

 

肌に髪の毛の影が落ちて、さらに髪の中に目や眉の線まで透けて描いて‥‥なんていうデザインは、「はい。髪の毛のなびき&目パチで組み事故確定」です。キャラのアップになるごとに枚数をいっぱい使ってセルを要素ごとに分けるわけにもいきませんし、マスクワークの合成なんてタイムシート指示には存在しませんしネ。

 

つまり、そのようなキャラデザインを描いて、色彩設計の色見本を塗った段階で、何らかの「組み事故対策」もしくは「デザイン変更」が必要です。‥‥なのに、デザイン時点ではスルーして、原画作業時の采配に委ねる‥‥のは、チェックミス・運用設計ミスとしか言いようがないです。

 

原画では采配しようがないのも事実です。キャラ表にあるものは描かないと基本「ダメ」なんですから。勝手にデザインを変えても良いの? もし変えても良いのなら、髪の毛の中に目が透けるのは止めるし、肌に落ちる髪カゲも止めるんだけど、「そうして良い」とはキャラ表のどこにも明記されていませんよネ。

 

ものすごい複雑な塗り分けも、原画の一存じゃ反古にできないですもんネ。

 

かといって、組みに合わせて、原画で事前に番号をふるのも、演出時にタイミングが変えられなくなって(変えにくくなる=番号振り直し)、それはそれで問題があります。

 

 

 

‥‥なので、新しい取り組みの4KHDRでは、デザイン時点から「組み事故」を防ぐデザインにしています。また、作画技術の違い〜CO/KFアニメーションと従来送り描きアニメーションとでキャラの処理を変えています。

 

従来送り描きアニメーションはとにかく枚数を大量に描くので、「略画」を意識して線を減らし(でもまあ、ど根性ガエルに比べれば多いけど)、目が透けたり、肌に影が落ちたりするのも、あっさり割り切って廃止しています。

 

キャラのアップではCO/KFアニメーションが主体となり、今までは常識ハズレと言われる表現内容もどんどん導入しています。CO/KF作業者(=まあ、いまんとこ、身近では私だけですが)だけに配布する専用のキャラデザインも作りました。ヒロインのアップでは、目はふんわりと滑らかに髪の毛から透けて見えますし(コンポジット処理)、複雑な影落ち(マスク処理)もフルアニメーションで動きます。

 

 

 

要は、

 

適切な技術の用い方

 

です。

 

CO/KFアニメーションでやっていることを、従来アニメ技術でやろうとしてもあまりにも大変です。

 

一方、従来アニメ技術のタフな生産技術には、CO/KFアニメーションはまだまだ及ばない部分も多いです。

 

ゆえに、それぞれの現時点での優位点と欠点を監督と共に吟味し、作画は彩色に直結しますから色彩設計さんにも相談しつつ、作画としてどんな技術を用いるかを決定していきます。

 

いよいよ、カットごとではなく、1カットの中に「CO/KFアニメ技術と従来アニメ技術」を内包する「ハイブリッド」カットまで出てきましたが、それは「CO/KFアニメ技術と従来アニメ技術の良い性質」を活用した結果です。

 

 

 

思うに、テレビアニメが放送開始した1960年代とは絵そのものの表現が変わってきて複雑化した現在のアニメ制作において、今までと同じ思考のまま、同じ技術スタイルのままで、対応しようとするからこそ、現場には「組み事故」も「拡大作画」も増える一方なんだと思います。私がキャリアをスタートした1980年代と比べて、絵柄や処理は複雑化する一方で、基本的な作画技術はタイムシートも含めてマイナーバージョンアップに留まります。(まあだからこそ、他社間で作業の融通も効くわけですけどネ)

 

16ミリフィルム時代のアニメ量産技術の延長線上で、4KHDRの映像品質は達成できません。若い人は16ミリなんて何のことやら‥‥と思うでしょうが、かなりガッチリと呪縛され続けています。技術意識自体が、1960〜70年代のバージョンアップ更新であり、作画技術の根本を新しい時代に合わせてゼロから考え直すことに関しては極めて消極的です。

 

 

 

そうした中、「あっちもダメ」「こっちもダメ」というのは、ニュートラルな立ち位置で的確な情報分析のように錯覚しますが、単に日和見して傍観しているにすぎません。自分ではどうすべきか、ビジョンを示せない人は、ダメ出しばかり連発するのです。

 

次世代の映像制作は、かなりのハードルの高さであり、ニュートラルな立ち位置を気取っていられません。アニメ業界は今の作り方では、やがて社会的にも内情的にも破綻するでしょうから、日和っているうちに淘汰に巻き込まれることもあり得るでしょう。

 

従来のアニメの作り方が良いと思っているのなら、その作り方で生き残る術を見出さないと。

 

‥‥待っているだけ、耐えているだけでは、状況は好転しません。日本の70年前の大戦争を思い出せば、「欲しがりません、勝つまでは」と言って、結局負けて全てを失うこともありましょう。

 

10年後、20年後に、アニメを作り続けているには、今、何を仕込んでおくべきかを、考えましょう。

 

作画ソフトのTIPSで不安を紛らわしている時ではないですし、もし「組み事故」が起こるのなら、その原因を突き止めて改善しないと、バケツリレーしているうちに敗戦することになります。

 

 

 

僕ぁ、負けたくないね。

 

なので、負けないための伏線や仕込みを、頼りになる仲間たちと実践し続けます。

 

 


Z。

私らの作業グループでは数年前から、After Effectsの3Dレイヤー&カメラ機能は、コンポジット作業の標準になっています。コンポジションの中身のレイヤー個々をXYだけでなくZ軸も使って配置します。舞台セットのようなコンポジションを最初から組むのですが、それはすでにレイアウト作業時点からZ軸ありきのプランとして組み込まれています。

 

当然、旧来のアニメ作画や撮影の仕事ではNGです。そもそも従来のタイムシートにはZ軸の欄も、数値の基準もないので、旧来基準のアニメの作画と撮影には本格的に導入できないのです。まあ、従来枠の作品でも、「このカット内容はZ軸向きだ」と判断し、自分で原画を描き自分でコンポジットするカットは、自己完結できるのでZ軸を内部使用することはあります。

 

Z軸を持つコンポジションの縦横寸法はすなわち視界で、カメラでいうところのレンズを通過した撮像面となるので、大判を組んだ時の画角と、スタンダードフレームで切り取った画角が変わります。平面にペタッと素材を置いてコンポする旧来撮影技術では、大判だろうが画角が変わることはないですが、Z軸を使って大判を組む時には寸法の差異を吸収する微調整が必要になります。

 

また、位置だけなく、「方向」も制御しなければ、予期せぬ素材バレを生じます。Z軸コンポの縦PAN時に水平線がバレるのはよくあることです。一方で、大判の舞台に生ずる台形歪みをうまく利用するテクニックは、今までにない表現を可能としますが、ほどほどのさじ加減が必要です。つまり、今までのアニメ撮影とは異なる、新しい技術基準が必要になります。

 

コンポジションサイズを変えると、遠近感や画角の広さの見栄えが変わる‥‥のが、Z軸導入後のアニメのコンポジットです。

 

*今までの「作画サイズ」という考え方のままでは通用しない、「画角」「焦点距離」「レンズ口径」「フィルム面積」というフィルムカメラ時代の知識が必要になります。ドローン・クレーン・GoPro風な表現が可能になる一方で、素材サイズの計算はかなり難しくなります。

*平面の世界から抜け出て、奥行き=Z軸を手に入れるということは、平面では意識せずにスルーしていた色々な要素を制御する必要性が生じるということでもあります。平面のレイアウト用紙で「密着引き」を指示していたのとは別次元の、周到な計算・計画が必要です。

 

 

Z軸の距離感をそのままに、プリコンポーズして重箱にして、コラップストランスフォームで重箱ごとカメラワークを組むのは、新しいアニメ技術の定番です。レイヤーをグループ化した重箱を複数組んで、内部のZ軸の関係性をそのままに重箱単位で制御することが可能です。10〜20も重なる背景・前景を個別にXYZ軸を制御してカメラワークを推敲してたら日が暮れてしまいますから、Z軸を含めたレイヤーのグループ化は欠かせません。

 

‥‥とまあ、Z軸とコラップストランスフォームをちょっと使うだけでも、相当、色んなことができます。After Effectsは、設計が古いとは言われますが、After Effectsと同じことが完全にできるようでなければ、他のコンポジットソフトウェアには移行する気にはなれない‥‥のは、そういうわけなのです。

 

しかし一方で、After Effectsのこうした機能は、旧来の現場では、過去から現在まで封印し続け、未来も封印したままでしょう。タブレット作画が普及してタイムシートが電子化しても、撮影指示上でZ軸を扱えないので、実質手も足もでません。使い方に慣れてきた私も、原画だけ担当する場合は、Z軸なんてとてもではないですが使う気にはなれませんし、実際不可能です。

 

Z軸のカメラの動きは全て「TUとTB」に頼ることになりますが、TUとTBはズームと同じですから、クレーンやドローンやGoProのようなカメラワークにはなりません。

 

私は以前、導入の可否を考えてみたことがありますが、どうも無理っぽいです。「タイムシートと撮影指示」という旧来のスタイルが続く以上、Z軸の扱いは困難です。

 

どのような機能追加を今までのタイムシートと撮影指示に追加すれば良いか‥‥という思考のスタンスは限界に達しており、「分業の考え方」をゼロから仕切り直す大掛かりな取り組みが必要になります。

 

また、4Kのテレビは、今までの2Kテレビの解像度では隠れて誤魔化していた素材個々のクオリティがかなりダイレクトに映し出されてしまうので、作画サイズ云々だけでなく、アニメ撮影・コンポジットでの素材の組み方が問われます。

 

 

 

「デジタル作画」だけが未来ではありません。1000nits時代のHDRやPQカーブにはどう対応しますか? 各家庭の4K HDRテレビでの見栄えに対してどのような表現のアイデアがありますか?

 

未来は今までと違う映像品質基準へと移り変わっていきますから、当事者がどのように未来を生き抜こうと思っているのか、まずソコが問われましょう。

 

 

 


金のかかる芝居、金のかかるアングル

テレビの標準的なギャラの仕事って、コストをいつも念頭におく必要があります。好きなものを好きなように動かせば良いという話ではないでしょう。

 

例えば、日常芝居でも、ちゃんとやろうとすると、相応に原画枚数と動画枚数が必要になります。ちょっとした小芝居とか、A点からB点に歩いて移動するだけでも、いまどきの線の多いキャラは昔のロボットもののように作業労力が必要となります。

 

また、カット割りやアングルをちょっとした迂闊さが、ものすごい労力を無意味に発生させたりもします。

 

そういった意味では、テレビアニメは制限だらけです。制作費の低さはあからさまな制限ですから、絵コンテを描く人間や演出をする人間は工夫を重ねて、低コストでベター・ベストな効果を実践してきました。

 

「でもさあ‥‥、そんな作り手のコストばかり考えて画面を作るとチープになるじゃん」という人がいたら、その発言にはいくつもツッコミどころがあります。

 

まず、テレビの制作費は、チープですよネ。実写に比べれば高いとか言われますが、何百カットにも及ぶ原画と美術と撮影、何千枚にも及ぶ動画と仕上げで、制作費を細切れにするのですから、作業者単位でいえば決して順当なギャラとはいえないのがテレビの「昔からの常」です。もともとチープなお金しか用意できないのに、チープなのは嫌だ‥‥というのは、発想の出発点に無理があります。

 

しかし、その「普通なら無理な構造」をできるだけ「見せ方で相殺」するのが、テレビシリーズの面白い部分だと思います。「面白い」というのは、「絵コンテと演出の腕の見せ所」ということです。ちょっとカメラの位置をかえてBOOKで切ったりするだけで、恐ろしいほどの作業負担の雲泥の差が生じます。カメラの位置が迂闊なばかりに述べ48時間の作業を要すカットが、絵コンテや演出の工夫により述べ6時間の作業コストで、しかも映像での印象も決してチープではないものが作れるのです。

 

 

テレビアニメであれこれ細かい小芝居をさせたり、消失点を安易に人間の目線にもってくるのは、テレビアニメのコストをあまり‥‥というか、全然考えていない人だよネ。

 

例えば、街の商店街を、人間が立ったときの目線のカメラ位置で、商店街通りを一点透視で狙ったら、ありとあらゆる商店街の雑多な物品が入り込んじゃって、大変な情報量を描かなければならなくなります。

 

「え? 人間の目線で描くのって、普通じゃん」とか思う人もおりましょうが、人間の目線がありふれた情景だからと言って、ありふれたコストで実現できると思っているのなら、本当に素人さんとしか言えないレベルです。そういう人には、テレビシリーズの絵コンテや演出をしてほしくないし、1原2000円程度のやっすいレイアウト料金で巻き込まれたくないです。

 

テレビシリーズで、レイアウト&1原2000円程度の単価で作業依頼するのなら、絵コンテマンは高度な知恵と経験値をもって、低コストかつ高い効果を狙わなければなりません。もしそれができないのであれば、テレビの絵コンテを引き受けるべきではないでしょう。そもそも能力と経験値が足りないんだから。

 

2000円で「松」のレイアウトが買えると思っているところに、現在のテレビシリーズ事情の破滅的な「齟齬」があると思います。

 

2000円でどんどんこなせるレイアウトの内容を、まず絵コンテで示すべきでしょう。テレビシリーズの絵コンテで劇場アニメを志向してはならないのです。絵コンテマンの資質が問われます。

 

「でも今まで無理だったことを実現することで、テレビアニメの技術も上がってきたんじゃない?」と言うのなら、ギャラも上げなきゃマズいでしょ。テレビ作品の絵コンテで無謀な内容を描きました、原動仕や美術の単価は知ったこっちゃない‥‥なんて、酷いと思いません??? そして出てくる言葉は「テレビでも出来た!」です。

 

 

どんな業界でも、ロープライス・ハイクオリティ‥‥は、まさに腕の見せ所です。でも、原価割れしてまでハイクオリティにはしないでしょ。

 

しかしアニメは平気でそれをやるのよネ。原価割れの常習です。

 

スペシャルな作品の、スペシャルな報酬の仕事なら、スペシャルな内容の絵コンテや演出で良いでしょう。

 

作業者にクオリティを要求するのなら、お金を用意する。‥‥当然のことです。

 

しかし、お世辞にも標準的とは言えない報酬額のテレビシリーズでは、工夫に工夫を重ねた絵コンテと演出が何よりも重要な鍵です。特に絵コンテは重大な責任を負います。

 

要求するクオリティはそんなに高くないけど、カット配列やカメラアングルや尺(間、ですネ)の妙味で、面白い本編を作れた時こそ、テレビにおける絵コンテと演出の勝利なのです。その実質的な事実に、昔も今も変わりはないです。

 

 

でもまあ、実は作業者側にも、「報酬に合わせてクオリティをコントロールできない」人々がいるのも、中々辛いところではあります。昔、1カット2万円以上の原画単価を設定したのに、3000〜4000円のテレビと同じ内容で上げてきた原画マンのカットを見て、監督が落胆していたのを思い出します。その原画マンにしてみれば「ラッキー。普通に比べて1万数千円も儲かった。」とでも思っているのでしょうが、それでは「ギャラの金額を無視して、何でも安く描かれるんだったら、安いギャラのままで良い」と判断されちゃうんですよネ。

 

少なくとも私はテレビはテレビなりの単価内容になるように、内容を薄くして描きますヨ。それで「何だ。たいしたことないな」と言われてもOK。レイアウトの構成もかなり割り切った内容にしますが、それでやっぱり「たいしたことない。凝ってない。」と思われてもOK。私はそれで正常だと思っています。

 

その代わり、高いクオリティが求められる作業=高い金額の作業では、相当、念を入れた内容になります。あえて高いお金を設定してくれると言うことは、監督やプロデューサーから何を期待されているかを、ひしひしと感じるからです。

 

金のかかる芝居、金のかかるアングルは、相応に作業報酬に反映されるべきことを、絵を実際に描く当人だけでなく、絵コンテや演出も強く意識することが必要だと思っています。

 

 

 


ペーパーロス

私ら技術グループはいわゆる「ペーパーレス」になって久しいです。なので、作業流通上で紙の何かを手渡されると結構「ギョッ」とします。元禄小判でお会計するような気分になる‥‥と言いますか、価値が高いのは判っているのですが、現在の流通貨幣に換金しないと使えないので、扱いに困る‥‥という感じです。‥‥で、その換金の手間に大きな労力を割かれます。

 

考えてみれば、仕上げ以降がコンピュータ作業かつ二値化主流となったデジタルデータ運用で、流通する円盤や配信データもデジタルとなった時点で、紙を使う根本的な意義はかなり危うくなっていたのだと思います。紙と鉛筆の存在を本当に大事に大切に思うのなら、フィルム撮影台を捨てるべきではなかったですし、セル用紙とセル絵具も存続すべきだったのでしょう。

 

今まで何度もこのブログで書いてきたことですが、私は2004年頃までは、フィルムとデジタルデータは共存するものと考えていました。すなわち、紙と鉛筆と絵具で作り続ける流派(=当時は多勢)と、コンピュータを足場にしてデジタルデータ運用する流派(=当時は少数)の2勢力が、それぞれの特質を活かして未来の道を歩んでいくと思っていました。当時の私は、「デジタルデータ運用の少数派」として、足場を徐々に固めて、荒波に負けないように未来を切り開いていこうと、ココロの中で誓っておりました。

*注釈)分岐には2分岐ありまして、フィルムかデジタルデータか、階調トレスか二値トレスか‥‥で、当時の私はデジタルデータと階調トレスの組み合わせを自分のメインと考えていました。

 

しかし、当時の未来=つまり現在の状況は、この通り‥‥です。かつてのブルーオーシャンはレッドオーシャンにあっという間に染まりきってしまいました。

 

私個人の感情はまあどうでもいいです。冷徹に構造を考えた時、紙は制作現場にこの先「どうしても必要なものか」を考えます。

 

 

 

作品完成形の納品形態がデジタルデータになった今、アナログデータの介在するポイントはどこなのかを探れば、自ずと紙の存在意義も見えてきます。

 

絵を描く作業において、紙と鉛筆を用いる出発点は、企画書の絵やイメージスケッチでしょう。その段階においては、ぶっちゃけ、どんな道具を用いても良いと思います。イメージの翼を大きく広げて飛び立とうとする時、まずは描き手の描きやすい道具を使って翔けば良いでしょう。無理に使い慣れない道具を使って小ジャンプしかできないのでは企画全体のボルテージも下がるでしょうし、たとえiPadやCintiqを日頃使っていても、新たな切り口を自分の中で見出すために、あえて旧来の道具〜例えばアクリルガッシュを使っても良いと思います。

 

 

 

では、キャラ設定など、実際の生産体制で用いられる「設定画」「設計図」はどうでしょうか。

 

私は前々から多くの作品のキャラ設定に対して、「二値化の作品なのに、なぜ階調トレスでしか実現できないデザインをするんだろう」と疑問に思っていました。それこそ極端な話、今の標準的な制作運用による作品のキャラ設定は、線画の時点で二値化してスムージングを処理して配布したほうが、実効的だと思います。

 

「そんなのやだ。自分の描いたキャラ設定は、自分の線のまま、配布してほしい」

 

‥‥だなんて、あまりにも当人の思い込みが過ぎます。実際の制作運用で二値化した時点で鉛筆線のニュアンスは失われるのに、作画する誰もが閲覧参照するキャラ設定が、階調トレスのニュアンスたっぷりに描かれていては、混乱の大原因にもなりましょう。制作運用上で必要のない鉛筆線ニュアンスであることを知らずに、キャラ設定の鉛筆線ニュアンスを踏襲すべく、作画する人間が一生懸命時間を使っていたら、泣けてくるほどの「お金をドブに捨てる」行為です。

 

経緯はどうあれ、二値化の道だけを選択して今に至るわけですよね? 階調トレスでしかできないニュアンスは、キャラ設定の時点から除外すべきだと、私は思いますけどネ。

 

二値化トレスは、70〜90年代に比べて飛躍的に増えたテレビアニメの制作本数に、確実に貢献しています。制作運用を動仕の面でみれば、必要となる意識・アクションは「二値化に最適な道具と手段を選択する」ことです。

 

少なくとも二値化トレス作品においては、「多彩な描線の表現能力」に関してはほとんど存在価値がありません。二値化プロセスが控えているのに、階調トレスありきの意識で描くのはナンセンスでしょう。

 

 

 

となると、描いた先から鉛筆の階調トレス線になってしまう、紙と鉛筆の「存在意義」はどこにあるでしょうか。

 

描線の表現に無関係な部分、つまり、「紙の外側の事情」です。

 

「運用コスト」という点では、まだまだ格段の優位があるでしょう。特に作業発注側から見れば、「作業者が当然のように所有しているであろう作画机と鉛筆とタップと消しゴムと定規」はスルーして、用紙だけを供給すれば良いので、これほどの「低コストな環境」はないです。

 

もう少し丁寧に言えば、フィルム時代に築き上げられた紙運用の「インフラ財産」を業界は使い続けることで、低コストを実現しています。とは言え、使い続けるだけでメンテナンスをしないので、インフラはどんどん痛んで現在に至ります。アスファルトが陥没した危険な道路もあっちこっちにあります‥‥よネ。

 

「そんな‥‥。紙と鉛筆が、低コスト目的の手段に成り果てるなんて‥‥」

 

‥‥と失望したくもなりましょう。しかし現実を見れば、「二値化トレスのための格段に安価な手段」であることを、誰が否定できましょう。実効的、実質的な観点で「紙と鉛筆でなければならない理由」を、現在の業界制作運用において「低コスト目的」以外で、誰が証明できるのでしょうか。

 

人材を育てるのだってコストが絡みますから、「紙時代の学習指導要領を踏襲する」ことで確実にコストを抑え続けています。指導法の体系を確立するのって、相当大変な取り組み、偉業とも言える内容ですからネ。フィルム時代に各現場で実践されてきた指導法がバブルソートで序列化し、その指導法の「財産」を業界は使い続けてコストを抑えているわけです。

 

紙がどうしても必要である理由。

 

もし紙と鉛筆を自分のステータス・誇りと思うのなら、「低コスト以外の確固たる理由」を高らかに掲げて宣言すべきでしょう。

 

 

 

最初に戻って、今回のブログの主題、「紙は制作現場にこの先どうしても必要なものか」は、

 

  • 旧来の作業環境やインフラを利用して低コスト運用を指向する場合
  • 紙と鉛筆でなければ映像表現が成り立たない作品制作の場合

 

‥‥の2つに絞られると思います。少なくとも私はそう思います。

 

つまり、デジタルデータ運用のインフラが整い、各スタッフは当然のようにパソコンと液タブを所有し、二値化やベクタートレスや階調トレスまで自在に選択できるように技法も定着した時、紙の存在は相当危うくなります。ネットによるデータ送受ならば、紙素材を運搬する際の制作進行さんの交通事故も未然に防げましょう。

 

しかしまあ、まだ全然、インフラも環境も技法も甘いですから、時間的猶予はあるでしょう。どれだけの猶予かは、3年なのか、6年なのか、10数年なのか、何とも読めません。日本て、どんどん貧乏になっていますから、コストを投入して環境を更新することが難しい現状があります。

 

 

 

最近、とあるアニメーターさんの画集を見て、かつて私も絡んだ作品の版権を久々にみました。

 

そこには、紙でなければならない理由、階調トレスでなければならない必然性が溢れており、「紙と鉛筆と階調トレス」を作品でまっとうした「誇り」のようなものを感じました。その当時のチームワークも最高でしたしネ。線画を描いたアニメーターはもとより、背景美術、色彩設計、コンポジットの全てのスタッフが、必要不可欠の無二の存在であることを証明してくれているかのようでした。

 

「どうすれば、あの繊細な感じ、時にしなやかで美しく、時に豪胆で力強い感じになるんだろう」‥‥と、今の二値化トレスに染まった人がもし感じたならば、即答できます。「線が、まず、違います」と。

 

紙という素材、道具、手段。鉛筆という素材、道具、手段。それらが実現する絵の表現。

 

直近の10年間において、業界の作画に関わるほとんどの人が、意識していなくても実は、そうした点=紙が紙である理由をないがしろにしてしまったのです。経緯はともかく、結果的に。

 

「デジタル作画」が徐々に台頭してきて、ようやく、紙が紙として存在する意味に「気づいた」のだとしたら、そのことに今まで気づかずに「ただ単に目の前にある紙」としか認識できず、「存在の意味に、気づかなかった自分に気づく」べき‥‥と感じます。

 

自分を風上において状況だけを見下す位置にいるばかりでは、何の学びも得られず、同じことを繰り返すばかりです。状況を分析して批評して「解った気」になっても、依然として何も状況を動かせない虚しい自分のままです。

 

なので私は、状況に飛び込んで、泥縄に絡め取られながらも、生きていきたいと思います。階調トレスをしぶとく捨てずにきて、今では毎日階調トレスと格闘する日々です。「紙と鉛筆のほうが表現として優れている部分」も感じつつ、今はiPad ProとApple Pencilを始めとした全行程ペーパーレス作業に毎日没頭しています。

 

線画を描きながら、企画の原点から、コンポジット・編集後の映像の1ピクセルまで、シームレスにシーケンシャルにイメージすること。それが未来の映像制作構造で正当なポジションと金額を得るためのアニメーターの資質と私は考えます。作画村に閉じこもって、紙作画だデジタル作画だと論争している時点で共倒れだと思いますヨ。線画の価値観と視野しか持たない「線画馬鹿」になったら、Future is Blackです。

 

 

 

 

紙をロスすることが一番嫌な人々こそ、紙をロスしない大きな必然性を自分たちで確立すべき時が迫っているように思います。「昔からそうだったんだから、未来も続けてくれ」なんて泣き脅しても、どうにもなりません。

 

このアニメを作るためには、紙はどうしても必要だろう? と、まずは映像表現で示すことが、紙を使う人間に求められているのだと思います。

 

でさ‥‥。

 

コンピュータ機器で絵を描く方法にシフトした人間も「今までの紙作画と同じことができます!」なんて言ってたら、映像表現上の特性をまるでアピールできてませんよネ。いわゆる「紙の代用品」ですワ。

 

そのあたり、「デジタル」を使う作画の人間も、自らの道具と技法によって、映像表現で示すことが求められている‥‥と思いますヨ。

 

紙と鉛筆でもできるじゃん‥‥と言われたら、「デジタル作画」の映像表現的な存在意義がないでしょ。

 

描き手は、存在の必然性を表現技術で証明すべき‥‥ですネ。

 

 

 

 


描線の利点としての二値化

前回、諧調トレスと二値化トレスの話題を書きましたが、二値化の描線としての利点を補足しておかないと、二値化を悪の対象として思い込む人も出てきそうなので、追記しておきます。

 

二値化は確かに作業効率化に大きな役割を果たしています。二値化でペイントされたTargaファイルの「それはそれは恐ろしく軽量」なことと言ったら、「撮影工程」上でも取り回しの軽快さに繋がっています。いまどき無いですよ、ファイルサイズが100KB未満の「本番」画像ファイルなんて。

 

私は最近は「撮影工程」の作業をほとんどやらなくなりましたが、たまに特殊カットでセル素材を受け取って作業すると、その画像処理の軽さ・速さに、改めて驚きます。二値化のTGAファイルの恩恵は、シンプルにAfter Effectsの挙動に直結します。

 

しかしそれだけではありません。二値化には明確な、描線としての利点もあります。

 

線画のニュアンスが、ペン入れしたコミックの主線のようになるのです。鉛筆の諧調を一旦二値化することによって、鉛筆の強弱の揺れを押さえ込み、均質な濃度の線=インクペンの線のように変えて統一することができます。これはインク線で描かれたコミック原作のアニメ化の際に、非常に有効なプロセスです。

 

実際、何でもかんでも、諧調トレスが優れて適しているわけではありません。作風によっては、二値化トレスのほうがハマっていることも相応にあります。

 

諧調トレスのほうが「パッとしない」作例や作風も多いです。二値化のトレスのほうが絵全体の印象が優れている事も多いのです。

 

ですから、諧調トレス至上主義のように思い込むのは愚かです。双方の特徴をわきまえれば良いだけです。

 

 

では何が、問題だったのか。

 

二値化トレス線だけしかできなくなった、極端な状況を選択してしまったことです。二値化トレスだけしか選択の余地がない、今の状況へと進み続けてしまったことです。

 

版権のポスターでは、様々なニュアンスの諧調トレスで描かれています。じゃあ、なぜ、版権では二値化しないんでしょうネ。本編が二値化なら、版権だって二値化すればいいじゃん。

 

やはり、程度の差こそあれ、線画のニュアンスが魅力的で尊ぶべきものであるのを、多くの人(=制作側の人間)が認識しているのです。

 

ゆえに、止め絵で、作業の選択の幅が許されている版権の多くは、諧調トレスを選ぶ事例が多いのでしょう。

 

しかしそれ=諧調トレスの表現の世界は、まさに止め絵だけの世界に閉じ込められてしまいました。

 

 

私の作ってみたい絵は、諧調トレスのほうが適していることが多いので、諧調トレスを捨てずに今まで来ました。そして、新しいアニメーション技術によって、諧調トレスは自由にその表現力を解放できるようになり、作品の魅力へと繋ぐことができます。

 

だからと言って、何でもかんでも、無理に諧調トレスにする必要もないです。諧調トレスは二値化トレスの上位互換でもなんでもなく、「描線の表現の選択肢」です。

 

二値化トレス&スムージングのインクのような描線が必要となれば、二値化トレスを選択すれば良いし、描線のニュアンスを活かした作風ならば、諧調トレスを選択すれば良いです。

 

でもまあ、今の標準的な現場は、諧調トレスが選択できるのは「版権だけ」ですよネ。まだ10年前はなんとか、諧調トレスで動く作品も作れましたが、今はもう実質的に無理ですよネ。

 

 

なので、道は未来へ。

 

未来まで、1択である必要はありませんよネ。

 

 

 

 


何度もルッサー

私は、映像制作の現場のものすご〜〜〜〜く強い実感として、作品の出来栄えは「各作業者の技術の掛け合わせで決まる」と考えております。

 

何度も書いてきた「ルッサーの法則」はその実感を代弁してくれるような理論で、知人・友人とも「それって、凄くよくわかる」と話し合うこともしばしばです。

 

仮に、5つのセクションが90点の「合格点」意識で作業し、それらの作業が組み合わさって出来た結果物は‥‥

 

 

0.9 x 0.9 x 0.9 x 0.9 x 0.9 = 0.59 :59点

 

 

‥‥という「まさかの不合格点」となります。

 

もちろん、作品の各カットは上記のように簡易に素点できる性質ではないですが、「ものの例え」としては状況をよく表しています。

 

 

「みんなで90点の仕事をすれば、作品も90点」なんて甘すぎる考えです。作品の出来映えは「平均点ではなく、掛け合わせによって決まる」のです。

 

もし、90点の作品を目指すのなら、スタッフ皆は、

 

 

0.98 x 0.98 x 0.98 x 0.98 x 0.98 = 0.90 : 90点

 

 

‥‥と、各作業工程がほぼ満点の98点の仕事をする必要があります。

 

 

これって、経験ありませんか?

 

皆が、ほぼ満点と言える仕事をして、ようやくイメージに近い仕上がりになる‥‥という経験。

 

皆が、「これなら平均点だろう」と軽く手を抜いた作品は、冴えないダメダメな出来になる‥‥という経験。

 

 

‥‥で、撮影をやっていると、必ずあるのが、「なんとかしてくれ」とか言われるカット。撮影はプロダクションの最後の最後なので、もう撮影=コンポジットでしか挽回できない‥‥とばかりに、「なんとかして」と頼み倒されるわけです。

 

私は作画も撮影も兼任しておりますので、両者の視点で「辛いこと」だと思います。しかし、監督と演出に「このままではどうにもならない」と言われ、最後の工程ゆえに逃げ場もない‥‥となれば、あの手この手で「失った点数を挽回」するほかありません。

 

例えば、前工程で90点の作業をしてしまった作品(カット)を、59点ではなく、せめて90点に挽回したいのなら、

 

 

0.9 x 0.9 x 0.9 x 0.9 x 1.38 = 0.91 : 91点

 

 

‥‥と、最終工程で色々と盛り込んで138点の仕事をしなければ、90点台まで挽回できません。

 

この逆も然り‥‥で、作画のパワーだけで作品を維持したいのなら、

 

 

1.38 x 0.9 x 0.9 x 0.9 x 0.9 = 0.91 : 91点

 

 

‥‥というように、「後の工程があてにならないのなら、一番最初の作画段階で気張るしかない」と138点の作画を、骨に鞭を打って描くわけです。‥‥しかしなあ‥‥‥2原動仕では、それもままならない現在‥‥ではありますがネ‥‥‥。

 

 

どちらも、「あるある」ネタだと思いません?

 

 

でもね‥‥こういうのは、もうヤメにしたのです。

 

いつまでたっても、アニメ現場スタッフは、内輪揉めの連続で、報酬も低く‥‥の繰り返しですもん。

 

作画は作画のことしか見えずに「なぜ撮影がそういう処理に至ったか」をまるで考慮せずに恨むし、撮影はゼロから絵を作る苦しみを根本的に理解できないし‥‥‥なんて、「啀み合うために現場はあるのか?」と辟易します。

 

 

つまりは、簡単なことです。

 

作画スタッフも撮影(コンポジット)をやれば良いし、撮影スタッフも作画すれば良いんですよ。

*追記:ちゃんとジョブとしては独立して、作業者が兼任する‥‥という意味ですヨ。不安になったので書き添えておきます。

 

 

「んな、アホな」と思う人が大多数でしょうが、そもそもアニメを作る時に今のようなセクショナリズムが形成されたのは、単一的なワークフローに各社各人が付き従っているからです。まるで「万物の法」のように踏襲し続けてるよね‥‥。少しは「今までの作り方」に疑問を感じたりしないですか。

 

「絵が動いて、アニメになりゃ、良いんでしょ?」と、原点を思い起こして、新たなバトルドクトリンを作り上げれば済む話です。

 

いつまで、先人が作ったフローにしがみ続けるのか。

 

新しい作り方を、考えればいいじゃん。

 

 

 

ルッサーの法則的考え方は、作業工程のポテンシャルが技術の進化によって向上した場合、以下のような「逆」の結果すら生み出します。

 

 

1.1 x 1.1 x 1.1 x 1.1 x 1.1 = 1.61 :161点

 

 

各作業者の技術ポテンシャルが、110点をマークすると、作品全体では61%も向上して161点になる‥‥というのは、やはり経験が何度もあります。各スタッフのスゴい仕事がかけ合わさると、全体的にはモノ凄い出来になる‥‥という。

 

しかし、未来の方法は旧来のソレとは違います。何も「今までよりも10%多く働く」とか「血管を浮き立たせてハイテンションの仕事をしよう」と言うのではなく、「現代の技術の特性を活かして、品質的にも効率的にも、旧来より格段に進化した現場を作る」ことで「従来100%を超えた能力を人間から導き出す」のです。

 

この100点をオーバーした61点分のリソースは、「4K時代に適合」させたり「人員の小規模化=報酬の高額化」に用いたり、色々と活用できます。もちろん、最新機材の運用にも盛り込めるでしょう。

 

まあ、ここでは控えめに「1.1」としていますが、実際はもっと大きな数値を叩き出します。通常20〜50人かかって2K24pしか作れないところを、数人〜十数人で4K60pで作りきってしまう‥‥わけですもん。

 

 

 

ひしひしと現場で感じていること‥‥だと思いますが、「自分の能力を、本当にこんなことに酷使してスリ減らしてよいのか?」と考える人は多いんじゃないでしょうか。

 

よく考えてみてください。

 

今よりも、どんどん映像の品質が向上していくブロードキャストやネットワークや何らかのデータ収録メディアの中で、「今までの作り方のまま」で対応していけると思います?

 

私はダメだと思います。

 

「昔ながらの作画を継承する、極上の老舗」にでもならない限り、旧来の技術はやがて時代の波にのみこまれて沈みます。‥‥でさ、今、「極上の作画アニメ」を作れると自負できるところって、どれだけある? 時代の波に打ち勝てる老舗になれる?

 

現在、数多く存在しているアニメ制作会社のうち、数社は「伝統を守る老舗」として生き残るでしょうが、残りは時代によって淘汰されると予測します。‥‥まあ、普通に考えて、誰もが予測可能なことなのに、「そんなの信じたくない」と思う強いバイアスがアニメ業界人には作用してしまうのでしょうネ。

 

例えば、「デジタル作画の将来性」‥‥とか、そんなのちょっと真剣に考えればわかるじゃん?

 

旧来作画技術を「デジタル化」したところで、未来がどんだけ開けるか‥‥は、まさに「デジタル作画」をリアルに作業中の人間が、自身の作業効率から試算してみれば解りますよね。「デジタル作画」に転向したところで、自分の能力は「0.9」のままか、「0.95」くらいなんじゃないですか。

 

2Kでソレでしょ? 4Kは?

 

 

 

前回の続きみたいになりますが、私は「未来を切り拓く」ことには、どんどん首を突っ込む‥‥どころか、全身でダイブする所存です。

 

皆さんも、自分の能力を「0.9」止まりにする現場ではなく、「1.1」にも「1.5」にも拡張できる現場を形成して、そこで働いてどんどん稼いで、持ち家の1軒でも持てる身分になりたい‥‥と思うんじゃないですか。それとも不幸なままが、アニメ制作者にはお似合いだと?

 

ブラック業界と言われる状況からの脱出と、旧来技術の終了と、新技術の台頭は、全て同じ器の話‥‥です。

 

まあ、あくまで私の考えなので、各人がどのように行動するかは、自由に任されている‥‥んですけどネ。

 

 

 

 

 


均質化と自動化と共有と

数回前のこのブログで、「みんなで共有して、みんなで同じ作業ができるようにする」という考えが、作業者個々の作業価値・技術価値を均質化し、やがて安売り合戦が始まる‥‥ということを書きました。私は10年前くらいに、「であるならば、安売り云々以前に、(撮影の)スタッフ誰もが通常おこなう作業を自動化して、作業負荷を大幅に軽減すれば良い」と思うようになり、そこで作ったのが「xtools」です。

 

「作業をルーチン化すると、マシンでも処理可能になる」ということを、部分的に実践したみたのです。

 

xtoolsは‥‥

 

  • 話数・カット番号に基づいて、素材を収集する
  • タイムシートとデータベースの情報に基づいて
    • コンポジションの尺を設定する
    • 背景とセルをプロジェクトに読み込む
    • 背景とセルをコンポジションにレイヤーとして順番に重ねる
    • タイムシートのコマ打ちをセル(のレイヤー)にタイムリマップとして適用する
    • スムージングなどの基本処理を適用する
    • 最終コンポジションの名称をカット番号に合わせて変更する
  • データベース情報に基づいて
    • レンダリングした映像ファイルがの尺をチェックする
    • レンダリングした映像ファイルの画面サイズをチェックする
    • レンダリングした映像ファイルのビデオコーデックをチェックする(連番の場合はファイル形式)
    • 連番ファイルの場合、連番抜けや0KBファイルがないか、チェックする
  • 作業した作業者名をデータベースに記録する
  • 撮影作業進捗をグラフ表示して、カット個々・作品全体の作業状況を把握する(=Webサーバとの連携)

 

‥‥のような内容を自動で処理していました。まだ他にも処理項目はあったと思いますが、すぐにパッと思い出すのは上記の通り。これらの処理を、作業の節目に合わせて‥‥

 

  • 1・「FHX」(作業の開始準備の自動処理)
  • 2・タイムシートのデータ打ち込み(テキストファイル)
  • 3・「CBX」(プロジェクト・コンポジションの自動構築処理)
  • 4・カット内容を作業者が盛り込み
  • 5・レンダリング結果の目視チェック
  • 6・「RQX」(レンダリングファイルの自動チェック)

 

‥‥という流れで使っていました。これは1カットごとでなく、カット袋がINした時点(サーバに素材が揃った時点)でまとめて担当者がおこない、集中作業していました。タイムシートの入力は悩ましく、「作画時点でタイムシートが電子化されていれば」と当時は思ったものです。また、カット袋にバーコードを貼って、バーコードリーダで作業開始処理をすることも実践したのを懐かしく思い出します。

 

*バーコードリーダはCODE39が読めればOKで、PC/Mac的には「キーボード入力」として認識するので、バーコードリーダ対応のフロントエンドは簡単に作れます。CODE39のフォントをインストールして、カット番号を「*」で囲んで記述してシールにプリントして貼れば「バーコード対応カット袋」になります。‥‥‥が、私はもう「紙運用をやめた」ので根本的に無用になりました。

*ちなみに、仕事ではなくプライベートで、倉庫のダンボールを管理するのに、管理番号とバーコードで管理してます。

 

 

もし、カメラがFIXの日常芝居ですと、あっという間に作業は完了。要するに「素組み」「並撮」に近い状態を、コンピュータの自動処理でおこなうわけです。「After Effectsを使って、セルと背景を読み込んで、タイムシートを適用して‥‥」という一連の定型作業は、もはや「人間が作業すべき価値もない」とすら思えたものです。

 

これを発展させて、「座標・スケールの扱いを全工程で統一する」「カメラワークのマクロ書式を決める」「撮影処理(ディフュージョンとかブレンドとか)を定型化・ライブラリ化し型番で指定できるように制定する」など、さらなるルーチン化・標準化を進めれば、かなりの自動化が可能になる事は、10年前の時点で明白でした。

 

自分の作業がコンピュータに取って代わられる可能性は、「共通化しルーチン化した作業」ほど、高い‥‥と言えます。コンピュータで、AIの進化と普及を待たずとも、単なるIF, ELSEとLOOP、ファンクションの組み合わせで自動化できます。

 

 

もし、現在のアニメ制作現場の「無言の意思」が、「技術を均質化して共有」して「時間もお金も人員規模もローコスト化」したいのなら、もっと推しすすめることは可能です。‥‥それを望むか否かは、現在の現場の人間が、未来を見据えて選択することです。

 

仮にほんとうに自動化が実現し導入され、「自動化により、人員コストを1/3まで減らします」なんて言われたら、どうしますか?

 

その時、初めて、「自分は、自分だけが持つ武器、自分だけの得意分野を育てておくべきだった‥‥」と悔いても、もう手遅れなのです。長い映像制作人生、みんなと同じスキルを持つことだけをゴールにしてしまうと、歳を重ねれば重ねるほど、厳しい現実に直面すると思います。

 

 

私は、どんどん悪化する撮影作業の現状に対し、自動化を導入して対抗しようと思った時期もありましたが、引いた視点で考えれば、それはわざわざ「安さと速さで、血で血を洗う」真っ赤な海=レッド・オーシャンに呑み込まれる運命を自ら選択することだと悟りました。

 

‥‥‥で、10年前の私は、一方で新しいアニメーション技法の自主開発に着手していたので、旧体制の旧来技術に対して、これ以上の時間を割くのを止め、アニメの撮影からも(色々あって‥‥)遠ざかっていったのです。

 

「撮影の自動処理を高度化しても、自分の欲しい映像作品へは到達できない」と思いました。コンピュータに自動でコンポを組ませて自動でレンダリングして、検品だけを人間がおこなう? ‥‥そんな自動化主導の作業で、人々を魅了する映像が作れるとは思えなかったのです。

 

自動化に限らず、人手でさえも、効率化を工程の主目的にすると、自らの仕事を「魅力の乏しい均質化した作業工程へと変えてしまう」ことも解っていました。まあ、ジレンマ‥‥ですよネ。

 

皆で技術を共有して均質化して、作業者個々の個性を無にして、自動化も積極的に導入して、作業の効率化を実践する‥‥というのは、本当にアニメーション作品制作の理想像なのか

 

ある人はYESと言うでしょう。私はNOです。

 

アニメ制作集団は、「原作をアニメ化する変換処理工場」なんでしょうかね。だとすれば、上記の問いはYESでしょう。

 

私はそうは思いません。なので、NOなのです。

 

 

 

 

今、20代の人は、たっぷり40年。30代の人でも、たっぷり30年は未来があります。現在50代でも、あと数年で引退というわけにはいかないでしょう。少なくとも私は、あと20年は関わり続けることになるでしょう。

 

みんなで共有して均質化して、自分の個性や特性を放棄してしまって、それで自分の欲する未来は見えるのか、そして、現在の技術意識のまま、未来も通用するのか、時には思索すべきと思います。

 

 

 

 


共有の悪・2

なぜ、私が「共有」に対して、そんなに目くじらをたてるのか‥‥は、コンピュータ・ネットワーク時代の「共有」にありがちなのが、データ=コンテンツの丸ごと共有、もしくは切り貼り共有だからです。

 

例えば、紙と鉛筆で描いたキャラクターの原画があったとします。その原画はとてもかっこよく描かれていて、原画を保管する場所に誰でも見れるように保管されています。

 

ある日、とある原画マンが、とある別話数の別カットで、「あ、これ、一部だけ変えれば、そのまま使えるじゃん」‥‥と、その原画をコピー機でコピーして、カッターで使う部分だけ切り抜いて、原画用紙に貼り付け、足りない部分を少し描きたして、「自分の原画上がりです」と提出して、報酬として原画料金を得た‥‥‥としたら、どうでしょうか。

 

  • 他者の描いた原画を無断で複製し
  • 切り抜いて位置調整して新たな用紙に貼り付け
  • 足りない部分だけ少し描き足してフィニッシュ
  • 原画番号やタイムシートの記述はカットに合わせて修正

 

‥‥という行為に、正当な報酬が払われるのなら、ぶっちゃけ、一番最初のオリジナルの原画を描いた人はどう思うでしょうか。

 

このような行為は、報酬面で公平感を著しく損ない、さらには「最初に原画なんて描きたくない。誰かが描いた原画をコピーして編集した方が楽だから。」という意識まで現場に生じさせるでしょう。

 

幸い、そんな「他人の原画を切り貼りして、自分の原画としてアップする原画マン」は見たことがないので、あくまで架空の話です。

 

 

しかし、例えばAfter EffectsのコンポジットではAEPデータを流用するなど、現場では日常的におこなわれており、AEPデータは「くれと言えば、くれるものだ」とまで思い込んでいる人もいます。

 

撮影工程ではこうした「カジュアルコピー」が横行しており、私はそうした流れにあくまで対抗・反抗しているので、‥‥‥まあ、良くは思われていないわな、現場からは。

*なので、今はめっきり、アニメの撮影の仕事は減りました。でもそれは、新しい方向に目を向ける大きなきっかけともなったので、良かったと思います。今でもアニメの撮影しかやってなかったら、了見も技術も幅が狭いままで、新しく広い方向に自分の能力を応用できていなかった‥‥と思います。アニメの撮影って、ほんとに、コンポジット技術のごく一部でしかないもんネ‥‥。

 

でもさ、After EffectsのAEPファイルは、コンポジットの設計図だからネ。設計図を簡単に他にバラまく馬鹿が、どこにいるんだよ‥‥‥‥‥って、ああ、アニメ業界は少なくともそうか。

 

みんなで共有すれば、みんな同じ作業ができる‥‥って、作業者個々の作業価値を貶める行為を率先して推進するような気風が、コンポジット周りの作業にはあるようで、それじゃあ、新しい技術はおろか、新人個々の映像表現力だって育っていかないです。前にも書きましたが、みんな同じ技量なら、安く提供するところにどんどん作業は流れて、ハイハイ、安売り合戦の始まりです。

 

それにさ、どんなに新しい技術を開発しても、1回だけ作業依頼されて、その成果物から中間ファイルに至るまでどんどんファイルコピーされて、二度と仕事が依頼されない‥‥なんて話になるのだったら、新しい技術や表現なんて「アホらしくて」「くたびれ儲け」で誰もやらなくなります。もう新しい技術や表現なんて外部に提供せずに、自分たちにちゃんと利益が還元される方法を模索するようになります。‥‥当たり前だよね、そんなの。

 

 

人間だけだけなく、会社組織もさ、「技術の価値」っていうものを、ちゃんと考えて行動しなさいよ。技術は価値であり、武器なんですヨ。その技術価値は、自分たちの生活を支えるお金を生み出すものなんですヨ。

 

プロジェクトファイルを安易に流出させるのは、技術価値の流出・放棄だからネ。

 

仕事のやり取りは、結果物の映像ファイルだけで十分でしょ。

 

逆にさ‥‥‥結果物たるQTなりの映像を公開した時点で、解る人には解っちゃうんですよ。レベルの高い人々に対しては、完成形を見せただけで、手の内を見せたのと同じなのです。

 

完成映像を見ただけではわからないような未熟な人たちが、どんなプラグインを使っているんだ?‥‥とか、レイヤーは何個重ねているんだ?‥‥とか、これをやるのに何時間かかったのか?‥‥とか、的外れで素っ頓狂な分析をして、あわよくばプロジェクトファイルを欲しがるのです。‥‥ちょっと、キツい言い方ですが、事実だからしょうがない。

 

雛形のAEPファイル、すなわち標準技術に準じたAEPファイルなら、流布しても良いでしょう。ちょうど、レイアウト用紙やタイムシート用紙が供給されるように。

 

でもさ、完成形のプロジェクトをまるごとよこせ‥‥なんて、技術者・技術グループ同士のマナー違反・営業妨害も甚だしいです。

 

 

とある、凄腕の原画マンは、監督に「俺の原画は、絶対に人目のつかない場所においてくれ。すぐにコピーが出回るから」と詰め寄っていました。たしかに、原画だけでなく、タイムシートまでコピーされて、業界に出回ったりと、酷いもんだなと思いました。まあ、凄く上手い人ですから、情報を知りたがる人も多かったのでしょう。

 

もしさ‥‥、ほんとにその人の技術が知りたかったら、その人に直接会って、教えてもらえばいいんだよ。ただ、それだけだって。

 

‥‥知らない間にコピーを取る‥‥なんて、姑息な方法を使うんじゃなくてネ。

 

でさ、その人に会いたければ、会えるように上手くなってのし上がっていけば良いのです。下手くそなまま、上手い人の技術を垣間見たって、理解できないって。

 

それに‥‥です。あの人と一緒に仕事がしてみたい‥‥という情熱が、本人の技量を猛烈に向上させるのです。

 

 

「でも、データ共有ができなければ、新人は上達できないのでは?」

 

‥‥と考える人もおりましょう。でもそれは‥‥

 

データ共有すれば新人は上達できるのか

→他人のデータからの切り貼りの手順は覚えられるでしょうが、映像表現の能力は一向に上達しません。

 

データを共有しない場合はどうするのか

→目で見て模写・模倣を繰り返して、時には経験者のアドバイスを受け、他者の技法から学び、やがて独自の技法を形成していきます。

 

データを共有しないで、効率化は果たせるのか

→もし、特定の表現手法や効果があるのなら、「バンク」化して、あくまで技術集団内でライブラリ化すればよいです。もちろん、その「バンク」は、外部流出などがおこらないように、集団内で管理されます。

 

 

‥‥ということです。

 

データ共有すれば、新人が上達する‥‥なんて、どう考えればそう思うのか、教えて欲しいくらいです。

 

逆に、コンピュータのデジタルデータを複製して入手できなかった頃は、新人が育成できなかったのか?‥‥全然そんなことはないですよネ。

 

先述の、他人の上手い原画をコピーして切り貼りするのが、「上達」することなのでしょうか? 明らかに違いますよネ。

 

それに、新人の周りには、中堅もベテランもいるでしょ。その人たちが、時にはエフェクトのパラメータの意味も数値を踏まえてレクチャーして、映像表現のあれこれをコンピュータを用いて具現化する方法を指南すれば良いのです。

 

 

 

そろそろ、アニメ業界にコンピュータが浸透し始めて、20年くらいの年月が経とうとしています。

 

「デジタルを使えば、誰でも上手くなれる」とか、「デジタルは技術習得の手間をスキップできる」とか、甘っちょろい「クソデジタル思考」は終わらせても良い時期だと思います。

 

 

2018年現在のコンピュータは、それこそ、1人だけでも商業レベル同等の映像作品が作れるほど、恐ろしいポテンシャルを秘めています。

 

しかし、それはあくまで技術を当人が有していれば‥‥という大前提があってこそです。

 

でも、技術さえあれば‥‥という考えは、とても痛快じゃないですか。

 

技術さえどんどん高めれば、乱造のテレビアニメよりも、遥かに高品質なアニメ作品を、プロアマ関係なく、個人や少人数でできる時代‥‥なのですから。

 

 

 



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