膨らむ想像

最近、SNS〜ツイッターの普及によって、何か「言葉過多」になっている気もします。内実を知らないのに、断片的な情報や言葉だけでどんどん想像を膨らませて、「想定に想定を重ねる」ようなことが多いのではないでしょうかネ。

 

自動中割りとか、自動彩色とか、実際に動画や仕上げをしている人は、その言葉や断片的な情報で「うっ」となる人もいるかもしれませんが、実際にその場で線画を持ち込んで即座に自動化して「人の作業と見まごう」結果物を出力完了している様子を見たわけではないですよネ。現代はとにかく言葉過多なわりに情報は断片的ですから、早合点は禁物です。

 

4KHDRも「4Kなんて作画が大変だ」とか思いがちですが、作り方を見たわけでもないのに、自分の経験だけで想像に想像を重ねて判断するのは、なんと言うか、「あわてんぼう」です。

 

 

 

その昔ね。

 

ギタリストのエドワード・ヴァン・ヘイレン(以後、エディ)が、「ライトハンド奏法」をファーストアルバムで繰り出した時に、ロック系音楽雑誌に「Eruption」の後半のライトハンド奏法部分が採譜され(つまりエディではない他の人が譜面を起こした)掲載されたことがあるのですが、スゴいことに‥‥

 

 

‥‥のように書かれていたことがありました。

 

全部別の弦で、アルペジオで弾く!‥‥みたいに書かれていたわけですが、ライトハンド奏法をエディほど派手に楽曲に盛り込んだ例は、以前のロック楽曲にはなく、採譜した人も音だけ拾って、タブ譜に起こしたのでしょう。‥‥実際、採譜した人が採譜した通りに弾けたとは思えません。採譜者当人としては、仕事のなので採譜まではしてみたけれど、弾けるかどうかはナゾ‥‥という感じなんでしょうネ。

 

ライトハンド奏法は、それまでのロックギターの常識外だったので、誤った解釈や分析が錯綜したのです。

 

実際は‥‥

 

 

‥‥のように、全て2弦のみで完結します。2と5フレットは左手の人差し指と小指、9フレットを右のどれかの指(人差し指か中指)でタッチして(ハンマリングオン)音を出して、異様に高速な分散和音を実現していました。フレットを押さえるのに、右手も動員するので「ライトハンド奏法」というわけです。

 

同アルバムの「ユーリアリーガットミー」のMVでもエディのライトハンド奏法の様子が確認できますが、採譜者は「本人の弾き方」を映像を確認することなく、苦し紛れにタブ譜にしたのでしょうネ。ビデオが普及していない70年代なのでしょうがないです。

 

実は、2枚目のヴァン・ヘイレンのアルバムに収録の「Spanish Fly」の採譜でもヤラかしていまして、私は長いことその採譜を信じてたので「絶対に弾けねえ‥‥」と思い込んでいました。ハーモニクス音の出だしの次の、高速な分散和音部分がやはり「アルペジオ」ということになってました。「この曲だけオープンチューニングだ」みたいな記事もありました。‥‥今では笑い話ですネ。

 

エディは、毎アルバムごと、色々なトリッキーな技=新奏法を繰り出すことも話題のギタリストでした。「Mean Street」の出だしのフレーズとか、どう弾いているのか、皆で奏法分析したものです。

 

 

 

新しい映像フォーマットでのアニメーション映像も同じです。

 

4KHDRで展開される「新奏法」たる新しい技術の数々は、従来の常識からは外れたものばかりですが、れっきとした「弾き方がある」のでちゃんとカタチになるのです。

 

旧来の常識だけで測るのはやめましょう。

 

ライトハンド奏法をピッキングで演奏するようなことをして「演奏できねえ〜!」なんて、当たり前なのです。

 

 

ちなみに、エディの使っていたピックアップ(ギターに取り付けた磁気マイクのようなもの)は、さぞ高出力で歪むようにチューニングされているだろう‥‥と思いがちですが、意外にも出力は抑えめだったみたいですヨ。たしかに考えてみれば、高出力のピックアップは音がダマになりやすいから、ゲインブースターやギターアンプなど後段で歪ませた方が「ヌケがよくなる」かも知れませんネ。

 

 

 

しかし、Mean Streetは、リフといいソロといい、かっこよすぎるなあ。ファーストの音も大好きだけど、こちらも好き。

 

 


雑感

今から20年前の頃、コンピュータで仕上げ以降を作業してコンポジットする新しい取り組みは、今と状況が似ていて、機材面に色々と苦労していました。MacもWIndowsも150〜250MHzのクロック数で、メモリは160〜256MBで、512MBもあればモンスターマシンでした。

 

であるにも関わらず、1年の進化の度合いは大きく、1996年から2002年の6年間にこなした作品の数も、そして作業基準の度重なる更新も、「よくまあ、6年間にあんなに詰め込んだものだ」と信じられない気分になります。

 

コンピュータを導入するに踏み切ったアニメ制作現場だけでなく、コンピュータ関連機器やソフトウェアも、歩調が合うカタチ(偶然なのか必然なのかはわかりませんが)で、半年単位で性能向上を果たしていたことも、速い更新ペースに拍車をかけたのでしょう。

 

最近、コンピュータって、昔のような勢いはなくなっていますよネ。i7が3〜4GHzになったあたりでスローペースになって、現在に至ります。

 

ただ、新しい状況の要素は集まりつつあって、次のステップに進む準備段階は各社製品ごと整いつつあります。

 

1996〜2002年の間に、漢字Talk7.5がMacOSXになったように(2001年の初め頃、イノセンスを作業し始めた時にMacOSXに移行してAfter EffectsもOSX版に移行したのでよく覚えています)、128MBのメモリが2GBのメモリになったように、4GBのHDDが80GBになったように、2018〜2024年の間に相当大きな変化が訪れると思います。

 

おそらく、2024年の映像制作業では、普通にHDRのモニタで作業しているでしょう。家庭では4Kテレビがあたりまえ、スマホの解像度は2Kが標準(iPhoneは既に2〜2.5Kですよネ)、VR/ARも品質が向上しているでしょう。

 

 

 

では、アニメ業界はどうか‥‥というと、‥‥‥‥‥よくわからんのです。正直なところ。

 

紙からタブレットに移行するには、「タブレットを買ったよ」では済まない、基盤からの大きな変化が必要なので、アニメ業界全体がそれを乗り越えられるかは、少なくとも私は全く読めません。

 

4KHDR時代のアニメ制作は、「全員参加ではない」と感じるからです。

 

おそらく、2Kで「筆を置く」人も、相当数、いるのではないかと思います。アニメブーム・ヤマトブームと言われた世代は60代に達し、60代から新しい機材を購入しソフトを覚えて新しい仕事に慣れる‥‥ということ自体に「もう新しいことはいいよ」と背を向ける人が出てきても何の不思議もありません。

 

アニメ制作会社も、今後、液タブやタブレットPCを大量に導入し、サブスクリプション形態のソフトウェアを使い、新しい社会的立場と基準で作業者を雇用したり業務委託するには、根本的な体質改善(というよりは生まれ変わりに等しい?)が要求されるでしょう。

 

昭和基準の「作画机と椅子と鉛筆削りとヘッドライトを用意すれば、タコ部屋完成」という意識は通用しなくなると思われます。

 

ゆえに、アニメ制作に関わる個人や会社が、今後、どのような選択をするのかは、私はどうにも読めません。

 

新しい時代に進む人は進む、進まない人は立ち止まる。ただそれだけのようにも思います。

 

数兆円産業とか騒ぐのは、もしかしたら、昭和平成と続いた花火大会の最後の尺玉、スターマインのフィナーレだとしたら、輝きが鮮やかなほど切ないものがありますネ。

 

 

 

でもまあ、それはそれ。そしてコレはコレ。

 

業界全体で何かをコントロールしようったって、まとまりを欠いて進むに進めないでしょう。

 

各人各集団の、自分たちがリアルに関わるプロジェクトで、新しい元号の新しい花火を咲かせるのが、何よりも手堅いと思います。

 

 


認知バイアス

行動経済学、社会心理学を紐解くと、過去に自分がハマってきた思考パターンの類型を、数多く見つけることができます。そして現在の自分においても。

 

例えば、「何かを表現して、自分を成り立たせてきた」自覚のある人ほど、自信が過信になりやすいので要注意です。いわゆる「成功体験が、失敗の引き金になる」パターンです。強烈な成功体験は、これまた強い確証バイアスを引き寄せることを、日頃から意識しておく必要がありましょう。

 

しかし、偏向・偏重を気にし過ぎて、一向にビジョンを見出せないのも、それはそれで困ったものです。

 

「 XXだろうか‥‥」「OOなのか‥‥」‥‥のように、文章を「‥‥」で終わらせるのは、迷いの証。立ち位置も進路も自分で決められない状態を物語ります。自律性の欠如、例えば前回書いたような「フォーマットを自分らで決められない」事例です。

 

また、現場慣れしてくると、何でも知ってて何でも予測できたかのように錯覚することもあります。後出しジャンケンの常習とでもいいましょうか。

 

 

まあ、人間だもの。

 

何のバイアスにも影響されず生きることなんて‥‥できなさそうです。

 

そもそも個人とは、過去から現在までのおびただしいバイアスによって形成されているとすら思えます。

 

 

ですから、定期的に、認知バイアスを意識してみて、自分の内に、自ら一石を投じてみるのです。

 

一石。‥‥Rockです。自己肯定と自己否定の激しいぶつかり合い。

 

 

肩や腰と同じように、思考も放っておくと、凝り固まります。

 

凝ったら揉みほぐすのが、良いんでしょう。

 

 


オマエとオレ

業界関係者のツイートで、罪の重さのシーソーゲームを演じているのを見ると、まずはそのシーソーの上から降りることが必要なのかもな‥‥と思います。

 

若い人間は、

 

ベテランが教えてくれないから、自分たちはできない

年長者が今の低賃金の元凶を作った

 

‥‥という一方で、年長者は、

 

若い人間は待っているだけで自分から学ぼうとしない

自分が若い時も同じで元凶は年上の責任だと思っていた

 

‥‥と、「自分は悪くない合戦」を見ていると、「ああ‥‥。この考えに囚われているうちはどうにもならんな‥‥」と妙に観念します。

 

「罪の重さのシーソーゲーム」「自分は悪くない合戦」は、アニメ業界というよりは、人間の業なのかも知れませんネ。

 

罪をなすりつけ合うのも、これまた共依存の1つのカタチでしょう。

 

共依存が成立するのは、当然ですが、依存する対象があるからです。それが憎しみの対象であろうと、憎む対象がいる時点で依存しています。そもそもアニメ業界のシステムにどっぷり浸かって、原画の仕事をしている時点で、かなり強い依存性が生じます。ストックホルム症候群と言っても良いくらいです。

 

では、もし業界のシステムなどない、新しいシステムでアニメを作る場合はどうでしょうか。未開の荒野に鍬を下ろすとこから始める場合、どこの誰に依存できましょうか。

 

新しいシステム作り、新しい技術の構築、新しいプロジェクト‥‥は、自分たちだけが頼りです。誰のせいにも出来ません。自分ががんばらなきゃ!‥‥のそれだけです。

 

共依存状態が本当に嫌で抜け出したいのなら、シーソーから降りてみてはどうでしょうか。合戦から抜けてはどうでしょうか。原動仕の枠組みから抜け出てはどうでしょうか。

 

 

 

 

未来の映像技術、映像の品質基準は、上がることはあっても、下がることはありません。

 

現場の今の作りかたを続けると、破綻するのは目に見えています。

 

馬の時代に、2頭立て、4頭立ての馬車だ‥‥と言ってたのが、これからは100馬力必要です‥‥と言って100頭立ての馬車にはしませんよネ。「動かす力」について概念から変えなければ、時代の変遷に取り残されます。

 

「4頭立ての馬車」の中で、「罪の重さのシーソーゲーム」「自分は悪くない合戦」を繰り返しているうちに、世界はどんどん変わっていって、馬車に乗り込んでいたメンバー全員が馬車の外に出てみたら、すっかり世界は変わっていた‥‥なんてことだって、普通に予想できます。「いまどき、馬車に乗ってるなんて、珍しいですね。さぞ馬の維持費などお金がかかるでしょう。ひょっとして凄いお金持ちの方々ですか?」とか言われて呆然するかも‥‥知れませんヨ。

 

狭い馬車の中で、「お前が悪い。自分は悪くない。」合戦を続けて、‥‥さて、その馬車はどこに向かうのでしょうか。

 

馬車から降りてアスファルトの地面に立った時、「やべェ。自分たちは長いこと、罵り合うことに時間を費やしてしまった。もっと違うことに時間を使うべきだった‥‥」と後悔しても時間は戻りません。

 

 

 

年長者、ベテランは、自分たちが獲得した技術だけに凝りかたまるのではなく、様々な技術の可能性や発展性を考慮し、技術に対して常に謙虚であり続けること。

 

若い人間は、教えてくれるのを待つだけでなく、自分からアクションを起こして、新しい方法論を日々模索し実践すること。

 

年長者が若い人間から聞かれた際は、自分の経験と技術の全てを動員して答えるべき。

 

若い人間は待ってばかりいないで物怖じせずに、年長者に積極的に質問しにいくべき。

 

年長者は答えることに対してめんどくさがらないこと。若い人間は聞くことに対してめんどくさがらないこと。

 

‥‥ただ、これだけで良いんだけどネ。

 

でも、双方が双方、何だか腰が重いし、面倒くさがり屋だよネ。

 

 

 

若い人間は、自分でトライして考え抜いて、どうしても解らないことを、年長者に聞けば良いのです。「検索エンジン」みたいに安易に他者を扱うような態度の人間に対して、誰だって誠意をもって応える気にはならないものです。当人の考え抜いて頑張りぬいた痕跡が読み取れるからこそ、教える側は自分の過去がフラッシュバックして、「ここで自分が教えなきゃ誰が教えるのか」というキモチになるのです。年長者を「知りたいことへのショートカット代わり」にしていると、年長者は当人の傲慢さを見抜くものです。

 

年長者は、若い人間を糞味噌一緒で捉えず、個人個々の要素と向き合うことです。味噌を糞として扱うような年長者は要りません。若い人間の描いた絵を見れば、何に注意深くて、何に浅はかかは、年長者なら見抜けるでしょう。自分が浅はかな若者だった時、年長の先輩は、自分の何を褒めてくれて、何に対してさらに観察せよと教えてくれたのか、自分が年長になった今、よくよく思い出して若い人に接するべきです。

 

人との出会いは、人生を変えていきます。

 

私は20代の頃にいくつもの制作会社に詰めましたが(フリーランスが会社に席を借りて作業することを「詰める」と呼びます)、内容は様々でした。単に作業が終わるまでの期間だったこともありますが、自分に深く影響を及ぼす濃厚な学びの期間だったこともあります。全く馴染めないこともありましたし、馴染みすぎるくらいに馴染んだこともあります。

 

社員で終身雇用で‥‥みたいな働き方だと、アニメーターの視界は社内に限定され見識を広められないようにも思いますが、一方で、全ての人にフリーランスの報酬形態が適しているとも思えません。

*社会の大人の多くは、色々な手続きを所属組織まかせ(給料天引き)にしているので大人ぶっていられるだけで、皆がフリーランスになったら申告漏れ・納付漏れの続出でしょうネ。

 

なので、留学生ならぬ留学スタッフのような仕組みってできないものかと、最近考えるようになりました。まあ、会社間の取り決めが必要なので簡単にはできそうもないですが、アニメ会社は自力で全てを作れるほど、社員数が大規模ではないですし、例え大規模であったとしても技術指向に偏りが生じやすいですから、技術提携的なしっかりとしたスキームで、会社間を超えた連携協力体制もアリかと思います。

 

昭和はゴールデンタイムの子供向けアニメ、平成はオリジナルビデオアニメーション(OVA)と深夜枠のアニメ。‥‥であるならば、新しい元号には、新しいアニメの形が現れるでしょうし、その片鱗はすでに見え始めていますよネ。

 

新しい未来の状況を前に、誰しも未知のフィールドに進むのなら、年長者だからとか、若い人間だからとか、「罪はオマエにあり、正しいのはオレ」とか、足元を突きあってツベコベ言ってる場合ではないです。

 

皆が知らない未来へと、皆が進むのですから。

 

 

 


集団思考

現在はWikipediaなどのインターネットの辞書・百科事典のようなコンテンツが豊富で、内容の信頼性の問題はつきまといますが、概要を即座に検索できる、恵まれた時代です。まあ、印刷媒体であっても必ず信憑性の高い情報とも限らないですから、複数の情報を総合的にジャッジする習慣があれば、今は便利さが際立つ時代とも言えます。‥‥そのインフラ充実のために、間接的に相応の対価を支払っていますしネ。

 

「集団思考」というコトバも、調べればその意味を色々と知ることができます。

 

集団思考とは、Wikipediaによれば、

 

集団で合議を行う場合に不合理あるいは危険な意思決定が容認されること、あるいはそれにつながる意思決定パターン

 

‥‥とのことです。会社などの組織に限らず、業界全体にもあてはまる事柄です。

 

アニメ業界は、実はとても団結力が強いです。国民的某アニメ会社が解散することになった時も、世間一般に対して情報公開される少なくとも半年以上前から業界では噂になっていましたが、業界外の人には全く漏れませんでしたよネ。ツイッターとか気軽な手段があるにも関わらず漏れませんでしたし、業界の人々の「口が固い」ことに改めて驚きました。

 

思うに、集団思考的な観点では、アニメ業界は2020年代の転換期において、「集団思考の罠」にハマりやすい状態と言えます。

 

  1. 団結力のある集団が、
  2. 構造的な組織上の欠陥を抱え、
  3. 刺激の多い状況に置かれる

 

まさに2020年代のアニメ業界。

 

Wikipediaではさらに、以下の「集団思考の兆候」を挙げています。これもアニメ業界にピッタリはまります。

 

自分たちの集団に対する過大評価

>集団固有の倫理に対する信仰

 

閉ざされた意識

>集団による自己弁護、集団外部に対する偏見

 

均一性への圧力

>意見が集団内の合意から外れていないかを自ら検閲する行為、全会一致の幻想

 

  1. 目標を充分に精査しない
  2. 採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない
  3. いったん否定された代替案は再検討しない
  4. 情報をよく探さない
  5. 手元にある情報の取捨選択に偏向がある
  6. 非常事態に対応する計画を策定できない

 

 

本来、様々な人間の、様々な思考が集まることによって、合理的な決断を見出せるはずが、集団思考の典型に陥って、結果的に大敗北・大崩壊を喫する‥‥なんてことは、70年前にもありましたよネ。「みんなで意見を出し合えば、きっと、みんなにとって良い方法が見つけ出せる」‥‥なんていう小学校の学級会ノリを、イイ歳した大人が討論番組のまとめで言っちゃうのが、日本の国民性の良いところでもあり悪いところでもあります。

 

 

 

知識の乏しい集団が、まるごと誤ったジャッジをして、丸まんま皆で誤った方向に進む‥‥なんてことだってありえましょう。

 

例えば、小学校のクラスで「この楽譜はおかしいです。フラット記号が2つもついています。シを2回半音下げるのなら、ラと書けば良いと思います。」と誰かが言い出して、担任の先生も音楽には詳しくないので、「たしかにおかしいね。シではなくラと最初から書こう。」なんて言い出して、ほぼ全会一致となった‥‥とします。

 

ピアノと学理を学んでいる、たった一人の子が「おかしくありません。音階における臨時記号としては正しい記譜法です。」と言っても、「実際に鳴っている音はラでしょ? だったら、最初からラと書くべきだ」と子供たちも担任も聞く耳をもたず、その場では「ダブルフラットは誤りだ」で決着しました。

 

後日、音楽の先生に聞いたところ、「ダブルフラットで正しいです。たしかに即物的に鳴っている音はラですが、作曲者の意図と音階上の理屈ではシのダブルフラットになります。」と言われて、一人を除く全員の子供たちはおろか、担任の先生まで間違っていたことが判明しました。

 

*例えばEフラットマイナースケールの上記の「シのダブルフラット」で言えば、実際に鳴っている音の問題ではなく、II7 > V7 > I という2段のドミナントモーションの過程での第4音(Vへの導音)と見るか、気だるく上がりきらない第5音と見るかで、作曲上の意図やスケール上の解釈が異なります。ラの音か?…ではなく、4のシャープか、5のフラットか…が重要なのですネ。

*初心の頃は、ダブルシャープもダブルフラットも、いわゆる異名同音・エンハーモニックの理屈がわからないものですが、和声進行やスケールを学ぶようになると自ずと理解できるようになります。

 

 

集団思考の危ういところはまだ先があって‥‥

 

「音楽の先生まで巻き込んで正当化を謀るとは、なんという恥知らずめ。皆だけでなく担任の先生にまで大恥をかかせやがって。」

 

‥‥と全くメチャクチャで合理もクソも見境いのない「感情論」へと推移し、皆と異なる意見を述べた子供一人が悪者に仕立て上げられます。

 

 

 

いやだね。うんざりするね。‥‥でも、ありがちだよねぇ〜〜〜。

 

分析や理屈よりも思い込みや感情を優先する、さらには、合理性よりも習慣性を優先する、外界と途絶し閉鎖された集団の「悪い部分」の見本みたいなもんです。

 

多数決や全会一致が有効なのは、あくまで、各個人独自の「色々な価値観や知識や経験」のバリエーションが集まった場合です。皆が似たような意識を持ち、経験も知識も共通した状態では、集団そのものに偏向が生じて、多数決は単に「総意の確認」にしかなりません。

 

何を選ぼうが他愛のない案件ならともかく、正否をジャッジする案件、または、未来の運命を決する案件において、「多数決」はあまりにも危ういです。多数決は万能ではなく「時と場所を選ぶ」のです。

 

 

 

まあ、だから、集団の全会一致はそもそも危うきと意識して、「採用しようとしている選択肢の危険性を検討」して、「いったん否定された代替案は再検討」して、「情報をよく探」して、大多数の意見が果たして合理的な選択足り得るかを自己批判する「戒め」が必要です。

 

そして、指導者も「全知全能を気取らないこと」が重要です。何でも知っているフリをしたら、引っ込みがつかなくなるでしょ。‥‥かっこ悪いのを取り繕おうとして、さらにかっこ悪い勘違いや見識不足を上塗りする必要はないです。年長者だからって、何でも知ってるフリをする必要はないです。

 

自分、そして自分たちは、「何を解っていないのか」をまず認識することが大切でしょうネ。

 

年長者の重要な役割は、「解ってないことを自覚できる謙虚さ」を若い人間に継承することでしょう。現場慣れすると、とかく何でも知ったような気分に陥りがちですが、それがとても浅はかで視野の狭い事だと意識できるようになれば、新しく押し寄せる状況にも柔軟に対応できましょう。

 

知ったかぶってると、未知の新しい物事を前に、素っ頓狂な醜態を演じ、さらには、自分らの未来を潰すきっかけともなります。

 

成功体験に酔いしれるままでは、未来は拓けません。従来のパターンでは通用しないことも多いです。

 

 

 

この世には「集団思考」というものがある‥‥と、自らを意識することができれば、集団思考の落とし穴へと呑気に落ちにいくようなことは、最低限防げる‥‥‥と、思いたいですが、一方で、あまりにも大きな集団は意識を浸透させる事自体が難しいのも事実ですよネ。

 

 

 

 


アレクサ。エコー。

現在時刻、タイマーやアラーム、天気、簡単な四則演算。ちょっとした情報を得るために、アマゾンのアレクサは、今や、生活にすっかり馴染んで、無いと不便に感じるほどになりました。

 

 

2の16乗は「6万5千‥‥なんだったっけか?」みたいな計算はアレクサに聞けばすぐに「答えは、65536です」と答えてくれます。16bitのRGBの色数を知りたい場合は、「65536の3乗は?」または「2の48乗は?」と聞けば、「281兆4749億7671万656です」と息継ぎ無しに答えてくれます。‥‥もう少しゆっくり答えさせたいんですけど。

 

最近、水槽の濾過器のスピンドルとインペラを交換したのですが、「結局、このパーツは、何回転したんだろう?」と回転数/秒x分x時間x日x年数をアレクサに聞きながら順を追って計算したら、15億回転。‥‥まあ、かなりゆるい試算なので、実際の回転数は定かではないですが、少なくとも億単位であることはわかり、日常生活に用いる製品の信頼性にしみじみ思いを馳せました。

 

職場にもEchoが設置してあり、さらに私は自分用にすぐ近くにEcho Dotを置いています。天気予報やタイマーは重宝しますし、打ち合わせなどのイベントをカレンダーに登録しておけば事前に読み上げてくれますし、リマインダーが「そろそろ終業です」と教えてくれます。

 

同じ部屋に複数のEchoを置く場合は、ウェイクワードをEchoごとに変えないと、同じクラスに同じ苗字の子がいる時みたいに同時に反応してしまいます。

 

Echoは、「Alexa(アレクサ)、Echo(エコー)、Amazon(アマゾン)、Computer( コンピュータ)」の4つがウェイクワードとして使えますが、「Amazon(アマゾン)、Computer( コンピュータ)」は一般的過ぎて使えません。

 

なので、実質「Alexa(アレクサ)、Echo(エコー)」の2択になります。

 

私の傍のEchoは「エコー」の呼びかけに反応するように設定していますが、これがまたそこそこ誤反応が多いのです。

 

おそらく、日本語の会話の中に「えこ」という一連の響きが存在するのでしょう。例えば、「OOへ、こんなXXで」と喋れば、「エコー」と呼びかけたことになるのでしょうかネ。

 

部屋での会話の途中で、いきなりEchoが喋り出して、時には延々と語り続けます。「こんな説明が見つかりました。OO O XX XX 、 、 、 、」と静止するまで御構い無しに喋り続けます。

 

 

 

アマゾンさん。

 

ウェイクワードをもう少し増やしてくれんかの。

 

部屋に1台あれば十分‥‥と思いがちですが、自分の仕事のペースに合わせて、30分や50分など小刻みにアラームを都度仕掛けたい場合は、部屋の共用のEchoだとダメなんすヨ。

 

なので、部屋に複数台あっても正常に動作するように、ウェイクワードの数を増やしてもらえると便利なんですがの。

 

 

 


民と自分

圧政に苦しむ民を束ねる新しきリーダー。民と共に勝利した後、リーダーは次第に民に疎まれるようになり、ついに民によって殺される。

 

まあ、ありがちな話です。民の性質を、歴史から学べば、特に珍しいことでもないです。

 

ワーグナーのオペラ「リエンツィ」も、そんな感じのストーリー‥‥でしたね。

 

アニメ業界は業界自体がブラックだとは言われます。そんな中、担ぎ上げられて、改善目標を達成した後には、むしろ民には鬱陶しい存在となって、身内であった民から背後から刺される‥‥なんてこともあり得ます。まあ、祭り上げられる当人も、おだてられて調子に乗っていい気にならないこと、ですよネ。

 

 

現在の状況は、年長の人間が作り出した‥‥なんていう人もいますけど、「別に、あなたの代から変えても良いんですよ。先輩たちのせいにして、自分は何もしないのでは、結局同じ穴のムジナ」なのです。民の思考というものは、実はこうしたロジックの延々とした繰り返しです。

 

「業界」なんて大風呂敷を広げて、もろとも全部解決しようなんて思うから、いつまでも達成できないんですヨ。漠然とし過ぎているもん。

 

 

「自分の力は小さい。何も変えられない。だから、先人が悪いんだ。こういう状況を作ったから。」

 

本当にそうですかね? 私はほんの数人で4Kをはじめとした新しい技術の取り組みを開始しましたが、徐々に状況を変えつつありますよ。当初は自費も自費、前例なんて何もなく、話せば「夢想家」扱いされて「できるわけない」と一笑されても、結局、今に繋がってます。4Kに限らず、結構色々なものが、最初は何の裏付けも後ろ盾もなく開始して、総合的に現在へと集束しています。

 

私はアニメ業界の「共依存の性質」は好きではありません。自分たちの小グループ規模でも少しずつ変えていけば良いのに、既存のシステムや習慣に依存するばかりで、何か新しい基軸を試すことなど「自分の仕事じゃないから」と全くしようとしない。‥‥たまに大勢で集まれば、集団同調性バイアス集団思考の相互確認に終始するだけ。

 

 

他人なんて変えられません。他の集団なんて舵取りできません。他人の船を遠隔操作なんてできません。

 

変えられるのは自分自身、そして自分たちの集団だけです。自分たちの船ならば、舵取りも行き先も航路も主導で選択できます。

 

なのに、いつまで、「誰かが変えてくれる」のを待つのでしょうかネ。自分と自分らの集団を、自分たち自身で変えた方がてっとり早いでしょ。

 

 

私も民のひとりです。

 

しかし、私は、私らの代で徐々に作り方を変えていきます。小さなグループからのスタートで十分です。

 

あなたはどうですか。

 

どうせ無理だと思いますか。

 

受精卵という、あまりにも小さな存在からスタートした自分なのに、自分の小さなチカラを信じられませんか?

 

現代のテクノロジーを、自分の母体だと思えば、これほど力強いものはない‥‥と思いますヨ。

 

 

 


雑感

アニメは、いろんな技法やポリシーはあれど、絵を描いて動かすものなので、絵が心底好きでないと、少なくとも実際に手で絵を描く従来の作画作業やCO/KFアニメーション技術の作業は長く務まりません。特に、既存の方法論や先例もなく、技術のひとつひとつを積み上げていかねばならないCO/KFアニメーション技術には、相当な強い根っこがないと、やりきれるものではないです。それを最近、改めて明確に認識しました。

 

目は口ほどにものを言う‥‥とはいいますが、絵描きにとって、道具は口ほどにものを言う‥‥とも言えます。

 

これはiPadやタブレットでも同じで、単純にチップ・ペン軸の消耗だけでも、どれだけ絵を描いているか、液晶保護フィルムのヘタりや板タブの擦り傷で、それまでどれだけの量を描いてきたかが、すぐにわかります。

 

量より質‥‥なんて言葉もありますが、技術習得には当てはまりません。質の良い練習法で量をこなしてこそ、上達が可能になります。量も質も、習得には必須です。

 

描いてて三日坊主で終わるのなら、絵を描いていながら絵をめんどくさがって誤魔化したりするのなら、その人は作画作業には向かないのです。

 

 

 

例えば‥‥。

 

とある男が、女性にモテない劣等感の代償行為で絵を描いてても長続きはしないように思います。モテない現実を、絵を描く行為に覆いかぶせるには、あまりにも技術が難し過ぎますもん。そういう人は数日で飽きては止め、またしばらくして思い出したように描いてみては止め‥‥なので、上達しません。女性にモテるようになれば、絵なんてどうでもよくなるタイプの人間です。

 

しかし、同じくモテなくても、自分の劣等感ではなく、女性の存在そのものが好きならば、絵をいくら描いても果てしないでしょう。なぜ可愛く感じるのか、美しいと思うのか、惹かれてしまうのか、そのナゾが知りたくて、どんどん絵を描いてしまい、いつしか上達します。研究熱心で量もこなすのですから当然ですよネ。

 

 

 

コンピュータはある意味、スカした存在です。「誰でもプロ並み」とかAdobeがその昔宣伝してた(今も?)ことからもわかるように、たいした努力をせずともツールさえ買い揃えればできるようになると、錯覚しがちです。売り文句としては耳障りが良いですが、真実ではないです。

 

私は最近、考えが変わって、新しいスタッフ探しには、まず何よりもとことん絵を描くのが好きで、それこそ愚直なまでに絵に打ち込む人材が必要だと思うようになりました。

 

根っこの強い衝動がないと、とてもではないですが、新しい技術を1つ1つ切り開いて積み上げていく前に、へこたれてしまうからです。便利なプラグインやコピペで誤魔化す方法など不要です。必要なのは誰かから聞いた小手先のTipsではなく、自分たちで作り出す技術構造論・方法論です。

 

世渡りの術なんて下手でも良いから、本人の見目なんて大した問題ではないから、とにかく絵を描くことに無我夢中な人が良い‥‥と思います。絵が描けないと、映像が作れないと、スタート地点にすら立てないです。

 

極論を言えば、ソフトとかハードとかは、どうにでもなるんですよ。後付けで使い方を覚えられますし(教えられますし)、時代によって機材なんてどんどん移り変わるんですから。

 

他者ではどうにもならないのは、本人の「絵を描きたい。描かずにいられない。映像を作りたいんだ。」という強い観念、ある種の飢餓感です。「絵を描きたい」という強い衝動が内に在って、本人を突き動かす状態でなければ、どんなに高い機材を揃えてもただのコレクションにしかなりません。

 

 

 

2020年代は新しいアニメーション技術、映像技術の黎明期になるように予感します。

 

先人のテンプレートに従って技術をクローンコピーすれば生きていけるようなヌルい時代は、お金的にも、環境的にも、技術的にも通用しなくなると思います。旧世代と新世代を区切る、淘汰の時代がやってくるでしょう。

 

Fortitude。

 

どうしてもアニメが作りたいと思う人間が、新しい世界を作っていくのです。

 

 

 


包囲網から

アニメ制作事情の未来は、できるだけ簡潔にまとめると、

 

人件費の高騰

制作環境維持費の増大

高画質化の波

 

‥‥の3方向から包囲された状態と言えます。

 

ですから、数兆円の市場だ何だと壮大なロマンを語るよりも以前に、現場的には、包囲網から脱出して活路を見出すことが求められるでしょう。

 

単純に考えて、

 

人が絵を描いたり塗ったりするための人件費が上がり

人が作業するためのソフトウェアがサブスクリプションに移行して維持費が上がり

人が絵を描いたり塗ったりする絵の細かさ(クオリティ要求)が上がり

 

‥‥となるのに、

 

作業する物量(例えば枚数や人足)は以前と同じかそれ以上

 

‥‥だったら、どうやったって、破綻します。いわゆる深夜のテレビ枠の予算で収まるわけもなく、たとえ制作費が2倍になってもテレビはキツいんじゃないでしょうか。電卓を弾いてみれば、誰でもわかることです。

 

上述の3要素に当てはめると、

 

作業報酬がアップしなければ、細かい絵柄なんてとてもじゃないが描けない

作業環境が更新されなければ、いくら作業費を貰えてもマシンの性能不足

絵のクオリティがアップしなければ、作業環境と報酬をアップしても見合う価値がない

 

‥‥という抜け出せない負のループに突入します。どれかだけを改善して‥‥なんて無理です。

 

じゃあ、どこにしわ寄せがいくか‥‥というと、そっくりそのまま、3要素に反映して

 

人件費を据え置きか

作業環境をアップデートせずに切り詰めるか

高画質化を諦めるか

 

‥‥となります。

 

このままの感じでいくと、3要素全て据え置き‥‥なんていう未来もありそうです。つまり、未来と決別して過去の世界のまま生きることを選ぶ‥‥ということです。

 

でもそれで、アニメ制作の将来は成り立つでしょうか。

 

 

 

簡単に答えや解決方法が導き出せる問いではないです。だから、

 

目を背けるのか

直視するのか

 

‥‥は、まさに当人の生き方そのもの、制作集団の意思決定そのものです。

 

 

 

今回は「前回」のように、尻馬に乗るのは困難かと思われます。動きが激しすぎて振り落とされます。日和っていたら、ごっそり淘汰された‥‥なんてことも起こり得ます。

 

だって、社会的な立場ゆえの人件費の問題や、サブスクリプションや、世界規模の映像品質アップデートが、同時多発で押し寄せるのですヨ。何度も書くけど、かなりキツいです。フィルム撮影台とセルがコンピュータへと移り変わった2005年前後の状況とは全く違います。同じだと思ってたら、認識・分析不足も甚だしい。

 

人間は、「自分だけは死なない」と思う生き物らしいです。

 

今回の「地盤シフト」で、いつもの正常性バイアスに委ねちゃうか否か‥‥は、もう、本人次第の危機管理能力としかいいようがなく、結果、生き残った人間で新しい世界を築いていくようにも予感します。

 

 


ちょっと呑み

最近、トリキとか日高屋とかで、1杯だけハイボールを飲むような夕飯のパターンが増えております。まあ、トリキは食事というよりは呑みですが、日高屋とかラーメン屋さんでも280円のレモンサワーとかハイボールがあるので、実は結構楽しめます。

 

トリキや日高屋の「レベル」に慣れた最近、久々にいわゆる「居酒屋チェーン店」に入ったら、その内容の古さに驚いてしまいました。値段がいちいち高くて、内容はスカスカなのです。こんなにしょぼかったっけか?‥‥と思うほど、トリキや日高屋のメニューと比べて見劣りします。

 

三鷹はモンテローザのお膝元。「魚民」「目利きの銀次」「魚萬」「山内農場」「魚銀」など系列の飲食店が集中しています。

 

お刺身を肴にチョイ呑みしたくて(刺身はトリキにも日高屋にもないので)、モンテローザ本社ビル内の「魚民」に入ったのですが、夜10時くらいでガラガラで「何でこんなに空いているんだろう。今日は世間的に何かあった日なのかな?」とやや不思議に思いました。「魚民」という割に、刺身のメニューはあまり充実していなくて、「居酒屋ってこんなもんだったかな‥‥」と感じつつも、とりあえず599円(税別)の刺身盛りと中ジョッキを頼みました。お通しはごぼうサラダでした。

 

出てきたのは、刺身数切れと、細めのジョッキにほぼ半分が泡のビール〜正味200ccくらい〜でした。直感的に、「これはヤバいやつだ」=大した満足感も得られずお金が飛んでいくケース‥‥と思い、30分も滞在せずにお会計したら、1500円。

 

まあ、昔の感覚なら1500円なんて居酒屋なら安い出費でしょうが、「大して美味しくもない薄い刺身数切れとグラスビールと見まごうばかりの細い中ジョッキ、表面が乾きかけたごぼうサラダ」で1500円は、ふと冷静に「ユーザエクスペリエンス」として考えると、如何ともレベルの低さを感じます。

 

ちなみに、トリキではメガハイボールとメガ金麦という最強のドリンクメニューがあり、そこに焼き鳥数種、釜飯で締めれば、女性なら1500〜2000円で腹一杯、大食いの私でもバカ呑みしなければ2500円で「食い過ぎた」と後悔するほどです。

 

日高屋においては、大の大人でも、1500円ちょいだせば、お腹いっぱい。レモンチューハイとウォッカソーダ割りで2杯呑んでも500円チョイ、餃子、そら豆、メンマをつまみで500円、ラーメンで締めて500円、地獄の大盛り無料券のループに入れば(会計時に券を必ずもらえるので)実質大盛りは追加料金なし、もし2人なら取り皿で分ければラーメン1つで2人分イケます。日高屋はファミレスのような深夜料金は無いし、表示価格は税込なので、夜の飲み食いはずいぶんと割安のように感じます。

 

それらに比べて、平成定番の居酒屋チェーン店のメニューは、現代のお金の価値や感覚とズレてきているように思いました。

 

思うに、平成の定番居酒屋は、「居酒屋の雰囲気で、店が客を呑む」ような方法だったのでしょうが、いくら店舗室内の雰囲気を居酒屋っぽく演出しても、スーパーで普通に買えるような刺身数切れに税込600円以上も要求するようなスタイルは、もう通用しないように感じます。少なくとも、私は「もう行かないようにしよう」と思いました。

 

実は、その魚民での飲食を早々に切り上げた後に、目利きの銀次で「げんなおし」しようと思って入ったものの、モンテローザ系列だったことに後で気づき、案の定、似たようなメニューでした。平成初期〜中期に台頭した定番居酒屋チェーン店の限界‥‥をメニューから感じた次第です。

 

モンテローザどうこうではなく、平成の居酒屋チェーン流「居酒屋雰囲気料金」みたいな営業スタイルが、もはや「中身を重視する」現在とはズレはじめているのでしょう。私に限らず、他の人々も、中身は気にしますよ、最近は。

 

「ズレ」がなぜ生じるか。

 

外見だけでなく食事の中身も充実させようとする新機軸の居酒屋と、安価に呑みもできる飲食店が出現して、居酒屋チェーンの「平成の方法論」が相対的にズレて古くなっているからだ‥‥と思います。立ち止まっているから置いていかれるのでしょう。

 

1年古い記事ですが「居酒屋」倒産、まだまだ増える理由」とか、「居酒屋 景気」で検索すると「消費行動の根本的変化」などのフレーズも垣間見えます。

 

どんな業界でも、過去の成功体験、そして集団同調性バイアスが作用して、ズレや変化に対して「主流派」ほど認識が不足したり遅れるんだろうな‥‥と思います。

 

ふと「アニメ業界でも、同じことが起こるだろうな」と頭を過ぎりつつ、飯食って気力を回復して、新しい取り組みをどんどん進めようと気合もみなぎるのでした。

 

傷を舐め合う酒ではなく、未来を語り合う酒を飲みましょう。

 

 

 

 



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