つまらない?

前回取り上げた記事で、

 

「毎日がつまらない」中年男性の72%が回答

 

‥‥というのがありましたが、‥‥‥う〜ん‥‥、少なくとも私や私ら技術集団に、それはないなあ‥‥というのが本音です。

 

映像制作は、世界の技術進化とともに変化していくので、

 

本文抜粋〜

「彼らは、将来の“先が見えない”不安より、すでに結果が出ていてこれ以上の展望が望めない“先が見えてしまった”喪失感のほうが強い。男性は子供の頃から大きな夢を持てと言われて育つため、無限の可能性があった過去を美化してしまい、さまざまなものを“失った”と感じているのでしょう」

 

‥‥なんてことはないです。映像作品制作で「これ以上の展望が望めない」なんて考える人は、それすなわち、単なる本人の限界なだけです。

 

やること、盛り込めること、可能性なんて、そこらじゅうに転がっています。ハードウェアにもソフトウェアにも、自分のココロの中にも‥‥です。むやみに自己啓発的な精神論などに走らずとも、プラグマティックに淡々と冷めてアクションするだけで、こと映像制作に関して言えば、現代は可能性だらけの世界です。

 

ただ、アニメ業界には「アニメはこうして作るものだ」と頭がカタい人が意外にも多いので、ともすれば、「すでに結果が出ていてこれ以上の展望が望めない」と感じる人も相応に多いかも知れません。

 

 

「これこそアニメの作り方」なんて、どこのだれがいつ、不文律にしたのよ。

 

アニメの作り方は、これから先も、山ほど可能性があるよ。それこそ、ゴロゴロと目の前に転がってます。

 

アニメ制作の限界‥‥なんて、自分らが勝手に限界を設定しているだけじゃん。

 

「展望が望めない」なんていう人は、自分で勝手に目を閉じて視界を封じているだけです。そりゃあ、目を閉じれば、展望など望めないでしょうヨ。目を見開けば、うわぁ‥‥‥と「食べる前から胃もたれ」するほど、可能性だらけです。

 

 

私が喪失感的なものを感じるとすれば、「やれることは200年分くらいはあるのに、人間の働ける年齢はどうやったって70〜80歳までが限界」ということです。現在の喪失感というよりは、未来の自分の喪失感が悲しい。

 

実際、この歳になって新大陸を発見してしまって、さて、どうやって開拓するか‥‥と、果てしない気分になっています。ゆえに、若い人間たちとどのように開拓するか、計画をあれこれと思い浮かべています。

 

本文抜粋〜

「若い頃は、能力は低くても挑戦している実感があるが、中年になると能力が上がるぶん挑戦している手応えはなくなり、退屈さが勝るようになります」

 

これもない。

 

中年になっても、挑戦しなければならない、新しい技術ハードルの連続です。

 

映像制作をマンネリ化させているのは、自分自身のマンネリ、組織自体のマンネリに他ならないです。40〜50代で手応えがなくなる‥‥なんて、どんだけチョロい技術なんだよ‥‥と思います。

 

たしかに、この世のあらゆる全ての仕事が延々と可能性が続くわけではないでしょうが、映像制作はその技術的特性・社会的背景によって、未知の可能性がどんどん目の前に積まれていきます。

 

アニメ作品制作だって、どんなに個人や集団の能力が上がろうが、新たな技術ハードルが目の前に出現するのですから、退屈している暇などないのです。

 

 

やりことはいっぱいあります。あり過ぎます。

 

毎日がつまらない‥‥なんて、‥‥‥ないよなあ‥‥。

 

 

 


狼狽えずに

業界貧困と同じくらい、目に入ってくるのは、「独身中年男」の記事ですネ。下記は日刊SPA!の記事です。

 

■「毎日がつまらない」中年男性の72%が回答

https://nikkan-spa.jp/1103724

 

■心が病みやすいアラフォーの特徴――「強迫性タイプ、自己愛性タイプ、回避性タイプ」とは?

https://nikkan-spa.jp/1002054

 

■年収700万円なのに…お見合い18連敗中、40代公認会計士の虚しい努力

https://nikkan-spa.jp/1467284

 

■年収1800万円でも負け組…50代独身の孤独はカネで解決できなかった

https://nikkan-spa.jp/1450304

 

 

何ともよりどりみどりな不幸話。何が幸せで、何が不幸せなんて、結局は個人の性質に帰結するのでしょうが、ネットにはこういう類いの記事が溢れかえっておりますネ。団塊ジュニアの世代が、それだけ、人口的にも突出しているのでしょうネ。

 

加えて、孤独死、突然死、セルフネグレクトの記事も、内容の重さに拍車をかけます。‥‥怖いよね、孤独死。

 

でもまあ、色々と考えて、色々と経験してきて、子供の頃から熱望していたアニメ作品制作を今でも続けている経緯から思えば、「自分がいつか死ぬことへの恐怖や寂しさは、何をもってしても拭い難い」ということでしょうかネ。

 

自分のやりたいことを実践していようが、死が怖いし寂しいことに、変わり無しです。

 

どんなに人を愛そうが、人から愛されようが、お金をいっぱい貯めようが、経験や技術を蓄積しようが、それらを死後まで随伴することはできんもんネ。

 

何かを愛すれば愛するほど、その愛の対象が死するのは想像を絶するほど悲しいでしょう。かと言って、自分が先に死ねば、後に残していく愛の対象へのなごりは、そこはかとないものとなりましょう。

 

例えば、相思相愛のカップルが一緒に年老いて、「せーの、ハイ!」で同時に死ぬ状況なんて、自殺でもしない限りありえないでしょ。必ず、どちらかが先に死んで、どちらかが独りになります。

 

どんなに心から誰かを愛し、幸福感に満ち溢れようと、自分がやがて必ず死ぬことへの絶望感は掻き消せません。むしろ、幸福感に満ちている時こそ、死との猛烈なギャップに恐怖するようにも思います。幸せであればあるほど、死なんて到底受け入れられないでしょう。

 

 

 

私は、20代のアニメーターの時に、同室の仕事仲間(先輩)の突然死と、私自身のセルフネグレクトを経験し、30代、40代にも、ホントに色々な事を経験してきて、今、特に自分自身に対して思うのは、

 

狼狽えんなよ

 

‥‥ということにつきます。ジタバタしたら、ジタバタしただけ、珍妙な消耗をするだけです。

 

20代の頃は、そりゃあもう、風呂敷を広げまくって、ジタバタ足掻いて格闘すれば良いでしょう。

 

しかし、アラウンド40以降は、今までの経験と知識を足場にアクションすべきで、ジタバタ狼狽える年齢ではないと思います。覚悟を決めて動くべき‥‥と思います。

 

 

 

年収1800万円でも負け組」とか、「年収700万円なのに…お見合い18連敗中」とかの記事に共通の「結婚する相手は若い20代がいい」との内容は、「本人のココロがそんなんだから、結局は‥‥」と思えてしまいます。

 

ココロだけでなく、冷静な足し算で考えても、50代の男が結婚して子供を作って、その子供が成人する頃には70代です。簡単に算出できますよネ。まあ、作家画家の中には「はじかきっこ」だった人も作った人もいますが、現実的には難しい話です。記事本文中にもありますが、子供の運動会で60代のパパが30代のパパに混ざって応援‥‥って、親も子も色々と居た堪れないと思うからです。

 

それにさ‥‥、よくまあ、自分の歳を棚にあげて、パートナーに一方的に若さを求められるよね‥‥。その神経が、不思議です。

 

一緒の年代に生まれて、一緒に時代を過ごしてきたパートナーでいいじゃん。自分は歳を存分に喰ってるのに、パートナーの加齢は認めない‥‥なんていう人間は、その邪な心根が見抜かれるんだと思うけどな‥‥。

 

一緒に歳を喰えばいいじゃん。

 

 

男性が歳食ってみて初めて焦って、自分の遺伝子を残す子供が欲しいから‥‥という理由も、女性個人の人格を風下に置いた考え‥‥とも言えますしネ。

 

狼狽えんなよ。

 

‥‥としか思えんです。覚悟を決めろよ‥‥と。

 

残念ながら人間の致死率は100%。有史から鑑みるに、恐らく、文明の破滅・消滅率も100%なのでしょう。もっと言えば、星の崩壊・破壊も100%なのでしょうから、私らは皆全員、星屑となる運命‥‥なのだと思います。「コスモス」の「私たちは星屑から生まれた」という一節は、「やがて星屑に戻る」ということも含めて、圧倒される言葉です。

 

まあ、地球の崩壊は果てしない話だとは思いますが、自分の死の瞬間に思い浮かべるのは、果たして、「自分が愛した何か」なのか、「打算の集計結果」なのか、どちらなのでしょうネ。

 

 

 

死に至る道筋はしかと受け止める‥‥にしても、私が徒然に考えるのは、「居室での腐敗死」をどうやって防ぐか‥‥です。

 

孤独死は十分に想定するとして、では、最悪の腐敗死はどうやれば防げるかは、たまに考えます。

 

「終活」は各個人ぬかりなく進めておくとしても、死の瞬間までは自分では決められないでしょう。ゆえに、今考えているのは、「どうやって自分の死を外部に知らせて、然るべき措置・処理をとるか」です。

 

「だから、結婚してパートナーを」と安易に考える人はそこそこ居るとは思いますが、どんなに幸せな家庭を築いて家族に恵まれたって、自分ひとりで老後を生活する状況なんていくらでも考えられます。子供は独立して離れた土地で暮らし、伴侶には先立たれ‥‥となれば、孤独死&腐敗死の確率は高まります。

 

ましてや、私のような状況の人間は、最晩年の孤独死&腐敗死をデフォルトとして考えておくべきでしょう。

 

であるならば、腐敗した肉汁が床を汚さず、腐敗臭が壁に浸透するのを待つまでもなく、どうやって葬ってもらうかを考えるのが合理的です。

 

私は、同業の「退役軍人」仲間で、「1日1回行動」をネットワークで自動でログするソリューションが良いのでは‥‥と思っています。2日行動がないのはイエロー、3日だとレッドで緊急対応‥‥のような仕組みを仲間うちで作るのです。まあ、まだフワっと考えている段階ですが、PCやスマホ(未来にどんな形態になっているんでしょうネ)のネットワークとソフトウェアで、そんなに難しくなく作れると思います。イエローやレッド通知がなければ、皆、それなりによろしくやってるんだな‥‥と。

 

 

 

だから‥‥です。

 

人のネットワークは、重要となります。

 

現在アラウンド40・50の人間だけの問題ではないです。現在20代の人間でも、たった30年後には50代なのですから。

 

結婚しようが独身だろうが、子持ちだろうが子無しだろうが、各人の生き方をまるっと内包するエコシステムは、実は「アニメ」なんていう趣味趣向の産業にこそ、未来に必要になると思います。

 

物事は皆、繋がっていますネ。

 

 

 


私たちの未来

2020年代以降のアニメ制作事情。色々と瑣末な要素はあれど、最終的には、未来の映像技術世界に乗り込むことができる制作集団と、脱落して消えていく制作集団とで、残酷なまでに二分されていく‥‥と思っています。

 

直近の新しいフォーマットである4Kは、どんな会社が制作するにしても、困難の連続でしょう。ゆえに、4K以前の2Kの現時点で色々な問題に対応できず、ごまかしにごまかしを上塗りしたような方法で乗り切っている集団は、やがて力尽き万策尽きて、脱落するのは必至です。

 

例えば、前にも書きましたが、30fpsに対応するのに1234456788かプルダウンかフレーム合成の3択しか思いつかない時点で基礎技術力は非常に低いと言わざる得ませんし、1.5K8fpsSDRこそアニメだと信じて疑わないような人々はどうやっても未来のフォーマットには追随できません。

 

周囲がどんなに環境を準備しても、本人たちの意思が旧態依然も甚だしいのなら、豪華で大きな器にインスタントラーメンを盛り付けるがごとくです。豪華絢爛な食器でも、中に盛られているのがインスタントラーメンなのは誰でも気づきます。消費者をバカにしてはいけません。

 

業界のアニメの作り方は、映像を真に作りたい本人たちの意思とは別に、あまりにも定型単一なインスタントの道を疾走し過ぎました。新しい映像制作の可能性を脇目で見ることすらできなくなっています。

 

4K60pHDRは、プラシーボ効果でなんとかなる問題ではありません。まあ、60pは時期尚早だとしても、4Kはガチで3840・4096ピクセルですし、HDRには相応の高価なモニタと色彩を自由に操作できる技能者が必要です。思い込みや根性だけで作れるほど、4K時代は甘くないです。

 

つまり、制作母体の体力はどうしても問われましょう。

 

みんなで仲良く、指を咥えて待っていれば、何処かの誰かがケアしてくれて、新しい映像技術の世界へ連れて行ってくれる‥‥なんて都合の良すぎる未来はありません。

 

援助でどうにかなるのは、金銭的な部分だけです。援助してもどうにもならないのは、当人たちの技術力です。制作費を多めに増やしたら、みんなが超一流で先進的な技術者になれるのだったら、そんな楽なことはないですもんネ。

 

4Kフォーマットは形ばかりで、相変わらずの1.5Kのアニメを作ってアップコンで誤魔化していたら、失望されて次は無いです。

 

未来を生きていくには、本人たちも相応に変わる必要があります。

 

変わろう、新しい技術を身につけよう、新しい品質基準を築いていこう‥‥と本気で思うか否かが、当人〜制作集団〜制作会社の軸線の全てに通じているのです。

 

 

近い未来において、様々な明暗が各所で別れていくでしょう。

 

誰しも、暗い方向には進みたくないですよネ。

 

だったら、明るい方向に進むべく、自らアクションするのは当然のこと。ですネ。

 

 


アナログとデジタル

銀塩写真のWikipediaを読んでたら、私が日頃言い表したかった「アナログの誤解」について、「アナログ写真」の項として書かれており、何だかスッキリしました。

 

以下、抜粋。

 

 

アナログ写真

 

「デジタル写真」に対するレトロニムであるが、「アナログ」という語の意味をあまり考えずに「デジタル」の部分をすげ替えただけの語である。

 

「すべて電子的過程である」ということを、電子的であればディジタルである、と信じ込むのは、しばしばありがちな誤解である(あるいは、何も考えていないだけである)。

 

 

「アナログ」のWikipediaにも、「俗用・誤用」の項がありますネ。その中に、「デジタル作画」「アナログ作画」も含まれています。

 

アナログって、「コンピュータで処理しないもの」の総称じゃないですしネ。

 

コンピュータ機材やネットワーク社会に対する反義語は決してアナログじゃないですしネ。

 

アナログっていう言葉を安易に使う人って、「その部分」に関してはあまり深くものを考えない人なんだな‥‥という印象があります。まあ、聞き流せば良いだけですけどネ。

 

 

面白いのは、次の一節です。

 

 

なお一方で、フィルムカメラでも、映画カメラによる映画の撮影は、時間軸方向には不連続であり(連続的に撮影する特殊なカメラも考案され実験されてはいるが、実用的には使われていない)ディジタル的だと言えなくもない。

 

 

たしかにそうですね。

 

映像を断続的なフレームで記録したり表現する時点で、デジタルと言えますネ。実物・現実世界での人体の動きは、決してフレームで分割した動きにはなってないもんな。

 

業界の24コマタイムシートのアニメは、映像を24Hzで段階的に非連続に表現するデジタルタイミングプロセスだ。‥‥と言えます。実際、4コマ目の次は5コマ目で、4.267コマ目とか4.988コマ目とかは存在せず、決して無段階に連続している(=アナログ)わけではないですもんネ。

*ただ、「連続」という言葉も中々曖昧で、使っていてムズがゆいキモチはあります。「連なって続けば」連続だもんなぁ。言葉ってスミをつつけばいくらでもホコリがでるもの‥‥ですネ。

 

 

まあ、アナログ・デジタルなんて言葉に自分の信念や威信など覆い被せず、紙とかiPadとか、実際に扱うツールでサクッとドライに住み分けをすれば良いだけだと思ってます。

 

時代やニーズに合わせて、両方使えば良いんじゃん? ‥‥という事に尽きますよね、結局は。

 

 

 


なのでネオパン

生産中止間近。‥‥ということで買いました。

 

記念に。

 

 

「ACROS 100」は初めて買う銘柄なので、使ってみたい気もしますが、現像に出すとパトローネが戻ってこないので、これはこのまま未開封で飾っておきます。フジの最後のモノクロフィルムとして。

 

私としては、馴染み深いネオパンFあたりを飾っておきたいところですが、まあ、それはいいや。コレクターというよりは、自分の思い出なので、ネオパンFやミニコピーは心の中にあれば良いです。

 

 


黒白フィルム終了

前回、自身の色々な終了の話を書いた矢先、ニュースでフジフィルムが白黒フィルムの生産を終了する話を知りました。

 

白黒フィルム 販売終了へ 富士フイルム〜NHKニュース

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180407/k10011393911000.html

 

そうか。モノクロフィルムも終了か。

 

私は20代頃のアニメーター時代に、取り憑かれたかのようにフィルムカメラで写真を撮りまくっていました。年間何千枚撮ったかわからないほどです。

 

ネガカラーがメインでしたが、モノクロも、リバーサルも使っていました。モノクロは低感度の品番が好きで、ミニコピーフィルム(HR II)やネオパンFはかならずストックしていました。今も未使用ストック品がどこかに眠っているかも知れません(もう使えないと思うけど)。

 

作画なのになぜカメラを?‥‥と思われるかも知れませんが、20代の若造の当時から、マンガやアニメの惰性で描く予定調和の構図や画面作りに限界を感じていて、他人はともかく、自分はもっと色々な画面のアイデアを想起するべきだ!‥‥と思っていたのです。まあ、当時は今以上に思い込みの激しい性分でしたからネ。

 

線画だけで絵を描き終えた気分になりやすいアニメーターですが、実際は明暗や色がついてこそ画面足り得ます。私はその「線画だけ」の意識から抜け出る、実際に手応えを得る手段として、一眼レフフィルムカメラを毎日携行して、情景の写真〜アニメ工程でいう「レイアウト」〜を撮りまくっていました。

 

その費用は、月5万円。‥‥金のかかる時代でしたな。今の物価にすると、月8万円くらいにはなりましょうか。

 

今だとフィルムの制限枚数のない「デジカメ」時代なので、1日に千枚撮るなど大したことではありませんが、24か36枚撮りのフィルムはそうはいきません。私の場合、どこか小旅行に出かけた場合(=今日はいっぱい撮るぞー!‥‥と意気込んだ場合)、36枚撮りで1日に20本以上は撮っていましたが、36枚撮り1本200〜600円、リバーサルフィルムだとさらに高価なこともあり、フィルム代だけで相当な額を出費していたと‥‥思います。バラ買いなので金額は思い出せませんけどネ。当然、現像代も相当な額となり、現像代だけで月平均3〜4万円を出費していました。

 

「1シャッターの重さが、フィルム時代は重かった」わけです。

 

そんな私がコンピュータをメインに使うようになり、1996〜2000年頃にこだわっていたのは、フィルムグレインの雰囲気というか「叙情の継承」でした。粒状性の再現、すなわち、グレインのRGBや輝度の拡散、グレインのフォルムやシャープネスなど、色々と研究して取り入れていました。‥‥まあ、今だと過渡期の思想そのもの‥‥なんですがネ。

 

今では、フィルムの影響から離れ、考えを新たにして、映像作りに取り組んでいますが、思えば、そうしたフィルムへのこだわりを通過したことで、新しい映像品質や素地を強く意識できるようになりました。

 

「フィルム時代は良かった」なんて軽く口にする人は多いですが、実際はどれだけフィルムそのものに関わっていたのか、フィルム撮影スタッフだった経緯でもない限り、ただの「懐かしい雰囲気」のようなもの‥‥だと思います。「フィルム時代」というよりは「昔」は良かった‥‥と言いたいのでしょう。

 

とことんフィルムと付き合って、フィルムの良さも欠点もわかれば、甘っちょろいノスタルジーになんかには浸りません。フィルム作品のソフト化に立ち会うこともあれば、フィルムスキャンデータを細かく見ることもありますし、自分でもアホほどライカ判で写真を撮っていた経験からすれば、フィルムには良い部分と悪い部分があって、悪い部分が時代についていけない原因となった‥‥と、素直に思えます。

 

 

ゆえに、白黒フィルムの生産中止は、ものすごく感傷的に、心に響きます。

 

愛して止まないフィルムですが、愛するものが時代と共に歩み続けられるか?‥‥は別の話ですもんネ。

 

今は亡きじいちゃん・ばあちゃんの田舎の家が、今や誰も住む人がいなくなって朽ちて、やがて売りに出されて、もう二度とあの家には戻れない‥‥という気分、「だからってどうしようもないじゃないか」と自問自答しながら感傷に浸る気分‥‥でしょうか。

 

私の初代機のEOS100QD、そしてEOS1と共に、フィルム時代は遠くなるばかり‥‥です。

 

 

 

ちなみに、昔はヨドバシやビックカメラの地下で200円台で売っていたモノクロフィルムですが、今は生産数の少なさゆえか、結構いい値段がしますネ。

 

そりゃあ、一体何百枚撮れるのか容量が膨大な32GBのSDカードが1400円で買える時代に、モノクロ36枚撮り3本組が1600円以上すれば、みんな、デジカメに乗り換えるよね。

 

 

 

 

 


現場

現状の限界を突破する時、最後は自分だけが頼りなのは言うまでもないことです。そこは誰にも甘えられません。

 

しかし、限界を突破して自分のポテンシャルを拡張する経過において、経験者や年長者がアドバイスや助言によって果たす役割も重要なファクタとなりましょう。ひとりでどんなに悩みぬいても、思考の死角は必ず存在しますからネ。

 

現在のアニメ制作工程の各現場に、そうした技術や経験の交流や継承の機会って、どれだけあるでしょうか。

 

ただ単に、個人単位で、黙々と作業をこなしてたって、決め型の作業工程の手際がよくなるだけで、映像表現力が高まるわけではないです。

 

だからって、交流会を開催したところで、単なる酒の肴どまりで、技術や思想に感じ入って体の中にじんわりと浸透することはないです。技術や思考の手ほどきは、日々徒然に何十・何百時間もかかるものです。

 

 

私は20代の頃に、作業現場で同僚や年長者の方々から、毎日、本当に色々なことを学びました。方々の中には、既に他界した人もいますが、私の中で技術や思想として生き続けています。

 

そういう繋がりって、今の現場にどれだけあるんでしょうね。

 

 

まあ、他の現場は、どのような気風であれ構いません。

 

自分らの現場を、技術や思考、経験の継承や交流の場にすれば良いのです。

 

当座の作業進行の即物的で近視眼的な視野だけでなく、先人から伝わったこと、自分が今までに得たこと、色々を伝えつつ、年少者の考えも興味深く受け入れる‥‥という知的コミューンは、未来に何かを生み出そうとする現場に形成されて然るべしです。

 

 

現場は仕事を消化する場所であると同時に、アイデアの発生エリアでもあります。

 

ゆえに、現場は大切に育てるべき‥‥だと思っています。

 

 

 


実情と開発と

こんな記事を見ました。

 

□若手アニメーター、月給10万円未満が50%超 「死に体で支えている」苛酷な生活実態とは(調査結果)

https://www.huffingtonpost.jp/2017/02/25/animator-working-environment-02_n_15011282.html

 

私が10代の頃〜30年以上前から変わっていない実情です。

 

なぜ、変わらないんでしょうか。‥‥誰かが状況を変えるのを怠っているから? その「誰か」とは誰?

 

マンガやアニメみたく、わかりやすい「悪の権化」「ラスボス」がいれば良いのですが、まあ、そんな簡単な構造じゃないのは、ちょっと内部に詳しくなれば誰でもわかることです。

 

私個人の見解‥‥ですが、変えられない根本的な構造理由があるから‥‥だと思っています。

 

 

 

細かい絵柄を1枚1枚動かして、数千枚。‥‥どう考えたってお金はかかりますよネ。

 

絵を1枚1枚描いて塗って、5千枚、1万枚‥‥だなんて、莫大な労力とお金がかかって当然です。でも、莫大なお金をそう易々と調達できるわけがないです。


思うに、まともな作画単価を設定すると、1話22分で6〜8千万くらいの制作費は必要だと思いますが、そのお金をかけただけ、全ての作品が売れまくるのでしょうか。

 

作るのに8千万円x12話=9億6千万円かかったテレビ作品が、1億円分しか売れなかったら、8億6千万円の損失です。

 

ゆえに、1話の「相場」は多少の大小はあれ、決まってきます。

 

 

 

1話につき何千枚も作画して塗って、膨大な人手が必要で、一方では制作費には限りがある。

 

私は30年以上、アニメ業界に関わっていますが、その難問を解決する答えは全く見出せません。計算式がそもそも30年以上前から破綻していると思うからです。

 

線のメチャクチャ多い巨大ロボットが2体、これまた線の多い巨大バイクにタンデムしてるような絵を、1枚120円で描かされりゃ、いくら無知な若者でも「こりゃ破綻してるわ」と思いますよ。それが30年以上前の物価の安かった社会での出来事でも。

 

 

 

すなわち、計算式を根本から考え直す必要があるのです。

 

ポアンカレ予想のペレルマンじゃないですが、皆が皆、トポロジーを使って難題を解こうとしている中、微分幾何学で解くアプローチが必要なのでしょう。

 

皆、40年前以上に確立されたアニメの作り方に思考や行動を縛られすぎていませんか。旧来のアニメ制作技術には無批判・棚上げで、制作費や単価のことばかり突いても「埒が明かない」です。

 

原動仕のシステムは自然の摂理じゃないんです。やりかたを変えても天罰などくだりません。

 

自分たちの足元がぬかるんで、底なしの泥沼だということを、昔からそうだったなんて言わずに、しっかりと見つめる時期だと思います。

 

 

 

「じゃあ、お前はどうなんだ」と言われるかも知れません。‥‥なので、もう10年以上前から仲間と共に「別の計算式」に取り組んでいます。他者からは荒唐無稽にしか見えない開発でしたから、当然、自費、自腹です。

 

しかし、ようやく、4KHDRの時代の流れに合わせて、取り組みを本格化できる段階に漕ぎ着けた‥‥と思います。

 

4K60pHDRは旧来のアニメ現場にとっては「泣きっ面に蜂」かも知れませんが、私らにとっては「この上ない福音」です。やっと、技術と時代とのランデブーポイントに辿り着ける‥‥と意気も揚々です。

 

 

アニメ現場を改善したい? ‥‥であるのなら、次の時代をしっかりと見据えて、然るべき技術開発に取り組むべきです。

 

いつまでも、先人の築いた遺産にすがるのではなく。

 

改善、改革、創造、開発‥‥なんて、どれも結局は「やったもの勝ち」なんですから。

 

 

 


思考の限界、変える限界

予定調和、今までの感じ、‥‥という誘惑は、特に仕事の本数が多くて心身ともに疲労している時に、悪魔のように耳元で囁いてきます。

 

しかし、予定調和路線、今までの感じで片付けちゃった先には、良いことだけでなく、悪いことも踏襲し続ける未来が待っています。

 

何かを変えるには、想像よりも遥かに大変な労力を必要とします。簡単には、物事は変わらないのです。ゆえに、当座の辛さにメゲることなく、大局を見極めて行動していくことが必要になりましょう‥‥と、自分を励ましておきます。

 

 

 

何かを大きく変えようと思うのなら、予測しきれない大変な労力を必要としましょう。土台から変えるには、土台の上にのっかってきた様々な古いものを全部どかして、さらに土台を掘り返して地ならしをする必要があるのですから、考えるだに大変です。だから、多くの人は、そんなことには着手しません。

 

ゆえに、マイナーチェンジに終始します。

 

でも、アニメの現場に必要なのは、根本的な問題解決と未来発展技術ですよネ。

 

使用するソフトウェアを変えようが、描いている絵柄が旧態依然とした内容ならば、未来の映像技術世界においては見劣りも甚だしいです。ソフトウェアで効率化を実践しても、その効率化が支えるアニメーション作品が古い感覚で制作されるならば、やがて時代の流れに遅れをとるでしょう。

 

 

 

やっぱり、物事を変える源は、人間の脳、思考そのものなんだよな。

 

だから、物事を変える「変え方」も「規模」も「内容」も、当人の脳内の思考に大きく依存するのです。コンピュータにインストールするソフトウェアを変えれば状況が変わる!‥‥と思う人間は、そうした脳・思考しか持ち合わせていない‥‥ということなのでしょう。

 

当人の思考の限界は、物事を変える限界と、強く深く結びついています。

 

 

 

思うに、物事の大変化って、小さなワンルーム規模で始まることが多いです。それは当人たちの思考が源になって、広がっていくからです。

 

フリーランスアニメーターの作画机エリアの一角、喫煙スペース、独立した特殊な部署、なんとなく浮いてしまったスタッフが身を寄せ合う狭い作業場。

 

‥‥そんな場所の、ちょっとした雑談から、新しい発想は生まれることが多いのです。

 

決して「大工場」の「大部屋」ではないです。

 

予定調和とは、逆に言えば、調和を乱さない従来規範の人間たちの思考の集合体であり、当然ながら「調和を乱す」言動や人間は、調和の中には存在できません。ゆえに、大工場の大部屋の予定調和の中から、「革新的な何か」なんて生まれ出るはずもないのです。

 

みんなで意見を出し合う大会議や、大きな組織単位で行動する規模で、物事を大きく変える新しい発想は生まれでないです。少なくとも、私が見てきた事例は、打算にまみれて鋭さも切れもない凡庸な結果となったものばかりです。皆がふところに「予定調和、今までの感じ」を忍ばせて参加するから、当然といえば当然です。

 

 

「予定調和、今までの感じ」などバッサリ切り捨て、新しい思考ができる人間など、大所帯では無理です。

 

なので、真に新しいことを始めるのなら、少人数が必定。

 

ゆえに、少人数それぞれにのしかかる「物事を変える労力」の負担は、かなり大きなものとなりますが、‥‥その負担は言わば、物事を変えることができる「プログラムコード」でもあるのです。

 

プログラムのコードがたとえ小規模でも完成しなければ、プログラムを実行することは‥‥ままならないですもんネ。

 

 


めめんともり

10代、20代の、若い頃の私は、自分が死ぬことなんて全く考えもしませんでした。これはすなわち、親が私を健康で丈夫に産んで育ててくれた賜物ですが、そうした「死ぬことなんてありえない」初期状態の恩恵を、寸分も意識することができなかったのは、まさに近視眼的思考そのものだったと思います。

 

一方、小さい頃に大病を患った人は、幼い頃から「死」の影を感じて生きて、たとえ現在は健康体であっても、何かの拍子に幼き日の死の影が蘇る‥‥とも言います。私は、「健康に生まれ育った人は、根本的な思考の性質として、死を感じることが希薄だし、健康に対してずさんで傲慢」と言われたことがあり、しみじみと自分の視界の死角を思い知った経験があります。

 

しかし、いくら健康体でも、老いとともに、やがて生命の機能維持能力は衰え、各所に綻びがあらわれるようになると、なまじ「死の影」を感じなてこなかった人ほど、死を強く意識するようなことも‥‥‥あるのです。

 

まさに今の私がそうです。

 

今の私は、何を計画するにも「死を起点」に考えるようになりました。

 

人は必ず老い、そして必ず死ぬ。‥‥という、あたりまえ前過ぎることを、あたりまえ過ぎるからこそ、自分の中心において、未来の計画を立てるような思考へと変化しました。

 

若い時は、あれほど死に対して無意識で無頓着で、健康に対して不遜で傲慢だった‥‥にも関わらずです。

 

 

死が必ず待ち構えているからこそ、今、私は何をすべきなんだろう。

 

何を残し、何を捨てるべきか。

 

何を伝え、何を断つのか。

 

 

私はたとえ200年の寿命があったとしても、アニメを心底作りきれないと思います。もし生まれ変わりがあったとするなら、またアニメを作りたいとも思います。‥‥‥でもま、生まれ変わったら、その時は既に「自分」ではないので、全く意味がない‥‥ですけどネ。

 

人間の寿命は短いもんですネ。

 

 

死ぬまで面白おかしく生きる人もいるでしょうし、10代20代の怨念やコンプレックスをひきずったまま孤独死する人もおりましょう。ひとつの価値観や行動原理で総合できるものではないです。

 

ゆえ、「自分だったらどうする」と、私は考えるのです。

 

 

こんな記事を目にしました。

 

なぜ「貧しい高齢者」が一気に増加? 識者が語る2042年の日本の姿〈AERA〉

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180327-00000027-sasahi-soci&p=1

 

1960年、1970年には、明るい未来、素晴らしい未来のビジョンばかりが、身の回りに溢れていましたが、いまどきは、こういう記事ばかりですね。

 

自宅にコンピュータやFaceTimeやスカイプがあろうが、話しかければ答える携帯テレビ電話があろうが、世界は幸せでも平和でもない‥‥ということを、実証し続けている現代。

 

「それは平和ボケだ。昔は、天候不順や自然災害で干ばつが起きるたびに、大量の餓死者が出たことを思い出せば、今は少なくとも生き延びられるだろうが」‥‥というのはよく語られる論調ですが、どうやら、生存率=幸福感ではないことは、現代人はうすうすでもクッキリハッキリでも自覚していますよネ。

 

なんか、思考の風呂敷を広げ過ぎちゃったな‥‥とは思いますが、未来の世界、やがてくる自分の死の刻、そして、なんとしても作ってみたい「美しいアニメ」に思いを馳せながら、まったり粛々と生きる今日この頃のわたし‥‥なのです。

 

memento mori‥‥ですネ。

 

 

 



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