泥縄と命綱

新しい映像技術を確立する際は、どんなに前もって準備してリサーチしても、泥縄式の状況に巻き込まれていきます。

 

事前に調べておけば‥‥というのは、確かにあります。HDMIケーブル1本にしても、「ハイスピードケーブル」だけを確認するだけじゃ、リサーチ不足でしょう。

 

しかし、どんなに下準備を積み重ねても、泥縄になる場面は回避できません。全て計画通りに事が進むと思うのは、「あんたは何年生きてきたんだ?」と、逆に失笑の的です。成功の前例がないから判断できない‥‥なんて、どんな素人だって可能ですヨ。成功例があるからOK、前例がないからNG‥‥なんて、凡人そのものです。

 

前例のないところから、成功のカギを見つけ出すのが、プロの仕事でしょ?

 

むしろ、自分に絡んでまとわりついた泥縄を、丁寧に1つずつ解いて、編み直して、強く頑丈な命綱にもできるのです。

 

泥縄式状況にハマった時は、泥縄から抜け出すことだけに終始せず、ちゃんと泥縄を解いて束ねて洗浄して、新たな命綱を編む材料として有効活用すれば良いのです。そうすれば、制作集団はどんどん強くなれます。

 

泥縄式を「単なる災難」として捉えるのは、あまりにも愚か。

 

 

 

失敗例から学べることは格別に多いです。

 

成功例は、確かに成功例を体現したわけですから相応の成功のメソッドは得られますが、同時に、成功したことで過信してしまう、非常に危うい側面も併せ持ちます。

 

成功例に伴う技術過信は、負け戦の典型、先の大戦でドイツや日本での「技術立国が陥った大きな落とし穴」です。例えば、パンターがT-34に1:10のキルレシオを誇ったとしても、相手が12台で迫ってきたら、2台のT-34が戦線を突破するということですし、優秀な日本パイロットがドッグファイトで空の戦いを制覇しても、サッチウィーブによって一人また一人と歴戦パイロットを失えば、やがて劣勢に傾きましょう。

 

日本のアニメ業界は、「アニメと言えば日本」というくらいに大成功を収めたのは、誰も動かしようがない事実、成功事例でしょう。だからこそ、とてつもない負け戦が、これから先に待ち受けているように思えてなりません。

 

日本のアニメーターや美術スタッフ、色彩や撮影スタッフの技量を、まるで所与の日本の財産であるかのように錯覚して、かつての成功例に酔いしれてドカスカジャンジャン、アニメを濫作乱造する状況は、後の大カトストロフィを暗示しているように思いませんか?

 

現在の現場がハマっている泥縄式地獄で、その泥縄を掴んで解いて編み直して、新たな未来の命綱にできると思うのですが、当人らが泥縄を腫れ物のように扱うレベル止まりではどうにもならないですよネ。

 

 

 

私の在籍する小さな技術集団は、まさに技術立国的な立場ですが、ゆえに、技術を打ち出して切り拓いていく意識と同等に、技術だけでは立ち行かなくなる状況も絶えず意識しています。

 

では人海戦術を正義とした意識に転向すべきか? ‥‥まあ、日本じゃソレは無理ですよネ。

 

アメリカや中国、インドのようにはいかんです。国土も人口も少なく、資源も乏しい。

 

だったら、泥縄も資源として活用したいと、少なくとも私は思います。新しい現場での様々な困難と泥縄式対応も、糧として蓄えて、形を変えてエネルギーとしたいです。

 

技術で身を立てるということは、技術を過信することに非ず。

 

泥縄も場合によってはやむなし。むしろ、回り道や泥縄によって得られるアイデアは豊富だと、心得るべし‥‥ですネ。

 

 

 


鉛筆と未来と

私は今でも大切に鉛筆を保管しています。特に真っ黒な線を描けるペンテルの「999」はデッドストックとして倉庫で眠っています。

 

なぜ鉛筆を保管しているかというと、また使う機会を考えているからです。思い出のためだけにとってあるのではないです。‥‥とは言え、その復活の機会は、おそらく私の晩年の頃になりましょう。

 

私は2013年まで鉛筆活用の可能性をしぶとく探っていました。しかし現在は、鉛筆から離れて、Apple Pencil 100%です。

 

なぜ、鉛筆から離れたのかと言うと、鉛筆の美点・長所を真に活かそうとすると、

 

  • まず、鉛筆をあえて使う以上は、ニュアンスを保つ諧調トレスが必要だが、現場の作業工程が消滅してしまった
  • 鉛筆の黒鉛の粒子と紙の繊維の大きさが4KターゲットだとA4用紙では相対的に小さ過ぎる
  • 解像度を上げると、スキャン時のゴミ取りなどの現実世界の要素が障害となる

 

‥‥などの様々な問題が浮き彫りになったからです。

 

特に用紙サイズの拡大は、運用上の痛烈なダメージを容易に想像できました。ただ、私の主眼は、次世代の映像技術でアニメを作り続けることだったので、Apple PencilとiPad Proの登場によって、鉛筆から道具を切り替えたのです。4Kにおいては、鉛筆そのものよりも、「かつては鉛筆が生み出していたような」ニュアンス豊かな描線が必要です。

 

一方、2Kの旧来の現場においては、業界全体が「諧調トレス」を捨てて「二値化トレス」を選択した時点で、「鉛筆である技術的な理由」は喪失していたと言えます。「PC&ペンタブの導入コストは高価」「デジタルデータのフローが未発達」という運用上の理由で、導入&維持コストの安い紙と鉛筆が重宝されてはいますが、今後どうなるかはわかりません。

 

 

 

鉛筆は、ニュアンス豊かな表現を可能とします。鉛筆画というジャンルがあるほどです。

 

しかし、2000年代後半に、鉛筆のニュアンスを活かす「諧調トレス」は急速に減少しました。そして、現在の一般的なアニメ制作現場ではほぼ全てが「二値化トレス」一色です。

 

標準的なアニメ制作現場の150〜200dpiでスキャンして二値化して中間トーンを切り捨てる方法は、例えるなら、美味しく作った料理を一旦冷凍してレンジで解凍するようなプロセスです。カチンコチンに冷凍するわけですから、流通上の都合は良いですが、味は結構落ちます。

 

鉛筆の熟練者なら、恐ろしいほどに繊細でシャープな線を描画できますが、二値化&スムージングのプロセスで鉛筆のニュアンスはダメージを受けます。

 

■拡大図(かなり拡大してます)

 

スッと抜ける滑らかな線も‥‥

 

 

二値化により‥‥

*かなり拡大しているので、二値化自体にアンチエイリアスが入っておりますが、実際はパッキリとした二値です。

 

 

たとえスムージングをかけても元に戻ることはありません。「抜き」の滑らかな先端は、もはや消えて無くなりました。

 

 

処理前後比較

 

 

二値化&スムージングがもたらした生産性よって、2000年代後半から現在まで、夥しい数のアニメを量産することが可能になりました。2000年代後半の爆発的なアニメ作品数の増大は、効率的な二値化&ペイントも大きな理由の1つでしょう。二値化の功績は計り知れないものがあります。

 

しかし、失った品質も表現も相応に大きかったのです。あっけらかんと割り切ったデザインの絵柄が増えたのも、もしかしたら、二値化で染まった描線の影響もあるかも知れません。描線のニュアンスが豊富じゃないと、様にならない絵も存在しますから、自然と二値化で様になる絵柄に傾いていった‥‥とも思えます。

 

 

もし可能なら、グレースケール(=諧調トレスのまま)で400dpiでスキャンした鉛筆画を、5KのiMacで「ドットバイドット」で見てください。描き手の勢いで描線が走っている原画のスキャンのほうが違いが解りやすいですが、とても綺麗な動画でも違いは見分けられます。「今までPCモニタやテレビで見てきたのは、随分と変わり果てた鉛筆線だったんだ」と愕然とするはずです。描き手の呼吸まで伝わるような詳細なニュアンスを実感すれば、「まだ鉛筆そのものは死んでない。生きている!」と嬉しくなるでしょう。

*ちなみに、27インチで2.5Kのモニタでドットバイドットでみても、鉛筆の凄さはわかりにくいです。27インチで5Kの「高詳細液晶パネル」で鉛筆画をみてこそ、繊細さと豪快さが同居する「真の鉛筆のチカラ」が解ります。

 

でも、現在のアニメ制作技法では、グレースケールで400dpiでスキャンした鉛筆画そのまま(=階調トレス)のニュアンスでフローするなんて、実質上無理ですよネ。そもそも諧調トレス工程の確保が難しいです。単価の問題も深刻でしょう。

 

 

 

とは言え‥‥。

 

鉛筆の死に悲しめど、描線の死に悲しまず。

 

描線のニュアンスを犠牲にして、猛烈な生産性を得ようとしていた時代に、鉛筆を使う人々は「自分らの管轄外の出来事」として、多くの人が「諧調トレス廃止、二値化トレス導入」の流れに対して関心や興味を示しませんでした。

 

諧調トレスの消滅が、鉛筆にとって何を意味するのか、具体的な技術的内容を理解できていなかったのかも知れません。しかし結果はどうであれ、鉛筆が鉛筆である大きな意義が失われるその時に、鉛筆をメインの道具として使う人々はあまりにも無関心過ぎたのは事実です。ペンタブでも代用がきく流れを、間接的とは言え許容したのです。

 

現在、鉛筆に期待される能力は、「二値化に最適なトレス線の入力装置」であって、鉛筆の表現力の幅など期待されてはいません。動画注意事項も、まさに二値化に合わせた内容に変化していますよネ。

 

 

現在、ペンタブが徐々に台頭し、鉛筆の存在が脅かされる不安を感じる人もいるでしょう。

 

その昔、トレスマシンにムラなく転写される(鉛筆のカーボンに反応する)鉛筆線が求められたように、現在は二値化&スムージングに最適な描線が求めらるのなら、鉛筆に限定する理由はなくペンタブでも可能です。不安は的中するかも知れません。

 

一方、現在はまだまだ鉛筆が主流でペンタブ作画など業界全体から見れば十数%程度だ‥‥という人もおりましょう。

 

しかし、現在の主流である「仕上げ以降がコンピュータプロセス」という技術運用スタイルだって、1996年当時は10%はおろか、数パーセントに過ぎませんでした。今が何パーセントだから云々‥‥なんていう論調は、何の未来予測にも繋がりません。世の中の色々なものが、昔は数パーセントの普及率だったことを思い出せば、現状のパーセントのままで未来を推し量ることはできません。

 

 

 

私は‥‥と言えば、現在Apple Pencil 100%です。しかし、二値化ではなく、諧調トレスです。2013年に諧調トレスにおける鉛筆の運用を断念しましたが、諧調トレスは全く諦めていないどころか、現在の私の主流ですらあります。4Kのキャンバスで威力を発揮する基礎技術として、諧調トレスは復活します。

 

例えば、Procreateは、描線の濃淡や細さ太さをダイナミックに表現できるだけでなく、テクスチャやムラが描写の動作に反応する様々な機能が盛り込まれています。ハード&ソフトの相乗効果によって、様々な描線の表現による作品が生み出されていくものと確信します。

 

 

もし、鉛筆が好きならば、「作画村」の中で祈り続けるのではなく、「作画村」を内包する「アニメ村」、さらに大きな「映像村」まで「作品における鉛筆の有用性」を強くアピールし、「たしかに鉛筆だと、作品が面白くなる」と皆に思わせる必要があるでしょう。「自分が好きだから」という理由だけでは、世界は動きません。

 

二値化トレスの入力装置に甘んじているだけでは、鉛筆は他に作業を奪われましょう。

 

鉛筆は作画のテリトリーだからと、近視眼的な作画限定の視野で捉えるのも、ジャッジミスを繰り返す原因となりましょう。

 

鉛筆が未来の映像技術で生き残るには、まさに「鉛筆だからこそできる」大きな何かが必要です。‥‥その「何か」は、鉛筆の強さを熟知する当人が見つけ出すほか、ないでしょう。

 

 

 


UHD雛形

AST〜アニメーション標準技術〜のUHD HDR仕様 After Effects プロジェクト雛形ファイルを昨日作成しました。今までは2K(HD)SDR時代の雛形をもとに4Kの雛形を作っていたので、色々と古い部分を残していましたが、新たにゼロから作り直しました。

 

下図は、そのスクリーンショットです。ゆえに寸法はUHDではなく、スクリーンショットの範囲選択の寸法です。

 

 

 

ハリウッドの実写のスレートとはおもむきの異なる「Cut」単位のカットボールドですが、そのへんは今までのアニメ制作の流儀を踏襲しています。

 

画面の1/4を占めるスケールバーは、まさにPQ1000運用への慎重な(あるいは恐怖への?)対応の表れです。192あたりのピークを常に目視でも監視しておきたい、PQ1000nitsならではの仕様となっています。おそらく、ちまたの多くの環境では、普通に247まで諧調が見えると思いますが(=PQカーブではないので)、PQカーブで1000nitsクリッピングならば、191あたりが白に見えるはずです。

 

何らかのカラープロファイルの齟齬で色がズレている場合は、RGB別のピークもズレてみえます。‥‥このあたりに、数ヶ月格闘してましたから、ボールドにも当然の心情として、スケールバーを入れたのです。実写のスレートにマクベスチャートを入れておきたいキモチに似ています。

 

何秒何コマというカウントは廃止し、ゼロスタートのTCと、1秒を1で数える小数点の表記です。単体のクリップなので、時間(H)は0スタートです。スクリーンショットは30秒の雛形なので、00:00:30:00の表記となっています。ファイナルクリップ(いわゆる本撮)以外はTCが小さく画面脇に刻印されるようにもなっています。DaVinciには便利な「Data Burn-In」機能がありますが、オフライン素材であることの目視にも役立ちますので、ファイナルクリップ以外はTCの焼き込みをおこなっています。

 

「コマ」だけでなく、単位の廃止は他にもあって、現実の「実寸」が存在しないので「ミリ」「センチ」という単位は消滅しました。「ooミリ/コマ」という昔ながらの引き指示も消滅しております。

 

コンポジションの情報からエクスプレッションにて色々と取得して表記に反映させるのはいつもの通りです。「anime」というのは架空の作品名です。

 

このAfter Effectsプロジェクトは、作品共通の標準仕様であり、「AST.1806」として標準化番号を付与しました。作品ごとに雛形を修正するのって、時間の無駄だと思っていましたから、ようやくAEPの標準化も本格化できそうです。

 

 

HDRの取り組みで痛感するのは、「SDRで作った、にわかHDR」はやはり「後付け感のするHDR」になりやすい‥‥ということです。sRGBやRec.709で作り終えた絵をHDRにしても、効果は限定的です。「どこかHDRっぽくできる部分はないか」的な後追い発想といいますか、「ピークを探してつまみあげる」アクションになりやすいわけです。

 

機材的な難問はありますが、できることなら最初から、生粋のHDRでアニメも作るべきでしょう。レイヤー構造の時点からHDRの1000nitsを意識する必要があります。

 

コントロールは、まるで2ストのモトクロッサーのようにピーキーですが、扱いなれるとピークをコントロールした絵作りが可能になり、めっちゃくちゃ楽しいです。

 

まあ、2018年現在は、得体の知れぬ4K HDR PQ 1000nitsのアニメの話をここで書いても独り相撲感が満杯なので、時が来るのを待とうと思います。

 

 


レイアウトに思う

レイアウトにおけるカメラの役割。それは最終的には観客の視野へ被写要素を伝達することですが、観「客」だからと言って、かならず客観的なカメラである必要もありません。観客が主人公の視点に没入した時には、主人公の主観にもなりましょう。

 

また、根本的なことですが、アニメは実写ではないので、レイアウトの思考を必ずしも「カメラ」想定で考える必要も、実はないのです。

 

さらにはパースや遠近法に頑なに縛られる必要もないです。絵は現実から解放された「絵だけの世界」を具現化できるユニークな表現方法です。パースを超越して、児童の戯画のようであっても、一向に構わないわけです。

 

しかし、アニメーション作品を具現化する上で、映画の文法や現実世界の成り立ちを、上手に活用することで、「映画としてのアニメ」「テレビドラマとしてのアニメ」を格段に作りやすくなります。作品の作風でも、絵と現実の境界線をどのくらいに設定するかも変わってきましょう。

 

 

どの場合でも、自分がレイアウト技法やパース技法を習得できていない未熟さを、都合よく「絵の世界」を持ち出して誤魔化すのは、なんともみっともないことです。絵の世界の自由な表現は、決して稚拙さの隠れ蓑・技術の偽装ではないです。

 

つまり、レイアウトの技法のあれこれを使いこなせるようになった上で、故意に配置のバランスを崩すことも可能ですし、パース技法を習得した上で、故意にパースを無視した絵をコントローラブルに描くことも可能になります。

 

ピカソのゲルニカは、ピカソがあれしか描けないわけじゃないのは、誰もが知っていることですよネ。デルヴォーが遠近法やパースを知らないから、奇妙に崩れて不思議な一点透視を描くわけではないです。

 

いわゆる、現在の標準・スタンダードの禁則を犯すには、相応の技術の裏付けと足場が必要というわけです。

 

 

 

もちろん、ルソーのような「天然気質」のケースもありましょう。しかし、ルソーは徹頭徹尾あの感じ、あのスタイルで一貫しておりブレがないですし、彼でしか生み出せない強烈な絵の世界があるので、唯一無比の存在として異彩を放つのです。ルソーの絵に対して、デッサンがおかしいとか、パースが変だとか言う人のほうが、「絵を一意的にしか評価できず、絵の世界の広がりをわかっていない」のです。

 

では、アニメの制作現場において、ルソーのような絵をいきなり描いてOKか? まあ、ほぼ100%、NGですよネ。制作している作品が、ルソーのソレを求めていない限りは。

 

アニメの現場のあらゆる工程のスタッフは、作品表現に由来する作業内容のオーダーありきです。ゆえに、多くの場合、レイアウトの標準技法をマスターしている必要がありますし、パースや遠近法を習得した上でレイアウト作業にとりかかる必然性があります。

 

アニメーターって(‥‥に限らず、美術さんも色彩設計さんもコンポジターも)、ものすごくスキルの高いことを求められていますよネ。どんなポリシーの、どんなスタイルの、どんな空間も、描いてみせろ! 作ってみせろ!‥‥と言われているようなものですから。

 

 

 

じゃあ、その高い技術力を習得し、作品の世界に合わせて縦横無尽に絵を描ける能力を身につけて、得られる報酬はいかほど?

 

はい。現在の現場の破綻構造へようこそ。一律単価制度の世界へようこそ‥‥ですネ。

 

未熟な人、下手な人は、安い金で良いんですよ。技術力相応のお値段で。‥‥未熟な時分から「ギャラが安い」とか言うのは、今まで大切に扱われすぎて寝ぼけてんのか?‥‥ということです。未熟なりの相応で良いのです。

 

でも、上手い人まで安い金のままだから、今の現場には夢も希望もモチベーションもないのです。どんなに上手くなっても、貧乏のままか‥‥という深刻重大な閉塞感。そんな中で何が当人の支えかといえば、「下手なのは嫌だ。上手い絵を描いていたい」という意地、プライド、心情だけ。

 

そうしたスタッフ個々の心情に覆いかぶさって猛烈に依存したまま、今の現場はこの先10年20年30年と続けていくんでしょうかね。

 

「お前はプロの絵を描けてない」「じゃあ、プロの絵が描けるようになったら、どのくらいのお金が貰えるんですか」「それはその‥‥だな‥‥」なんて、情けなさすぎちゃって‥‥‥。とても線の多い動画を1枚描きました。時給200円換算になりました。‥‥という現場で、少なくとも私は「プロ云々」の話を説得力をもって話すことはできません。

 

しかし、変動単価制度、社員雇用ならば、状況は変わってきましょう。すべて解決できるとは思いませんが、相当マシになると思います。プロ云々の話にも、相応の説得力が生じます。

 

 

 

とまあ、どんなに技術論を書いても、昔から現在に続くアニメ制作現場では、お金の話で行き詰まってしまいます。なので、ここで書くことは、あくまで新しい現場での話です。報酬の話を棚上げして、プロ意識だけ語ろうとしても、どうにもなりません。プロ意識とプロ報酬はセットで考えるのが、新しい現場の鉄則です。それは清書1枚に至るまで。

 

レイアウトに限らず、プロとして絵を作り出す、絵を動かす、映像を作る‥‥なんて仕事は「プレッシャーの塊」です。プレッシャーを跳ね返すのは、まさに当人の技術力、そして相応の報酬、ですわな。

 

 

 

 

 


レイアウトシステム

アニメ制作工程における「レイアウト」は、私が思うに、先人たちの大いなる知恵です。絵はどう描いたって絵ですが、いきなり細部を描き始めて描き終えた後で画面構成が不味いことに気づくのは、単なる時間の浪費=お金の無駄遣いだからです。「レイアウト」で画面構成、平面構成を見極めたのちに、細部に取り掛かれば、とても効率的に目標とする絵の状態へと導くことができます。

 

‥‥というか、美術の時間に「まず全体を捉えてから、徐々に細部を描写していきましょう」と美術の先生に指導された通りのことなんですけどネ。美術の先生がどれだけ悟性と理性を踏まえた上で指導しているかは先生のクオリティ次第ですが、指導内容にはちゃんと内包されています。

 

現在の「レイアウト+第1原画」を一度に作業するやりかたは、レイアウト=全体の構成や要素の配置の可否を問う前に、原画のラフを描いてタイムシートまでつけてしまいますから、「全体を見極める前に細部を描き込んでしまう典型」です。

 

時間の有無はもはや関係なく、どんなに時間がたっぷりあろうと、「レイアウト+第1原画」のやりかたが定着してしまった今、「レイアウトの本質は形骸化」したも同じです。原画の若手・新人が「レイアウトを学ぶ」機会も喪失しているのではないでしょうかネ。

 

 

レイアウトは「配置」です。画面の中の要素配置。‥‥とてもシンプルです。

 

「レイアウト 意味」の語句でWebで検索すれば、

 

  • 配置。配列。
  • 所定の範囲内に効果的に配置すること
  • 何をどこにどのように配置(割り付け)するかということ

 

‥‥と、いくらでも「配置すること」の意が検索にヒットします。

 

なので、背景の詳細な線画である必要はないですし、ましてやキャラクターの原画の下書きであろうはずがないです。

 

しかし、現状として、レイアウトは背景原図として綿密に細部まで描いて、セル部分は清書さえすれば完成原画になるように全てラフ原画を描いてシートまで書くのが「現在の現場の正義」ということになれば、レイアウトシステムの本来の意義を唱えたところで掻き消されましょう。

 

なので私は、今の現場ではおとなしく「今の流儀」に従って作業しています。今の現場の未来を決めるのは、今の現場のキーマンたちなので、その人たちが「レイアウト+背景原図+第1原画+タイムシート」の同時作業で良いと思っているのなら、それならそれで、私があれこれ意見するのも僭越でしょうしネ。

 

 

私は未来の新しい現場で「レイアウト」の本意を実践するのみです。旧来の現場には何も言わんです。

 

新しい現場は新しい方法論もどんどん導入しますが、一方で「温故知新」を実践する場でもあります。どんなに古くても、良いものはどんどん復古して導入すれば良いですからネ。

 

「レイアウト工程」は何よりもまず、「レイアウトを決めて、監督演出チェック」です。その後で、必要に応じて「背景原図清書」があったり、「ラフモーション」(ラフ原画、第1原画に似たような内容です)の工程に進みます。

 

まずはレイアウト、画面の構成、画面要素の配置を見極めるわけです。

 

  • 各要素が織りなすアウトラインはシーンのリズムや量感やニュアンスを体現しているか
  • カメラ(=観客の視界)の寄り引き、カメラの動きや移動は、演出意図と合致しているか
  • 主要素(=多くの場合、キャラです)の配置は、止まった時だけでなく、動いて変化していく際にも、意図通りに成立しているか
  • 線だけでなく、明暗のレイアウト、色彩のレイアウトを想定して構成できているか
  • 上記を踏まえた上で、必要な物理法則(パースペクティブ・遠近法など)を主観的に操作できているか

 

レイアウトシステムが本来為すべきことを、ノイズや過装飾なしに、上述の内容を純粋に実践するのが、私らの考える「古くて新しい、レイアウト作業工程」です。

 

 

でもまあ、制作現場には個々の事情や状況がありましょう。「何が正しい」ということもないです。

 

レイアウトに第1原画をくっつけたのだって、どこかの誰かさんたちがやり始めて、「これはいい」と思った他者・他社が真似して、現在に至っているわけですから、それぞれの利点と欠点を認識して、自分たちの目標点に向かって運用・運営していくだけのこと‥‥でしょう。

 

今の20代・30代前半の若い人は、レイアウトの意味もわからず、第1原画の付随物としか認識していないかも知れません。でもそれも、他者がどうこういうことでもなく、当人が気付くべきことです。気づかないまま業界を去るのも人生。そのまま何となく惰性で作業して歳食うのも人生。このままじゃアカンと一念発起するのも人生ですもんネ。

 

 

 


Blackmagic RAW

実写において、低価格で高品質な機材を提供するBlackmagic社。実は私、アニメでもBlackmagicのソリューションを活用できないか、密かに(と言ってここで書いてるあたり)機会を伺っているのですが、Blackmagicからまた新たなエポックが発表されました。

 

Blackmagic RAWです。Blackmagic社のカメラや編集ソフト(DaVinci Resolve)が目指す、次世代基準の映像制作にふさわしい、新しい映像ファイル形式のようです。

 

 

 

今のところは実質的に、BlackmagicのカメラとDaVinciでの運用に限られているっぽいです。ただし、クロスプラットフォーム、SDKの無償配布など、自社製品に限定する感じではなさそうです。

 

 

あまり4K HDRの話題にはふれないつもりですが、ちょっとだけ。

 

PQ1000nitsの映像制作において、もはや8bitは使い物にはなりません。トーンジャンプが簡単に発生してしまいます。最低でも10bit、できれば12bitが好ましいです。

 

ゆえに、ProRes4444コーデックの有用性は言うに及ばず、今さらではありますが、再びTIFF連番に戻って運用してもやむなしと考えています。TIFFと言っても、もちろん16bitのTIFFですヨ。

 

新時代のアニメ制作に呼応できる、新時代のコーデック、ファイルフォーマットを欲しているのです。最初から4〜8K HDR/PQ 24〜120fpsを想定したファイルフォーマットの登場を待っています。どんなに1000nitsを活用した美しい映像を作っても、データに記録できずに綺麗に再生できないのでは何にもならないからです。

 

 

Blackmagic RAWの細かい仕様はわかりませんし、今のところ、After Effectsなどの私のメインのソフトウェアには対応していませんが、もしDaVinciでキャッシュファイル的にでも使えるのなら、フローの中で試してみたいところです。

 

 

 


「セル」は「手書き」の同義語ぢゃない

「セル」っていう言葉は紛らわしいですね。そもそも私が紙と鉛筆で原画を描き始めた1986年の頃から「セルロイド」ではなく「アセテート」でしたし。

 

今どきは、「手描き」であることを「セル」と言っちゃうこともあるようです。「全編セルアニメーション」とか言うと、セル用紙にトレスマシンで転写して、セル絵具でペイントして、フィルム撮影台で撮影したように思えますが、「門外漢」の人にとっては「3DCGを使ってない=セルアニメ」と思い込んじゃうことも多いです。

 

あのね。「セル」=Cellの意味をよく調べてみてネ。

 

2018年現在の「セル」という言葉は、「ログ=丸太」と同じように、現場では「動画からペイントされた画像ファイル」を指して「セル」と慣用的に用いますが、「本当のセル」=Celluloidではないですし、昭和40年代以降・平成のテレビアニメ制作時のアセテートフィルムでもないです。「かつてセルが素材だったもの」です。

 

ましてや、セルは手書きの同義語じゃないです。

 

 

セルアニメ100%。

 

スタッフロールを見れば、あれ? あの撮影プロダクションってフィルム撮影台なんてまだあったっけか?‥‥とすぐに不思議に思いますし、そもそも映像で「ぼかしの滲み出し」の撮処理をみれば「デジタル」であることは一目瞭然。

 

それとも、セル用紙にセル絵具でペイントして、それをスキャンしてマスクを綺麗に切って、After Effectsか何かでコンポジットして映像処理を加味した‥‥のでしょうかネ。まさか、そんな‥‥ね。

 

 

 

ただ単に、3DCG要素だけを排除したところで、「表示系」「2Dモーショングラフィック」まで手書きでやらんと、100%手書きアニメとは言えんわな。昔は全部手書きだったんだからさ。

 

スキャニメイトとかの「飛び道具」は別としても、動くものはほぼ全てアニメーターが作画していた頃に立ち戻らないと、100%手書きを語るのは不十分ですネ。

 

むしろさ‥‥。ペーパーレスですべてフローして素材のクオリティを確保した上で、80年代のものすごい線画密度と光学的撮影技法を表現のベースとして踏まえ、16ミリ‥‥はチープすぎるから35ミリフィルムの色域特性やグレイン質感やガタ、セル浮き(セル影)やニュートン、編集点の歪みまでやってこそ、「狂熱の時代」が再表現できると、わたし的には思います。

 

 


境遇と自分

境遇は人それぞれです。

 

私の世代はベビーブームで、目分量で量り売りで扱われるような世代でした。一方、近年の世代は「世界にひとつだけの花」みたいに少子化ゆえの扱われ方を少なからず受けてきたでしょう。世代によって、境遇は様々です。

 

でも、ぶっちゃけ、どんな境遇であろうと、自分の価値は自分で作り出すものです。

 

自分が、量り売りされた世代だろうが、希少品扱いされた世代だろうが、自分は自分です。能力の是非可否の原点は、自分の中にあります。

 

どんな世代にも有利な点、不利な点はあるものですしネ。

 

 

就職難でロスジェネで‥‥とか言って、自分の現在の境遇を世代のせいにすることもできます。一方で、雑な扱われ方をしてきたから、自分はタフで打たれ強いと言う人もいます。

 

境遇をハンデにする人、バネにする人、色々いるのでしょう。

 

まあ、普通に考えて、境遇はハンデではなくバネにしたいわな。

 

自分はデキない、不遇だ、ハンデをもって不利だ‥‥という理由を、世代や境遇に求める人は、自分の能力の低さや至らなさを、てっとり早く「一番身近な」自分の「世代や境遇」に関連づけているのでしょう。つまり、「なぜ、いかに自分が不遇かを証明する理由」を探している‥‥とも言えます。

 

逆に、自分はデキる、好遇だ、アドバンテージがあって有利だ‥‥という理由を、世代や境遇に感じている人もいます。「私も就職難の世代だけど、ロスジェネなんて言葉は甚だ迷惑だ。私は自分で自分を切り拓いてきたし、自分の世代を不遇だなんて思ったことはない。逆に有利だとすら思った」と言っている人もいるのです。

 

 

私も「量り売り」で雑に扱われた世代で、それはそれで良かったと思います。人間の量が多くて扱いが雑ゆえに、いちいち監視されずに済んで、色々なことができましたからネ。私がフリーアニメーターになれたのだって、「こんだけ人間が余ってれば、会社に努めないヤツがいても良いだろ」的な雰囲気がありましたし。

 

人が多くて就職難‥‥という状況は、普通だったらやらせてもらえない仕事でも選択できる自由度が高い‥‥と思えたわけです。

 

 

今の若い世代はどうでしょうかネ。

 

人が少なくて管理・監視されやすい傾向はありましょうが、ゆえに、人と同じことをしつつも、内容がぬきんでれば、監視や管理でひっかかって、逆に目につきやすいともいえます。

 

自分自身の「色々なやりたいこと」を実現するときに、

 

管理の甘い世代の中で、自由に行動して頭角をあらわすか

管理の厳しい世代の中で、突出することで頭角をあらわすか

 

‥‥だけの違いのようにも思えます。まあ、どちらも「行動力と力量が必要」であり、「型にハマって従順だと頭角をあらわせない」共通点はあります。

 

世代や境遇って、ホントに当人次第ですネ。

 

 


作る。こなす。

作品は「作るもの」であって、「こなすもの」ではないです。

 

これはちょうど、食事が「食べるもの」であって、「消化するもの」ではないのと同じです。料理人が、「はい、消化するものをご用意しました」とお客さんに出したらギョッとしますよネ。

 

そんなことは、だれでも判っていることでしょう。しかしプロとして「作る」行為を仕事にして、しかも生産フローのいち工程に組み込まれると、いつしか「作るもの」が「こなすもの」へと結果物も意識もどんどん変質していきます。

 

一方で、「作る」行為を要求できるほど、例えば動画1枚の料金は相応で適切な金額設定かと言うと、これも誰もが「不適切」だと判るでしょう。

 

新人や見習いの期間に、「こなす」のではなく「作る」意識を習得するのは、ごく自然なことです。しかし、キャリアを積んで新人から抜け出ても、現在の作品内容だと動画だけでは収入が成り立たない現実もあり、例えば「完全出来高で月5万」なんていうケースも世間に知れ渡り、「作る」を要求できるほどの報酬が設定されていないことは白日のもとに晒されています。

 

ぶっちゃけ、教育・指導する側も、こと、動画に至っては、「プロの品質」「作る行為」を肯定的な要素として指導できない「現実」がありましょう。

 

例えばベテランのアニメーターの中で、現在の動画の内容と単価で、テレビ作品の動画作業だけで完全出来高で20万円を稼げる人はどれだけいるでしょうか。昔話ではなく、「今のアニメの内容」で、月1000枚‥‥です。

 

つまり、「動画をプロの仕事にする」という一方で、「プロの仕事にはできない料金システム」という、痛烈なジレンマを抱えています。

 

 

無経験、未経験の人間が、最初からプロの報酬を得られるわけもないです。少子化の世代は、ベビーブーム世代の昔よりも大事に扱われて、「世界で1つだけの存在」などとおだてられて育ってしまったこともあるかも知れませんが、仕事場においてプロフェッショナルとして一目おかれてプロ相応に扱われるには、相応の能力が必要になります。生きてるだけじゃ、どうにも価値など見出せません。

 

しかし一方で、アニメ業界の、特に動画の料金システムはあまりにも酷いままで、「プロを自認できるほどの報酬がない」のは「現場を形成する構造」の「大問題・大欠陥」です。意識はプロでも、お金はプロじゃない。‥‥これは昔からの問題ではありましたが、近年のアニメの傾向〜複雑で線が多く、クオリティ基準も厳しくなった作画内容において、問題は極めて深刻化しています。昔話をして済む話じゃないです。

 

 

 

こなすのではなく、作るんだ

 

‥‥この「あたりまえのこと」を、現場においてあたりまえの事として意識するのは、旧来構造のままで突き進むアニメ制作現場では中々難しいようです。

 

どのような現場を新しく作れば、作品を「こなす」のではなく「作る」現場を形成できるのか。

 

難しいことではありますが、本気で取り組んで余りある、有意義な目標だと思っています。

 

 


自助努力の可否

皆が自助努力で頑張れば、制作はうまくいく。これは経験の浅い、もしくは初心者を抜け出た頃に陥る思考の、よくある例です。

 

実際のところ、自助努力のスコープはローカルに限定されます。つまり、自助努力の効果が発揮されるのは自分自身どまり(=自分の中だけで全ての采配が完結する範囲)であって、複数人数の自助努力を結集しても、制作進行はうまく進むどころか、無駄につぐ無駄を呼び、破綻すら招きます。

 

例えば、こなすべきミッションが‥‥

 

1、2、3、4

 

‥‥とあったとして、皆の自助努力のターゲットが、

 

Aさん 1、2、3

 

Bさん 1、2、4

 

Cさん 2、3

 

Dさん 1、2、3

 

Eさん 1、3

 

‥‥となった場合、結果は‥‥

 

1の合計=4

 

2の合計=4

 

3の合計=4

 

4の合計=1

 

‥‥と、ものすごい偏りがでることがあります。

 

ではなぜ、1、2、3に「皆の自助努力」が集中したのでしょうか。

 

1、2、3の作業がやりがいがあったり報酬が良かったりするからです。反して、4はめんどくさくて厄介な作業で「割に合わない」ので、だれもやりたがらずに放置されてしまったのです。

 

自助努力を集団作業に期待する罠」の典型も典型で、笑い話レベルです。

 

「5人もいて、なぜ、1人しか第4工程に着手してないんだよ!」なんていうのは、自助努力に現場を委ねたこともかなり悪いのです。

 

これはたとえエクセルで表をつけて、皆で状況を監視していても同じです。皆が「これ、だれがやるんだろう」と放置すれば、エクセルの進行表が公開されようと同じです。

 

作画で言えば、日常芝居の会話シーンと、モブが乱闘してビルが倒壊するシーンとで、どっちが先に「売れるか」なんて判り切ってますよネ。同じギャラなら会話シーンに決まっています。

 

これを自助努力でなんとかしようとしても、どうにもなるもんでもないです。‥‥そもそも、担当者が決まらないのですから。

 

 

未来に必要なのは、マネージメントシステムであって、自助努力の名のもとに皆が表計算のリストを眺めることではないです。

 

そして、そのマネージメントシステムがタフでダイナミックであっても、最後に決め手となるのは人間だと私は思います。マネージメントシステムは、スタッフとの会話の「声のトーン」から状況を把握できますか? ‥‥できませんよネ。

 

プロの現場で自助努力なんて言い出すのは、相当危ういです。その言葉が出た時点で、現場のコントロール機能は失われつつあって、統制を欠くことを意味しているからです。

 

10揃えば足りるところに作業者の自助努力で50も集まる一方で、10必要なのに1しか揃ってない‥‥なんていうのは、まさに「自助努力という名の現場放置プレイ」です。

 

高度なマネージメントシステムが確立されたとしても、そのバリュー=値をジャッジするのは、人間です。

 

要は、コンピュータだけでなく、人間だけでもなく、コンピュータと人間で制作を支えていくのが、未来の制作スタイルだと思っています。

 

 



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