金のかかる芝居、金のかかるアングル

テレビの標準的なギャラの仕事って、コストをいつも念頭におく必要があります。好きなものを好きなように動かせば良いという話ではないでしょう。

 

例えば、日常芝居でも、ちゃんとやろうとすると、相応に原画枚数と動画枚数が必要になります。ちょっとした小芝居とか、A点からB点に歩いて移動するだけでも、いまどきの線の多いキャラは昔のロボットもののように作業労力が必要となります。

 

また、カット割りやアングルをちょっとした迂闊さが、ものすごい労力を無意味に発生させたりもします。

 

そういった意味では、テレビアニメは制限だらけです。制作費の低さはあからさまな制限ですから、絵コンテを描く人間や演出をする人間は工夫を重ねて、低コストでベター・ベストな効果を実践してきました。

 

「でもさあ‥‥、そんな作り手のコストばかり考えて画面を作るとチープになるじゃん」という人がいたら、その発言にはいくつもツッコミどころがあります。

 

まず、テレビの制作費は、チープですよネ。実写に比べれば高いとか言われますが、何百カットにも及ぶ原画と美術と撮影、何千枚にも及ぶ動画と仕上げで、制作費を細切れにするのですから、作業者単位でいえば決して順当なギャラとはいえないのがテレビの「昔からの常」です。もともとチープなお金しか用意できないのに、チープなのは嫌だ‥‥というのは、発想の出発点に無理があります。

 

しかし、その「普通なら無理な構造」をできるだけ「見せ方で相殺」するのが、テレビシリーズの面白い部分だと思います。「面白い」というのは、「絵コンテと演出の腕の見せ所」ということです。ちょっとカメラの位置をかえてBOOKで切ったりするだけで、恐ろしいほどの作業負担の雲泥の差が生じます。カメラの位置が迂闊なばかりに述べ48時間の作業を要すカットが、絵コンテや演出の工夫により述べ6時間の作業コストで、しかも映像での印象も決してチープではないものが作れるのです。

 

 

テレビアニメであれこれ細かい小芝居をさせたり、消失点を安易に人間の目線にもってくるのは、テレビアニメのコストをあまり‥‥というか、全然考えていない人だよネ。

 

例えば、街の商店街を、人間が立ったときの目線のカメラ位置で、商店街通りを一点透視で狙ったら、ありとあらゆる商店街の雑多な物品が入り込んじゃって、大変な情報量を描かなければならなくなります。

 

「え? 人間の目線で描くのって、普通じゃん」とか思う人もおりましょうが、人間の目線がありふれた情景だからと言って、ありふれたコストで実現できると思っているのなら、本当に素人さんとしか言えないレベルです。そういう人には、テレビシリーズの絵コンテや演出をしてほしくないし、1原2000円程度のやっすいレイアウト料金で巻き込まれたくないです。

 

テレビシリーズで、レイアウト&1原2000円程度の単価で作業依頼するのなら、絵コンテマンは高度な知恵と経験値をもって、低コストかつ高い効果を狙わなければなりません。もしそれができないのであれば、テレビの絵コンテを引き受けるべきではないでしょう。そもそも能力と経験値が足りないんだから。

 

2000円で「松」のレイアウトが買えると思っているところに、現在のテレビシリーズ事情の破滅的な「齟齬」があると思います。

 

2000円でどんどんこなせるレイアウトの内容を、まず絵コンテで示すべきでしょう。テレビシリーズの絵コンテで劇場アニメを志向してはならないのです。絵コンテマンの資質が問われます。

 

「でも今まで無理だったことを実現することで、テレビアニメの技術も上がってきたんじゃない?」と言うのなら、ギャラも上げなきゃマズいでしょ。テレビ作品の絵コンテで無謀な内容を描きました、原動仕や美術の単価は知ったこっちゃない‥‥なんて、酷いと思いません??? そして出てくる言葉は「テレビでも出来た!」です。

 

 

どんな業界でも、ロープライス・ハイクオリティ‥‥は、まさに腕の見せ所です。でも、原価割れしてまでハイクオリティにはしないでしょ。

 

しかしアニメは平気でそれをやるのよネ。原価割れの常習です。

 

スペシャルな作品の、スペシャルな報酬の仕事なら、スペシャルな内容の絵コンテや演出で良いでしょう。

 

作業者にクオリティを要求するのなら、お金を用意する。‥‥当然のことです。

 

しかし、お世辞にも標準的とは言えない報酬額のテレビシリーズでは、工夫に工夫を重ねた絵コンテと演出が何よりも重要な鍵です。特に絵コンテは重大な責任を負います。

 

要求するクオリティはそんなに高くないけど、カット配列やカメラアングルや尺(間、ですネ)の妙味で、面白い本編を作れた時こそ、テレビにおける絵コンテと演出の勝利なのです。その実質的な事実に、昔も今も変わりはないです。

 

 

でもまあ、実は作業者側にも、「報酬に合わせてクオリティをコントロールできない」人々がいるのも、中々辛いところではあります。昔、1カット2万円以上の原画単価を設定したのに、3000〜4000円のテレビと同じ内容で上げてきた原画マンのカットを見て、監督が落胆していたのを思い出します。その原画マンにしてみれば「ラッキー。普通に比べて1万数千円も儲かった。」とでも思っているのでしょうが、それでは「ギャラの金額を無視して、何でも安く描かれるんだったら、安いギャラのままで良い」と判断されちゃうんですよネ。

 

少なくとも私はテレビはテレビなりの単価内容になるように、内容を薄くして描きますヨ。それで「何だ。たいしたことないな」と言われてもOK。レイアウトの構成もかなり割り切った内容にしますが、それでやっぱり「たいしたことない。凝ってない。」と思われてもOK。私はそれで正常だと思っています。

 

その代わり、高いクオリティが求められる作業=高い金額の作業では、相当、念を入れた内容になります。あえて高いお金を設定してくれると言うことは、監督やプロデューサーから何を期待されているかを、ひしひしと感じるからです。

 

金のかかる芝居、金のかかるアングルは、相応に作業報酬に反映されるべきことを、絵を実際に描く当人だけでなく、絵コンテや演出も強く意識することが必要だと思っています。

 

 

 


EOS R

キャノンEOSの新しいカメラ「R」。

 

 

フルサイズ(=35ミリライカ判同等サイズの撮像素子)のカメラのボディにしては、実売25万円と低価格なのに驚きました。フルサイズはプロじゃないと買えない値段=数十万が普通でしたからネ。

 

しかし。

 

レンズのマウントは新しい「RF」。今までのEFマウントではないので、マウントアダプタを介さない限りは、RFレンズを新調する必要があります。

 

そのRFレンズのお値段。

 

マクロレンズが6万円。‥‥まあ、これはいいス。

 

その他が中々なお値段です。まあ、L(エル)レンズなので、もともと上級クラスなんですけど、コンタックスのレンズを買うかのごとくのお値段です。

 

例えば、以下のズームレンズは、37万円。

 

 

 

 

どぐわ。

 

まあ、フルサイズの新たなEOSの門出ですもんネ。いきなりコンシューマ向けの廉価モデルではないですわな。

 

カメラを道具にして、年間何百万円も稼ぐような人向け〜プロ向けですネ。

 

 

 

私は、こういうカメラを無理して買ってもオーバースペックなので(職種的にも)、EOSのEFマウントの中級機種とか、ルミックスのコンデジあたりを相変わらず物色します。

 

これでムービー機能が4K60pに対応してくれればな〜‥‥。

 

まあ、4Kテレビの120fpsで補完して観れば、4K30pでもいいっちゃいいんですけど、60pで撮れるのなら、その方が良いです。色々と便利だから。

 

 

 


Apple Pencil、近況

Xs Maxの値段にどれだけの人間がついていけるのか、ソフトバンクの月々の支払いに組み込むと紛れるのかも知れませんが、まあ、欲しい人が買えばいいだけの話ですわな。私はiPhone8 Plusが使い物にならなくなるまで使う所存なので、しばらくiPhoneはいいや‥‥という感じです。

 

AppleのXs Maxの目論見はおいといて、私のAppleに対する関心は、来年と噂されるモジュール構成のMac Proと、Mac miniの新型、そしてiPad Proの新型です。ジョブズ時代のApple再興の原点に立ち戻ったラインアップを期待しています。

 

 

 

私の毎日は、まさにApple PenciliPad Pro、そしてiMac Proの毎日です。300nitsの眩しいEIZOのHDRモニタも今や日常の風景。初代のiPad Proも現役で毎日活躍しています。ProMotionじゃなくても十分仕事はできます。

 

Apple Pencilのバッテリーの持続時間は、「ちょうど良い」感じで、8時間くらい作業しているとちょうど「バッテリーの残りが5%です」的な警告がiPadに表示されます。つまり、「とりあえず、一旦休みなさいな」と水を差してくれるわけです。まあ、設計で計算したわけではなくたまたまだとは思いますが、絵を描く仕事にはちょうど良いです。

 

その後も作業を続行したければ、数十分充電している間は休憩して、30〜40%までバッテリーを回復させて、あともうちょい描く‥‥という感じで続けられます。切羽詰まっているときは、1分くらい充電すれば30分は描けますから、なんとでもなります。

 

Apple Pencilのバッテリーの残時間は、そのまま作業時の自分の身体の酷使と比例するので、バッテリー切れの警告はおおまかなバロメーターにもなります。シャーペンや鉛筆だと、過労でぶっ倒れるまで仕事できちゃうから、怖いですよネ。

 

Apple Pencilを満充電にする間に、ひと眠りはできます。

 

‥‥ちなみに、私はApple Pencilを複数持っていますが、とっかえひっかえ使うことは避けています。まず、そんなことしたら、体がもたないでしょうし、何よりも「ペアリングの解除と接続」が面倒なので、他のiPad用のApple Pencilは故障でもない限り使い回すことはないです。それに、Apple Pencilは一度も故障したことがないので、困ったことがありません。

 

AdobeがフルバージョンのPhotoshopを、iOSでリリースする‥‥という噂がありましたが、それが実現したら、相当の作業部分をiPad ProとApple Pencilでこなせます。Adobe CCにお金を払い続ける甲斐もあろうというものです。

 

 

 

下世話な話‥‥ですが、Apple PencilとiPad Proでどれだけお金が稼げるのか、あまりにも範囲を広すぎて想像ができません。あれもできる、これもできる、あんなことまでできる‥‥と、絵を描く人間なら、能力と意欲次第で、自分の稼ぎのメインツールにもできましょう。

 

Apple信者だろうが、Windows信者だろうが、どうでも良いです。無意味でくだらんキャプションです。絵を描くことをシンプルに考えて、絵を描く道具をシンプルに選択すれば良いだけです。

 

最近、無印iPad(=Apple Pencil対応)も使っていますが、そちらはガラスフィルムで画面を保護したので、描き味はよくないです。水森亜土さんのガラスお絵かきのような描き心地で、決してコントローラブルとは言えません。入りと抜きがツルツルガラスだと乱れます。

 

やっぱり、サラサラ表面仕上げの「書き味向上フィルム」は必須ですネ。色々なのを試しましたが、ぶっちゃけ、どれでも大丈夫でした。差は感じますが、ツルンツルンになっていないだけで書き味はぐんとよくなります。

 

 

この書き味向上シートは、10枚セットの割安製品も出ていて、近々買っておこうとかと思っています。初代のiPad Proに対応する製品があるうちにストックしておこうと思いまして。

 

‥‥10枚あれば、初代iPad Proの「道具としての寿命」(5年くらい)は十分全うできるように思います。

 

 

そういえば、稀に、Procreateで「カット&ペースト」「コピー&ペースト」のジェスチャーのあとで、Apple Pencilが無反応になるトラブルが発生します。そういう場合は、Procreateの画面から、一旦ホーム画面に戻って、Apple Pencilで何かをタッチして反応させれば戻ります。それでもだめな場合は、Bluetoothのオンオフで治ることもあります。

 

原因は不明ですが、Apple Pencilの故障ではないみたいなので、それだけは安心です。

 

 

 

 


Twentieth Anniversary Macintosh

Xs Maxの18万という値段を見るだに、「Twentieth Anniversary Macintosh」=88万8千円の頃のAppleの悪夢を思い出します。

 

Twentieth Anniversary Macintosh

 

 

この「TAM」。リアルタイムで覚えています。私がちょうど、はじめて自分のお金でコンピュータを買おうと物色していた時期で、MacかWindowsを悩んでいた頃でもあります。

 

TAMは当時としても、CPUはエントリー機種の603eであり基本性能が乏しく(今でいうと、Core i5っぽい感じか)、Boseの高価なサウンドシステムで飾り立てても、少なくとも私はまず値段で、そして性能で、全く惹かれませんでした。コンピュータで色々と絵や映像を作ろうって時に、自宅のマシンとしてTAMを選択するなんて、「高価、低性能」ゆえにあり得ませんでした。

 

TAMは、コンピュータなんてどうでも良い人間が、金持ちのコレクターアイテムとして買うものだと考えていました。

 

伝聞の噂の域を脱し得ませんが、このTAMを贈られたジョブズは、窓から投げ捨てたとも言われます。1997年といえば、ジョブズがAppleに戻る戻らない的な時期であり、「暫定CEO」という呼び名も懐かしい頃でした。「ジョブズはいつまで暫定なんだろうねえ」と2000年の頃に話していた記憶があります。

 

このTAMの1年後=1998年にiMacが登場します。

 

TAMとiMac。‥‥あまりにも対照的ですよネ。「思い切った内容」にも、ここまで差が出るか‥‥と感じさせる、対照的な2製品です。悪趣味な成金風情のTAMからわずか1年でiMacが発売されるのですから、変革期というのは興味深いものです。

 

 

 

私はTAMが20万円そこそこまで投げ売りされていた頃でも買う気にならず、同じ603eでもPM5500を買い、iMacはリビジョンBを1999年の年明けに買いました。

 

年が前後しますが、結局、私が最初に買ったコンピュータは1998年の年明けのPM8600で、格段にメンテがしやすくなった筐体でした。当時私が仕事場で使っていたマシンはPM8500でメンテはかなり面倒で(まあ、慣れれば、慣れるのですが)、8600のメンテナンス性の変化だけ見ても、何か「Appleの内部が変わりはじめている」のを感じていました。明らかにばっさりと方針が変わっているのを、コンピュータの中身を開いただけでも判ったのです。

 

ジョブズがどれだけ絡んでいたかはよくわかりませんが、当時のAppleは1年ごとに、

 

  • PowerMacintosh8500(開けにくい筐体)
  • PowerMacintosh8600(開けやすい筐体)
  • PowerMacintoshMT(開けやすい筐体でG3)
  • PowerMacintoshG3(ブルー&ホワイトの筐体で開けやすさは継承)

 

‥‥という恐ろしいペースで進化の過程を邁進していました。

 

この機種更新を当時の私の作業事情に絡めると、

 

  • PowerMacintosh8500=攻殻PSゲーム作業後に、会社からはじめて私専用に配備されたマシン
  • PowerMacintosh8600=自腹で買った初めてのパソコン
  • PowerMacintoshMT=Blood the Last Vampireの制作開始頃
  • PowerMacintoshG3=Blood the Last Vampireの制作で実際に使用してAfter Effectsでレンダリングしたマシン

 

‥‥と、当時の「デジタルアニメーション」という現在のアニメ業界のスタンダードに繋がる黎明期とともに、Appleの製品が「吹き返し始めた」のを思い出します。この当時に実際に「デジタルアニメーション」を立ち上げた人々が、Apple製品、Mac製品に対する愛着が強いのも頷けます。

 

ちなみに、TAMが登場した頃は、Appleはお葬式ムードで、どの会社がAppleを買収するか‥‥なんていう話がごく普通になされていた時期でした。PM8500はちょうどそんな時期のマシンで、私は他の部屋にある牛柄のGatewayのWindowsマシンも併用してGRMのパイロットフィルムなどにも参加していました。Photoshopはバージョンが4になった頃で、After Effectsは3.1でした。

 

ホントに、あの時期〜1997年のAppleはフワフワユラユラしてましたよネ。

 

ですから、ジョブズがAppleに返り咲いて、Appleがどんどん変わって、どんどん息を吹き返してくるのを、リアルタイムで体験しました。ジョブズはプログラムコードも設計図も書かなかったかも知れませんが(少なくとも1997年の頃は)、確実にジョブズ前と後では、Appleは雲泥の差でした。

 

1998年のAppleと、1997年のAppleでは、「1年でここまで変わるか」と思うほどの変身ぶりでした。

 

 

 

そして、今のApple。18万円のiPhoneがご自慢のApple。

 

TAMとXs Maxを同一視するつもりはないですが、何か、変な感じ、嫌な感じなんですよネ‥‥。Apple製品と20年以上付き合ってきた上での、何か予感めいたニュアンスといいますか。Appleがダメな頃も、復活した頃も、絶頂な頃も、同時体験してきた「勘どころ」と言いますか‥‥。

 

1997年と2018年の今では、社会も、そしてAppleの経営状態も違いますから、同じ物差しで測ろうとも思わないのですが、何か、似たような違和感というか、胸騒ぎみたいなのを感じます。私個人の心配性だけなら良いですが。

 

どうなるのかな。

 

100年続いたコンピュータメーカーはどこにも存在しませんから、なんとも先は読めないですよネ。コンピュータメーカーの歴史は今、リアルタイムです。

 

それに、そもそも今は「アップルコンピュータ」ではなく「アップル」なんだよネ。

 

TAMが発売された時に、「ボーズのスピーカーがついたから何なんだよ」と率直に思いました。Xs Maxも「カメラの性能が上がったからって何なんだろう」と正直に思います。たしかにスマートHDRは魅力だけど、カメラ機能で他社競合と競うあたりで、Appleの強みってなんだったっけ‥‥と思います。ちょうど、PC/AT互換機と販売合戦に巻き込まれたスカリーの時代が思い起こされます。

 

TAMのような過装飾な何かではなく、革新的な何かを期待しております。

 

 

 

しかしなんだな‥‥、皆、Xs Maxをよくまあ、買えるよね。景気、良いの? スマホに18万もぶっこめるほど、多くの人が稼げてるんだとしたら、日本の今の状況って何なんだろうね‥‥。

 

18万円を一度に払えるほどの経済力はないし、新たにローンを増やすほどの余裕もないけれど、携帯の月々の支払いに組み込めば、18万円のスマホも買える。

 

バブル、サブプライムローンのようなトリックが、スマホのような身近な製品に姿を変えて人々を取り込んでいるようにも思える、今日この頃。

 

でも、Apple製品には売れていて欲しいです。Xs Maxもそこそこ売れているようで良かった‥‥。大外ししてAppleの調子が悪くなられても困るもんネ。売れなくなった頃のAppleって、そりゃあもう濡れ手に粟がついた腕で泥縄を引き寄せるような‥‥でしたからネ。

 

 


watchOS 5‥‥

iOS 12とwatchOS 5が公開されたので、早速アップデート。

 

iOSはスムーズにアップデート完了しましたが、問題はwatchOS。

 

 

 

12時間????

 

Apple Watchを充電器から取り外せず?

 

iPhoneの通信圏内に? =Apple WatchからiPhoneを離せない

 

‥‥なるほど、今日はiPhoneは持ち歩けないということなんですネ。

 

私は今日はずっと作業場にこもって仕事だったので良いですが、これ、普通に行動している人はどうすんだろ?

 

ちなみに、アップデートをキャンセル=途中で中止すると、工場出荷時に初期化されるとのことです。

 

 

 

「12時間というのは、予測時間で、実際は‥‥」

 

いやいや、23時現在、ようやくインストールが始まりました。12時間はかからなくても、9〜10時間はかかると思われます。

 

上図と下図の時刻に注目。

 

 

 

 

 

なんだか、この秋のAppleは、変な感じですね。

 

10時間もiPhoneとApple Watchが使えなくなるアップデートなら、事前に「アップデートには半日かかります。その間、Apple WatchとiPhoneは持ち出しができなくなります。アップデートを途中でキャンセルすることもできません。それでも実行しますか?」とか警告しても良さそうなのにネ。

 

それにXs Max。

 

iPhoneとはいえ、スマホごときに18万とか。

 

 

買う? 18万のスマホ。

 

 

壇上でスマホを両手にもって水鉄砲のように撃ち合ってはしゃいだり。

 

あんな基調講演、全然見たくなかったわ。18万のスマホ買ったら、アレ、やる?

 

 

 

できるだけ、今のAppleの姿をポジティブに捉えようと思うけど‥‥。

 

なんか‥‥終わりの始まりにならないと良いけどなあ‥‥。

 

 

 

日本のカメラメーカーやBlackmagicには頑張って欲しいですネ。「iPhoneのカメラ機能がすごい!」って、iPhoneはカメラなのかよ?‥‥って話です。

 

どんなにAppleを肯定しようと思っても、さすがにスマホに18万のコストは割かないわ。いくらなんでも、そこまではなし。

 

そんなんだったら、もっと他のことにお金を使います。例えば、18万円あったら、Adobe CCが3年も使えるからね。‥‥そっちのほうが何百万も稼げるからさ。16万で4Kのポケットシネマカメラを買ったほうが、よっぽど実益に繋がりますしネ。

 

 

 

 


能力オブジェクト

自分の未来は自分で決める、将来は人それぞれ‥‥となると、「どうやって人を育てていけば良いんだ? 人それぞれなんて言い出したら、何も教えられないじゃないか」と考えがちです。ゆえに「役職をキッパリ区切って、その役職の技能を習得する」という思考になります。

 

たしかに、何一つ無し得ない者は、何者にもなれない‥‥とは私も思います。

 

だからといって、人間の素質や可能性を1つに限定するのは極論とも思います。人間は本来多様性を持つと考えるからです。

 

私が考える未来の制作現場は、役職オブジェクトではなく、能力オブジェクトによって構成されます。1人=1役職ではなく、1人=多能力と定義し、制作上のあらゆるジョブ=作業・仕事に、1役職の1人ではなく、1人の中の1つの能力を割り当てるわけです。

 

人材のマッピング(=割り当て)ではなく、能力のマッピングです。それが日本の未来の現場の姿と考えています。

 

1人の人間を、1つの役職に割り当てるなんて、なんという大雑把さ、なんという非効率の垂れ流しなんだろうと思います。国土も人口も少ない日本でやることか?‥‥と思います。

 

高度経済成長期の幻、ベビーブーム時代の幻影をいつまで引き摺り続ければ気が済むんだ?‥‥と思うのです。国土も、そして今や人口も減り続ける日本において、野放図に肥大化を繰り返してきたアニメ業界の構造も、もうそろそろ見直すべき‥‥というか、旧アニメ業界とは別立ての新しいアニメ業界を考えはじめても良いころだと思いますヨ。

 

 

 

あのさあ‥‥ぶっちゃけて書くけど、作画の仕事ひとすじに30年も費やすのは必要なこと?

 

原画の仕事をしながら、たとえばメカデザインや動物デザイン、後進のための技術指南書を書くことだって、可能ですよネ。原画の仕事をしながら、After Effectsでカットアウト・キーフレームアニメーションだって引き受けられますよネ。作画以外にも、例えば仕上げの仕事をしながら、衣装デザインやフェイスメイクデザインだって兼任できますよネ。

 

仕事を一人の人間の一つの役職で区切るから、肥大化もするんじゃないですかネ。1人ですむものを、2人にも3人にも役職で分割するから、どんどん大規模で大所帯で維持も大変になるのだと思いますヨ。

 

10〜100KB単位のデータを格納するのに、セクタを512KBで区切るようなもんだよ。

 

ひとりの人間の多様性と可能性を閉じ込めて封印するような制作構造は変えていくべきと思います。

 

古い頭の人は古いままでやがて引退してくれればそれで結構。ベビーブーム時代の幻想の中で死ぬのも当人次第。

 

それでは済まないと思う人間たちが、新しい頭で新しい制作システムを作り出すべきと思います。

 

「そんなの、管理が大変じゃん」という人もいましょうが、コンピュータを知らないの?‥‥と言いたいです。メールを読んで、ネットを眺めて、ゲームに熱中するだけがコンピュータじゃないからさ‥‥。

 

一人の人間のオブジェクトの中に複数の能力のオブジェクトを定義して、制作システムは能力オブジェクトに対してアクセスして、当人のキャパも計算し、運用の計画を立てるようにすれば良いのです。コンピュータはそういうことにこそ使うべきと思います。ゲームをやるだけじゃなくてさ。

 

 

 

「でもさ‥‥それって、コンピュータに自分の能力が管理されることになるんじゃないか?」と思うのは、ごもっとも。‥‥「他者による個人能力の管理」と受け取るか、「他者による能力のバリエーションの認識」と受け取るかは、色々と受け取り方が変わってくるでしょう。

 

仕事を受発注の際、たとえ今の「役職」単位であっても、「役職としての能力」を管理・把握されていますよネ。

 

仕事を発注するときに、どうやっても、作業者当人の能力は問われますし、他者による作業能力の認識は必要です。管理もされず、把握も認識も拒絶し、「私は謎の人物でいたい」なんてあり得ないのです。謎の人物に仕事は発注できないですもん。

 

 

 

あの人は線画専門だ。線画しか描けない。だから、線画の仕事しか頼めない。

 

それって、本意? 不本意?

 

そんな風に他者から自分を認識され続けて、単価の安い現在の原動画システムの中で、「アニメーター」の狭い枠の中で生き続けたいですか?

 

どっちにしろ他者から認識されるのなら、自分の能力の多様性を認識してもらって、線画以外の仕事もどんどんこなせば良いんじゃないですかネ。未来にアニメを作り続けたいのなら、新しいアニメーション技術の流れにも組みして、旧来の業界の構造問題から離脱するきっかけを作るべきだと思いますヨ。

 

 

 

旧来の業界は何を言っても、コストを何千何万枚で分割する方法から逃れられません。業界のお歴々がどうしても抜けられない思考の限界です。

 

先人が築き上げたシステムを踏襲することだけを考える人々は、新たな未来を切り開くこと自体が、土台、無理なんですヨ。綻びてガタがでてきたシステムをどう繕うか、お金の不満をどうなだめるか、そのことに終始して、「新しい何か切り開く」なんて「傍迷惑」にしか考えない人も、相応に多いです。

 

思考が古いまま凝り固まっているから、新しい何かを実践するなんて「無理」「できるはずがない」と言い続けるのですしネ。「デジタル作画」くらいの「代替技術」思考が、古い世代の限界です。

 

新しいドクトリンに基づく現場には、相応の人材育成のメソッドも生まれます。人それぞれの能力の多様性ありきで、自分の軸足となる工程をまず習得して、そこから応用と発展を重ねていけば良いのです。一生、原画マン人生‥‥だと、作画従事者の誰もが思い詰める必要はないと思いますヨ。

 

 


夢のあとに

アニメーターになるのが夢。そのために、アマチュア時代にいっぱい絵を描いて、アニメ制作会社や下請け作画スタジオに入社して、動画を描いた、原画を描いた、作監も引き受けた。

 

はい。夢、終了。

 

‥‥あれ? 自分って、夢を実現した後は、何をすれば良いんだっけ?

 

大してお金が稼げるわけでもないし、むしろ稼げないし、自分はこの先、何を目標にすれば良いんだろう。

 

 

 

‥‥とまあ、こうした期間が大体10年くらいですよネ。なので、ある程度の自浄能力がある人は、8〜10年くらいでアニメの仕事をやめるか否かで悩み始めます。キャラデザインや作監を決まったペースで引き受けるほどの能力を発揮すれば多少は紛れますが、「自分の未来」を冷静に考えられる人ほど不安になるものです。電卓を弾けば、作画だけで生きていく自分の未来の危うさが簡単に算出できますもんネ。

 

アニメーターの「役職と報酬」の頂点は、総作監とキャラデザインの兼任ですが、それを安定したペースで引き受ける人間はかなり少ないですし、絵には流行り廃りがあって一斉を風靡した人が何十年も安泰でいられるほど、アニメ業界のアニメーター事情は優しくないです。

 

アニメーターは作家性を打ち出しづらい宿命的な性質があります。漫画家、イラストレーター、画家とは根本的に違います。

 

まあ、逆に言えば、アニメーターは発注されたカットの絵を描くがゆえに、作家性の流行り廃りに左右されずに、絵を描き続けることができますが、1カットの報酬は決して十分とはいえず、低収入の危険と恐怖がつきまといます。

 

アニメーターになるのが夢だった。そして実現した。‥‥‥映画やアニメやコミックのストーリーなら、そこでストーリーは終わるのかも知れませんが、現実はその後も延々と続きます。アニメーターになってしまった後はどうするのか?‥‥という現実を叩きつけられます。

 

アニメ業界のアニメーター‥‥に限らず、様々なクリエイティブな役職の仕事は、スタッフ個々のライフプランまで提示して保証してはくれません。「仕事は出すけど、人生まで面倒はみれない」‥‥です。でもまあ、そんなのは、アニメ業界に限ったことではないですが、アニメ業界は動画が1枚200円前後(現在)だったりするので、「仕事は出すけど、人生まで面倒はみれない」感が強烈なのです。

 

アニメ制作工程で、完全出来高を体験した人ほど、「生きる」ことを痛烈に実感せずにはいられません。生まれてこのかた、一度も完全出来高を経験したことがない人にはわからぬ、「自分の存在のリアルな値段」をひしひしと実感するのです。

 

そんな鬱々とした状態を10年も続ければ、自分の存在の行き先を考えずにはいられないでしょう。10年でひとまず自分の未来を考え直すのは当然です。しかも今は大学卒が昔の高卒と同じ感覚ですから、キャリアのスタートは22歳からでやや遅いので、30歳前まで8年しか猶予がありません。

 

どんなに社会の気風や基準が変わろうと、年齢における吸収力はそんなに変わるものではないでしょうから、歳を食えば食うほど、柔軟性と吸収力は落ちていきます。会社や仕事の発注元は、当人の吸収力や成長を考慮して仕事をいれてくれるわけではないです。自分の成長は自分でプロデュースする他ないです。

 

 

 

導き出せる結論は自ずと、

 

自分の人生は他人に預けられない。自分の運命は自分で決める。

 

‥‥ということになりましょう。そうした心情を根底にハッキリクッキリと焼き付けておかないと、絵を描いて生きていくことは、どんなジャンルでも難しいでしょう。

 

結局、自分は何がやりたいのか

 

自分は何を成そうとしているのか

 

10代までは「プロのアニメーターになりたい」が「何を成そうとしているのか」の中身でも構いませんが、プロになった暁のあとは、もっと深く掘り下げる必要があります。「プロのアニメーターになりたいと思ったのは、何故だったのか」‥‥です。

 

もっと言えば、

 

なぜ、アニメに惹かれたのか

 

なぜ、アニメなのか

 

‥‥まで考える必要があります。「夢」とか「憧れ」とか、耳障りの良い言葉で自分を酔わすのではなく、夢や憧れを自分の現実の高さまで引きずりおろして直視して、それは何だったのかを考えねば、先には進めない時期がいずれはきましょう。

 

「でもさ、そんなことをせずとも、アニメーターを続けている人もいるんじゃない?」‥‥と思う人もいましょう。たしかにそうですよネ。つまり、自分の夢や憧れの正体を解明せずに、その時点で停止したまま生きて続けている人もそれなりに多いのでしょう。そして40〜60代まで到達してようやく「夢」から目覚めはじめて青ざめる‥‥なんてことがあるのかも知れません。怖い話‥‥なんですが。

 

ですから、できれば20代前半に夢なんてとっとと覚めちゃった方が良いと、少なくとも私は思います。

 

アニメを辞めて他の業種に転向するのもよし。アニメを作り続けるために、明確で実効的な方法を実践するもよし。

 

 

 

一番危ういな‥‥と思うのは、「なんとなくこの役職を続けていれば、生きていけるだろう」的な感覚ですかネ。今度は違う夢をみはじめちゃったよ‥‥という感じです。例えば「アニメの撮影監督」で死ぬまで生きていけると思うのか、ちょっと考えれば危ういことだとわかりますから、次のフェイズを自分で準備する必要があるでしょう。

 

親方日の丸の国家公務じゃあるまいし、アニメ業界の役職にどれだけの未来の身の保証があるというのか。

 

思うに、アニメ業界は、10年で辞めていく人間のサイクルも込みで、運用の目処を暗黙のうちに計算しているのでしょう。旧来のアニメ制作は何千何万と絵を描いて塗るので、どんなに綺麗事を並べても、使い捨ての人手を欲しているのだと思います。私も、自分はボロ雑巾だとやさぐれたフリーアニメーター20代の頃を思い出します。

 

業界がそんな薄情なものだとは思わなかった‥‥だなんて、あまりにも悲しい独りよがりの思い込みです。業界をなぜ信用したのか、当人の甘さもマズいのです。業界はそもそも薄情なものだと、デフォルトに設定するのが良いと思いますヨ。

 

 

 

「夢のあと」が大切だと思います。

 

夢とともに去るのか。

 

夢のあとに、新たなきっかけを掴んで、何かを成そうと思うのか。

 

実は、「何をすべきか」を見出すのも才能の1つだったりします。ですから、「未来に、自分は何をすべきか、教えてくれ」なんて他人に聞くのは、「絵の才能を与えてくれ」と言うくらい無茶なことなのです。人から言葉をもらって才能が得られるのなら、そんな楽なことはないですし、世の中は天才で溢れかえるでしょうしネ。

 

人それぞれ‥‥ですネ。自分はこの先、何をすべきか‥‥は、自分で決めるしかないです。

 

 


村を出て世界へ出る

私はアニメーターとして最初の10数年を過ごし、その次はコンポジット〜いわゆる「アニメの撮影」としてまた10数年を過ごし、その次はアニメや実写の枠を超えてさらに10年過ごしてきました。‥‥で、今はまたアニメの作画を中心にしていますが、旧来ではなく新しい技術に基づく作画で日々を過ごしています。

 

自分自身のこうした経緯は、「視点が凝り固まらない」という点で、有利だと感じています。いわゆる「作画村」「撮影村」「アニメ村」に束縛されず、異なる視点でものごとを思考したり判断することができるようになったからです。作画だけに従事していた昔の自分の思考の狭さを、つくづく思い出します。

 

特に、作画と撮影に従事したのは、アニメ作りの中で大きな収穫でした。1カットごとの、絵が生まれる一番最初と、絵を作り上げる一番最後を、作業上でまさにリアル〜現実の日々として作業して生きてきたからです。

 

どんなにグローバルな視点を心がけても、村から一歩も外に出たことがなければ、村全体の景観、村を包み込む世界全体の様子は、肉眼で見ることはできないでしょう。村を一歩も出ない人にとって、外部の全ては伝聞で人聞きの情報であり、実際に自分が体験できるのは、村の中での出来事だけです。

 

とても危ういことだと思います。視野、視界、視座が狭く低すぎます。

 

例えば、「紙はどんな部分が有利だと思うか」の問いに対して、

 

 

とある村の村人「紙と鉛筆は、使いこなす技量が高ければ、素晴らしい絵を描く事ができる」

 

とある村の村人「紙と鉛筆による今までの制作技術を踏襲する事で、既知の生産速度・生産量で作れる」

 

とある村の村人「運用コストを低く抑えられる」

 

とある村の村人「現物がそこにある‥‥という安心感」

 

 

‥‥のような様々な答えが返ってくるでしょう。村人それぞれがどの村出身かは、答えた内容を読めば、だいたい見当はつきますネ。

 

では次に、最初の村人が語った「紙と鉛筆は、使いこなす技量が高ければ、素晴らしい絵を描く事ができる」ということに対して、実際のアニメ作品の完成物において、どれだけその素晴らしさが反映されているかを聞き直すと、

 

 

とある村の村人「頑張って作業したのだから、ちゃんと反映されているはず」

 

とある村の村人「二値化しているから、紙と鉛筆である品質の差というよりは、紙の現場の速度のほうが大事」

 

とある村の村人「素晴らしい絵はペンタブでも描けるけど、紙ならではの低コストは確実に貢献している」

 

とある村の村人「確実なデータさえ揃っていれば、オリジナルが紙でもペンタブでも大差ない」

 

 

‥‥と、「村ならではの立場」が一層明確になるでしょう。

 

これを聞いて、作画村の人間は、外部の村人が以下のように思っていることに少なからずショックを受けるかも知れません。

 

 

紙の素晴らしさより速度のほうが大事なんだ

 

紙の素晴らしさより環境コストのほうが大事なんだ

 

紙の素晴らしさよりも画像データのほうが大事なんだ

 

 

しかし、これは一歩外に出て、世界を歩いてみれば、やがて察してわかることでもあります。自分の打ち込んでいる物事に対して、周りがどれだけ冷めて見ているか、世の残酷さを、村から出ることで叩きつけられ打ちのめされるのです。

 

打ちのめされて立ち上がれなくなるような場面から、次の「自分」がスタートします。村から外にでることで、かつて住んでいた村の様々な問題点も見えてきます。他の村の価値観や方法論も吸収します。

 

そして「村の特産物」の何が有効で、何が無効なのかを、改めて冷静に判断できるようになるでしょう。守り抜く点、改善して変えていくべき点など、村から外に出なかった当時は見えなかった事が、面白いほどに見通せるようになります。

 

 

 

まあ、村から一歩も出たくない人を、無理に引き摺り出す必要はないでしょう。

 

村に通じる道を閉鎖して「新しいこと、お断り。昔のままでいきます」と立て看板を立てるのも、村人全員がそう思うのなら、無理にブルドーザーで看板をなぎ倒す必要もないです。

 

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

 

そして悲しくうたふもの

 

よしや

 

うらぶれて異土の乞食となるとても

 

帰るところにあるまじや

 

 

村を出て、新しい世界を渡り歩いたのちに、もう村には戻れなくなっていたとしても、それはそれで受け入れるべきことです。だって、もう昔の感覚や価値観で済まない自分が、いまここにいるのですから、自分で自分を閉じ込める必要はないですよネ。

 

村から一歩も出ず、村の価値観だけで生きて行こうとする人に、どんな言葉をかけられるでしょうか。

 

村を出るのも自由だし、留まって最後まで生きるのも自由。

 

 

 

それに作画の村は1つではないです。作画を含めた全体の視野でアニメを作る、新しい村だって作れるんじゃないですかネ。「作画」そのものは、古き村だけが占有する特産物じゃないですからネ。

 

最近リバイバル上映した「999」のゴダイゴの主題歌でも「古い夢は置いていくがいい。再び始まるドラマのために。」ともありましたよネ。

 

 


泥縄と命綱

新しい映像技術を確立する際は、どんなに前もって準備してリサーチしても、泥縄式の状況に巻き込まれていきます。

 

事前に調べておけば‥‥というのは、確かにあります。HDMIケーブル1本にしても、「ハイスピードケーブル」だけを確認するだけじゃ、リサーチ不足でしょう。

 

しかし、どんなに下準備を積み重ねても、泥縄になる場面は回避できません。全て計画通りに事が進むと思うのは、「あんたは何年生きてきたんだ?」と、逆に失笑の的です。成功の前例がないから判断できない‥‥なんて、どんな素人だって可能ですヨ。成功例があるからOK、前例がないからNG‥‥なんて、凡人そのものです。

 

前例のないところから、成功のカギを見つけ出すのが、プロの仕事でしょ?

 

むしろ、自分に絡んでまとわりついた泥縄を、丁寧に1つずつ解いて、編み直して、強く頑丈な命綱にもできるのです。

 

泥縄式状況にハマった時は、泥縄から抜け出すことだけに終始せず、ちゃんと泥縄を解いて束ねて洗浄して、新たな命綱を編む材料として有効活用すれば良いのです。そうすれば、制作集団はどんどん強くなれます。

 

泥縄式を「単なる災難」として捉えるのは、あまりにも愚か。

 

 

 

失敗例から学べることは格別に多いです。

 

成功例は、確かに成功例を体現したわけですから相応の成功のメソッドは得られますが、同時に、成功したことで過信してしまう、非常に危うい側面も併せ持ちます。

 

成功例に伴う技術過信は、負け戦の典型、先の大戦でドイツや日本での「技術立国が陥った大きな落とし穴」です。例えば、パンターがT-34に1:10のキルレシオを誇ったとしても、相手が12台で迫ってきたら、2台のT-34が戦線を突破するということですし、優秀な日本パイロットがドッグファイトで空の戦いを制覇しても、サッチウィーブによって一人また一人と歴戦パイロットを失えば、やがて劣勢に傾きましょう。

 

日本のアニメ業界は、「アニメと言えば日本」というくらいに大成功を収めたのは、誰も動かしようがない事実、成功事例でしょう。だからこそ、とてつもない負け戦が、これから先に待ち受けているように思えてなりません。

 

日本のアニメーターや美術スタッフ、色彩や撮影スタッフの技量を、まるで所与の日本の財産であるかのように錯覚して、かつての成功例に酔いしれてドカスカジャンジャン、アニメを濫作乱造する状況は、後の大カトストロフィを暗示しているように思いませんか?

 

現在の現場がハマっている泥縄式地獄で、その泥縄を掴んで解いて編み直して、新たな未来の命綱にできると思うのですが、当人らが泥縄を腫れ物のように扱うレベル止まりではどうにもならないですよネ。

 

 

 

私の在籍する小さな技術集団は、まさに技術立国的な立場ですが、ゆえに、技術を打ち出して切り拓いていく意識と同等に、技術だけでは立ち行かなくなる状況も絶えず意識しています。

 

では人海戦術を正義とした意識に転向すべきか? ‥‥まあ、日本じゃソレは無理ですよネ。

 

アメリカや中国、インドのようにはいかんです。国土も人口も少なく、資源も乏しい。

 

だったら、泥縄も資源として活用したいと、少なくとも私は思います。新しい現場での様々な困難と泥縄式対応も、糧として蓄えて、形を変えてエネルギーとしたいです。

 

技術で身を立てるということは、技術を過信することに非ず。

 

泥縄も場合によってはやむなし。むしろ、回り道や泥縄によって得られるアイデアは豊富だと、心得るべし‥‥ですネ。

 

 

 


ペーパーロス

私ら技術グループはいわゆる「ペーパーレス」になって久しいです。なので、作業流通上で紙の何かを手渡されると結構「ギョッ」とします。元禄小判でお会計するような気分になる‥‥と言いますか、価値が高いのは判っているのですが、現在の流通貨幣に換金しないと使えないので、扱いに困る‥‥という感じです。‥‥で、その換金の手間に大きな労力を割かれます。

 

考えてみれば、仕上げ以降がコンピュータ作業かつ二値化主流となったデジタルデータ運用で、流通する円盤や配信データもデジタルとなった時点で、紙を使う根本的な意義はかなり危うくなっていたのだと思います。紙と鉛筆の存在を本当に大事に大切に思うのなら、フィルム撮影台を捨てるべきではなかったですし、セル用紙とセル絵具も存続すべきだったのでしょう。

 

今まで何度もこのブログで書いてきたことですが、私は2004年頃までは、フィルムとデジタルデータは共存するものと考えていました。すなわち、紙と鉛筆と絵具で作り続ける流派(=当時は多勢)と、コンピュータを足場にしてデジタルデータ運用する流派(=当時は少数)の2勢力が、それぞれの特質を活かして未来の道を歩んでいくと思っていました。当時の私は、「デジタルデータ運用の少数派」として、足場を徐々に固めて、荒波に負けないように未来を切り開いていこうと、ココロの中で誓っておりました。

*注釈)分岐には2分岐ありまして、フィルムかデジタルデータか、階調トレスか二値トレスか‥‥で、当時の私はデジタルデータと階調トレスの組み合わせを自分のメインと考えていました。

 

しかし、当時の未来=つまり現在の状況は、この通り‥‥です。かつてのブルーオーシャンはレッドオーシャンにあっという間に染まりきってしまいました。

 

私個人の感情はまあどうでもいいです。冷徹に構造を考えた時、紙は制作現場にこの先「どうしても必要なものか」を考えます。

 

 

 

作品完成形の納品形態がデジタルデータになった今、アナログデータの介在するポイントはどこなのかを探れば、自ずと紙の存在意義も見えてきます。

 

絵を描く作業において、紙と鉛筆を用いる出発点は、企画書の絵やイメージスケッチでしょう。その段階においては、ぶっちゃけ、どんな道具を用いても良いと思います。イメージの翼を大きく広げて飛び立とうとする時、まずは描き手の描きやすい道具を使って翔けば良いでしょう。無理に使い慣れない道具を使って小ジャンプしかできないのでは企画全体のボルテージも下がるでしょうし、たとえiPadやCintiqを日頃使っていても、新たな切り口を自分の中で見出すために、あえて旧来の道具〜例えばアクリルガッシュを使っても良いと思います。

 

 

 

では、キャラ設定など、実際の生産体制で用いられる「設定画」「設計図」はどうでしょうか。

 

私は前々から多くの作品のキャラ設定に対して、「二値化の作品なのに、なぜ階調トレスでしか実現できないデザインをするんだろう」と疑問に思っていました。それこそ極端な話、今の標準的な制作運用による作品のキャラ設定は、線画の時点で二値化してスムージングを処理して配布したほうが、実効的だと思います。

 

「そんなのやだ。自分の描いたキャラ設定は、自分の線のまま、配布してほしい」

 

‥‥だなんて、あまりにも当人の思い込みが過ぎます。実際の制作運用で二値化した時点で鉛筆線のニュアンスは失われるのに、作画する誰もが閲覧参照するキャラ設定が、階調トレスのニュアンスたっぷりに描かれていては、混乱の大原因にもなりましょう。制作運用上で必要のない鉛筆線ニュアンスであることを知らずに、キャラ設定の鉛筆線ニュアンスを踏襲すべく、作画する人間が一生懸命時間を使っていたら、泣けてくるほどの「お金をドブに捨てる」行為です。

 

経緯はどうあれ、二値化の道だけを選択して今に至るわけですよね? 階調トレスでしかできないニュアンスは、キャラ設定の時点から除外すべきだと、私は思いますけどネ。

 

二値化トレスは、70〜90年代に比べて飛躍的に増えたテレビアニメの制作本数に、確実に貢献しています。制作運用を動仕の面でみれば、必要となる意識・アクションは「二値化に最適な道具と手段を選択する」ことです。

 

少なくとも二値化トレス作品においては、「多彩な描線の表現能力」に関してはほとんど存在価値がありません。二値化プロセスが控えているのに、階調トレスありきの意識で描くのはナンセンスでしょう。

 

 

 

となると、描いた先から鉛筆の階調トレス線になってしまう、紙と鉛筆の「存在意義」はどこにあるでしょうか。

 

描線の表現に無関係な部分、つまり、「紙の外側の事情」です。

 

「運用コスト」という点では、まだまだ格段の優位があるでしょう。特に作業発注側から見れば、「作業者が当然のように所有しているであろう作画机と鉛筆とタップと消しゴムと定規」はスルーして、用紙だけを供給すれば良いので、これほどの「低コストな環境」はないです。

 

もう少し丁寧に言えば、フィルム時代に築き上げられた紙運用の「インフラ財産」を業界は使い続けることで、低コストを実現しています。とは言え、使い続けるだけでメンテナンスをしないので、インフラはどんどん痛んで現在に至ります。アスファルトが陥没した危険な道路もあっちこっちにあります‥‥よネ。

 

「そんな‥‥。紙と鉛筆が、低コスト目的の手段に成り果てるなんて‥‥」

 

‥‥と失望したくもなりましょう。しかし現実を見れば、「二値化トレスのための格段に安価な手段」であることを、誰が否定できましょう。実効的、実質的な観点で「紙と鉛筆でなければならない理由」を、現在の業界制作運用において「低コスト目的」以外で、誰が証明できるのでしょうか。

 

人材を育てるのだってコストが絡みますから、「紙時代の学習指導要領を踏襲する」ことで確実にコストを抑え続けています。指導法の体系を確立するのって、相当大変な取り組み、偉業とも言える内容ですからネ。フィルム時代に各現場で実践されてきた指導法がバブルソートで序列化し、その指導法の「財産」を業界は使い続けてコストを抑えているわけです。

 

紙がどうしても必要である理由。

 

もし紙と鉛筆を自分のステータス・誇りと思うのなら、「低コスト以外の確固たる理由」を高らかに掲げて宣言すべきでしょう。

 

 

 

最初に戻って、今回のブログの主題、「紙は制作現場にこの先どうしても必要なものか」は、

 

  • 旧来の作業環境やインフラを利用して低コスト運用を指向する場合
  • 紙と鉛筆でなければ映像表現が成り立たない作品制作の場合

 

‥‥の2つに絞られると思います。少なくとも私はそう思います。

 

つまり、デジタルデータ運用のインフラが整い、各スタッフは当然のようにパソコンと液タブを所有し、二値化やベクタートレスや階調トレスまで自在に選択できるように技法も定着した時、紙の存在は相当危うくなります。ネットによるデータ送受ならば、紙素材を運搬する際の制作進行さんの交通事故も未然に防げましょう。

 

しかしまあ、まだ全然、インフラも環境も技法も甘いですから、時間的猶予はあるでしょう。どれだけの猶予かは、3年なのか、6年なのか、10数年なのか、何とも読めません。日本て、どんどん貧乏になっていますから、コストを投入して環境を更新することが難しい現状があります。

 

 

 

最近、とあるアニメーターさんの画集を見て、かつて私も絡んだ作品の版権を久々にみました。

 

そこには、紙でなければならない理由、階調トレスでなければならない必然性が溢れており、「紙と鉛筆と階調トレス」を作品でまっとうした「誇り」のようなものを感じました。その当時のチームワークも最高でしたしネ。線画を描いたアニメーターはもとより、背景美術、色彩設計、コンポジットの全てのスタッフが、必要不可欠の無二の存在であることを証明してくれているかのようでした。

 

「どうすれば、あの繊細な感じ、時にしなやかで美しく、時に豪胆で力強い感じになるんだろう」‥‥と、今の二値化トレスに染まった人がもし感じたならば、即答できます。「線が、まず、違います」と。

 

紙という素材、道具、手段。鉛筆という素材、道具、手段。それらが実現する絵の表現。

 

直近の10年間において、業界の作画に関わるほとんどの人が、意識していなくても実は、そうした点=紙が紙である理由をないがしろにしてしまったのです。経緯はともかく、結果的に。

 

「デジタル作画」が徐々に台頭してきて、ようやく、紙が紙として存在する意味に「気づいた」のだとしたら、そのことに今まで気づかずに「ただ単に目の前にある紙」としか認識できず、「存在の意味に、気づかなかった自分に気づく」べき‥‥と感じます。

 

自分を風上において状況だけを見下す位置にいるばかりでは、何の学びも得られず、同じことを繰り返すばかりです。状況を分析して批評して「解った気」になっても、依然として何も状況を動かせない虚しい自分のままです。

 

なので私は、状況に飛び込んで、泥縄に絡め取られながらも、生きていきたいと思います。階調トレスをしぶとく捨てずにきて、今では毎日階調トレスと格闘する日々です。「紙と鉛筆のほうが表現として優れている部分」も感じつつ、今はiPad ProとApple Pencilを始めとした全行程ペーパーレス作業に毎日没頭しています。

 

線画を描きながら、企画の原点から、コンポジット・編集後の映像の1ピクセルまで、シームレスにシーケンシャルにイメージすること。それが未来の映像制作構造で正当なポジションと金額を得るためのアニメーターの資質と私は考えます。作画村に閉じこもって、紙作画だデジタル作画だと論争している時点で共倒れだと思いますヨ。線画の価値観と視野しか持たない「線画馬鹿」になったら、Future is Blackです。

 

 

 

 

紙をロスすることが一番嫌な人々こそ、紙をロスしない大きな必然性を自分たちで確立すべき時が迫っているように思います。「昔からそうだったんだから、未来も続けてくれ」なんて泣き脅しても、どうにもなりません。

 

このアニメを作るためには、紙はどうしても必要だろう? と、まずは映像表現で示すことが、紙を使う人間に求められているのだと思います。

 

でさ‥‥。

 

コンピュータ機器で絵を描く方法にシフトした人間も「今までの紙作画と同じことができます!」なんて言ってたら、映像表現上の特性をまるでアピールできてませんよネ。いわゆる「紙の代用品」ですワ。

 

そのあたり、「デジタル」を使う作画の人間も、自らの道具と技法によって、映像表現で示すことが求められている‥‥と思いますヨ。

 

紙と鉛筆でもできるじゃん‥‥と言われたら、「デジタル作画」の映像表現的な存在意義がないでしょ。

 

描き手は、存在の必然性を表現技術で証明すべき‥‥ですネ。

 

 

 

 



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